fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
プレジデンシャル・スイートの分厚いカーテンの隙間から、白々と朝の光が差し込み始めている。
静寂に包まれた室内。乱れに乱れきったキングサイズベッドの上で、蒼崎橙子は重い瞼をゆっくりと押し上げた。
「……っ、ぁ……」
身じろぎした瞬間、全身を貫く激しい気怠さと、下腹部の奥底でジンジンと脈打つ重たい熱の疼きに、彼女は思わず顔をしかめた。
シーツの波間に横たわる自らの身体を見下ろす。白かった素肌は、首筋から胸の谷間、そして腰のラインに至るまで、信じられないほど無数の、そして強烈な赤い愛の印で埋め尽くされていた。
(……私は、なんという失態を……っ)
昨夜の狂おしい記憶が、脳裏に鮮明にフラッシュバックする。
「味見」のつもりだった。彼から有益な情報を引き出し、少しばかりその「デタラメな熱」の正体を解剖学的に味わって、時間が来れば冷徹な魔術師として立ち去るつもりだったのだ。
だが、結果はどうだ。
一口味わっただけで、彼女の明晰な頭脳は彼から放たれる圧倒的なオスのフェロモンと体温の前にショートし、気づけば自ら彼にすがりつき、朝まで何度果てたかもわからないほどに嬌声を上げて快楽を貪り続けていた。妹の青子が完全に骨抜きにされた理由を、この身をもって、これ以上ないほどに理解させられてしまった。
(……いや。まだ、間に合う。私の自己(エゴ)は、まだ完全に溶けきってはいない)
橙子は、荒い息を整え、震える腕で上体を起こした。
隣には、自分をここまでめちゃくちゃにした張本人である桜色の騎士が、まだ安らかな寝息を立てている。
(眼鏡だ。あの眼鏡をかければ、私は再び冷徹な『蒼崎橙子』に戻れる。この男の熱を切り離し、何事もなかったかのようにこの部屋を出るんだ)
橙子は、サイドテーブルの上に置かれた赤いフレームの眼鏡へと、必死に手を伸ばした。
あと数センチ。あの防壁(スイッチ)に指先が触れれば、私の勝ち――いや、引き分けに持ち込める。
だが。
「――おはよう、トーコ。まだ、六時になってないよ?」
「なっ……!」
背後から伸びてきた大きく逞しい手が、眼鏡に触れる直前だった橙子の華奢な手首を、ガシッと優しく、けれど絶対に逃げられない力強さで捕らえた。
振り返ると、微睡みなど微塵も感じさせない、底抜けに明るく純粋な紫水晶の瞳が、至近距離で彼女を見つめ返していた。
「あ、アストルフォ……お前、起きて……っ」
「トーコ、すっごくいい匂い。昨日の夜、あんなにいっぱいいっぱい泣いてたのに、まだボクの熱が欲しいの?」
「ちがっ……放せっ! 私は、もう……っ」
橙子が抗議の声を上げるより早く、アストルフォの腕が彼女の腰を引き寄せ、再びふかふかのベッドの上へと引きずり込んだ。
背後から完全にホールドされる形になる。彼のがっしりとした胸板から、昨夜彼女を狂わせた規格外のオスの体温が、直接背筋に流し込まれた。
「ひゃうっ……!! ぁ、ああっ……!」
眼鏡(スイッチ)をかけていない無防備な状態の彼女にとって、彼の熱は致死量の劇毒だ。
彼女の魔術回路がカッと熱を持ち、理性が再び白く濁り始める。
(だめだ、このままじゃ、私という存在が……っ)
橙子は必死に手を伸ばそうとするが、アストルフォはその手を優しく握り込み、自らの胸へと引き寄せた。
「眼鏡、かけちゃだめだよ」
彼の低い、甘い声が耳元で鼓膜を震わせる。
「だって、今のトーコ、すっごく可愛くて綺麗だもん。ボクの前では、ずーっとそのままの、あったかいトーコでいて」
「んんひぃッ……!! ぁ、あ……っ!」
彼の手が、橙子の柔らかな腹部をなぞり、そのまま昨夜の熱をまだたっぷりと宿している秘所へとじっとりと這い下がる。
(ああ……っ。思考が、溶ける……っ。……この男の熱に触れられただけで、お腹の奥が……もっと奥まで満たしてほしいって、勝手に……っ)
冠位人形師としてのプライドが、音を立てて崩れ去っていく。
彼女は、彼がもたらす無条件の肯定と、底なしの快楽の前に、自分がただの一人の孤独な女であったことを完全に認めざるを得なかった。
妹たちや、時計塔の連中から恐れられてきた苛烈な魔術師。しかし、この太陽のような騎士の腕の中では、ただ彼に愛され、熱を注がれることだけを乞う、一匹の無力な雌にすぎないのだ。
「あぁぁっ……! アストルフォ……っ、私を……私の、全部を……っ」
「トーコ、大好きだよ。ボクの熱で、トーコの中、いっぱいいっぱいに満たしてあげる」
橙子はもはや抵抗することをやめ、自ら身をよじって彼の逞しい身体へと擦り寄った。
赤い眼鏡はサイドテーブルの上に放置されたまま。
朝の光の中で始まった第二戦。それは、蒼崎橙子という強固な自己の境界線を完全に消し去り、彼女がアストルフォの愛の沼へと心の底から身を投じる、完全陥落の儀式だった。
「はぁっ、あ……っ! アストルフォ……っ! もう、どうにでもなれ……っ! 貴方なしじゃ生きられない身体に……めちゃくちゃにして……っ!」
「んっ……トーコ、すっごく気持ちいい……!」
スイートルームに、大人の女の狂おしい嬌声と、甘い水音が再び響き渡る。
彼女の冷徹な防壁は完全に破壊され、骨の髄までアストルフォという太陽に溶かされてしまったのだった。
***
――そして、数十分後。
橙子が完全に理性を手放し、アストルフォの胸の中で蕩けきった幸福な涙を流して微睡んでいた、まさにその時。
『ズドォォォォォンッ!!!』
プレジデンシャル・スイートの分厚いオーク材の扉が、凄まじい爆発音と共に木端微塵に吹き飛んだ。
「きゃあっ!?」
「わあっ!? なになに!?」
土煙と魔力の残滓が渦巻く入り口に、二つの凶悪なシルエットが立っていた。
「……なるほど。うちの馬鹿旦那を誑かした泥棒猫は、やっぱりあんただったってわけね……橙子ッ!!」
蒼崎青子が、右手に破壊の魔力をバチバチと迸らせながら、般若のような――いや、愛する夫を寝取られた妻特有の凄絶な修羅の顔で睨みつけている。
そして、その隣。
「……私の王子様の身体に、薄汚い指で触れるなんて。……万死に値するわね、お人形さん?」
沙条愛歌が、一切の感情を排した全能の瞳を細め、空間そのものを圧縮するような絶対的な殺気を放っていた。
「あ! 青子! 愛歌! お迎えに来てくれたの!?」
アストルフォは、修羅場という概念が全く理解できていないのか、シーツを腰に巻いた姿でベッドから身を乗り出し、満面の笑顔で手を振った。
「あなたはちょっと黙って」「あんたはちょっと黙ってなさい!!」
青子と愛歌の声がハモる。
その(怒)声に、橙子はゆっくりと上体を起こした。
彼女の身体にはまだアストルフォの熱が色濃く残り、顔は情欲と幸福で極限まで紅潮している。
しかし、彼女はサイドテーブルの赤い眼鏡に手を伸ばすことはしなかった。
「……あら。随分と騒々しいお迎えね、青子。それに、そっちの全能のお嬢ちゃんも」
橙子は、シーツで豊かな胸元を隠しながら、ふわりと艶やかな――そして、同性としてこれ以上ないほどに優越感に満ちたマウントの笑みを浮かべた。
「昨日の夜から今朝まで、ずっと彼に抱き潰されていてね。腰が抜けそうだから、もう少し静かにしてくれないかしら? ……ふふっ。青子がこれほどまでに彼に狂わされる理由、よーくわかったわ。本当に、うちの『旦那様』はデタラメね」
「だっ、旦那様だとぉぉぉっ!? この泥棒猫ォォォッ!!」
「……消えなさい」
ロンドンの高級ホテルの最上階で、魔法使いと根源接続者、そして冠位人形師による、一人の規格外の騎士を巡る次元を超えた痴話喧嘩(物理)が、今まさに幕を開けようとしていた。