fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ガラス屋根を叩く雨音だけが響く温室。
むせ返るような薔薇の香りと、すぐ目の前から伝わってくる常人離れした高い体温の中で、桜・エーデルフェルトはどれくらいの間、彼の胸に顔を埋めていただろうか。
「……あ」
我に返り、自分が初対面の、しかも他陣営の英霊の胸で声を上げて泣いていたという事実に気づいた瞬間、桜の頬は羞恥でカッと熱を持った。
慌てて身を引こうとするが、アストルフォのしなやかで力強い腕は、彼女の華奢な背中をしっかりと抱きとめたままで、容易には離してくれない。
「泣き止んだ? ……ふふっ、おめめが真っ赤だ。でも、やっぱりキミは笑ってる方が絶対に可愛いよ」
アストルフォは、大きな手で桜の目元に浮かんだ涙を優しく拭い取った。
指の腹が柔らかな肌を擦るたび、ぞくりとするような熱が桜の背筋を駆け抜ける。彼から漂う、花のような甘さと微かな汗の匂いが混じり合った香りが、呼吸をするたびに肺の奥深くまで満ちていく。
「……っ、離して、ください。私、見苦しいところを……っ」
「見苦しくなんかないよ。すごく綺麗だった。ボク、キミが素直に泣いてくれて嬉しかったな」
一切の嫌味もない、純度百パーセントの微笑み。
しかし、桜はその真っ直ぐな瞳を正面から見つめ返すことができず、ふいっと視線を逸らした。
彼女の胸の奥で、先ほどまで彼に感じていた絶対的な安心感とは別の、ひどく冷たくて重い感情――『諦観』と、そして微かな『嫉妬』が鎌をもたげ始めていたからだ。
「……嬉しかった、なんて……ひどい方。あなたは、ただの気まぐれで私に優しくしただけでしょう?」
「気まぐれ? ううん、ボクはいつでも本気だよ!」
「嘘です。だって……あなたには、蒼崎先生がいらっしゃるじゃないですか」
絞り出すように紡がれたその言葉は、温室の甘い空気を一瞬だけ冷やした。
名門エーデルフェルトの次期当主として、情報収集は怠っていない。あの規格外の魔法使いである蒼崎青子が、最近見目麗しい英霊を連れて世界中を旅しているという噂は、時計塔の末端にまで知れ渡っていた。
そして、今日。館の入り口で、二人がどれほど親密な空気を纏っていたか、桜はガラス越しに嫌というほど見せつけられていたのだ。
「蒼崎先生は、とても強くて、美しくて、そして自由な方です。……私のように、名門という鳥籠の中でしか生きられない、中身が空っぽの作り物なんかとは違う。あなたの隣に立つ資格があるのは、先生のような方です」
桜は、自分の言葉で自分の心を切り裂くように、自虐的に微笑んだ。
誰かに優しくされても、結局その人は自分だけのものにはならない。自分は常に「二番手」か「代用品」でしかない。遠坂の家から手放されたあの日の記憶が、彼女の自己評価をどこまでも低く縛り付けている。
他人の恋人に心惹かれ、一瞬でも独占したいと願ってしまった自分への激しい嫌悪感が、桜の心に再び厚い壁を築き上げようとしていた。
しかし。
相手は、『理性蒸発』のスキルを持つ、常識の枠組みから完全に外れた騎士だった。
「……青子のこと、好きなのかって?」
アストルフォは、桜の悲痛な拒絶を前にしても、全く動じることはなかった。
むしろ、彼は桜の腰に回していた腕にさらに力を込め、二人の身体の間にあった僅かな隙間を完全にゼロにした。
「あっ……! な、にを……っ!」
「うん、大好きだよ。青子は強がりだけど本当はすごく優しくて、ボクの大切な人だ」
あまりにもあっさりとした肯定。
桜の胸に、チクリと鋭い痛みが走る。ほら、やっぱり。彼はただ、可哀想な令嬢を慰めただけなのだ。そう思って、無理やりにでも彼を突き飛ばそうとした。
「……それに、ルーマニアにいるフィオレも、フランスで待ってるレティシアのことも、ボクはみーんな大好き! 彼女たちも、ボクの大切な女の子だ!」
「…………え?」
桜の思考が、完全に停止した。
蒼崎青子だけではない。他にも複数の女性の名前を、さも当然のように、一切の悪びれる様子もなく笑顔で口にしたのだ。
「あ、あなた……自分が何を言っているのか、わかっているのですか……? そんなの、ただの不誠実……っ」
「不誠実? なんで? ボクは、彼女たち全員を本気で愛してるし、全員を幸せにするって決めてるよ! 誰か一人を選ぶなんて、そんな寂しいこと、ボクにはできないもん!」
人間の持つ一夫一妻制の道徳観や、魔術師としての血の純潔、独占欲。そういったありとあらゆる「常識」が、アストルフォの中には存在しない。
ただ「愛おしいと思った相手を、全力で愛する」。その途方もなく巨大で、規格外の愛情のキャパシティが、そこにはあった。
そして、アストルフォの顔からふっと無邪気な少年の笑みが消え、明確な熱を孕んだ『オス』の表情へと変わった。
「だからね、桜」
初めて、彼が名前を呼んだ。
その低く、甘く、鼓膜を直接撫で回すような響きに、桜の心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。
「ボクは、青子のことも好きだけど……今、この瞬間にボクの腕の中で震えてる『キミ』のことも、同じくらい……ううん、それ以上に、大好きなんだ」
「っ……!」
アストルフォの手が、桜の背中からゆっくりと這い上がり、彼女の艶やかな黒髪をすくい上げるように撫でた。
そのまま、彼の手のひらが桜の頬を包み込み、熱い親指が彼女の震える下唇をそっと押し開く。
「青子がいようと、他の誰がいようと関係ない。キミが寂しいなら、ボクがその空っぽの心を全部、甘い熱で満杯にしてあげる。……キミのこと、ボクだけの特別なお姫様にしてあげるよ」
「あ、アストルフォ……さん……っ」
頭では、そんな無茶苦茶な理屈は間違っていると警鐘を鳴らしている。
しかし、彼から発せられる圧倒的な肯定感と、女としての本能を根こそぎ奪い去っていくような強烈なフェロモンに、桜の身体は全く逆の反応を示していた。
彼に触れられている頬から、そして腰から、じんわりと甘い痺れが全身に広がっていく。膝の力が抜け、彼のがっしりとした身体にすがりつかなければ立っていられない。
「キミは、どうしたい? ボクに、このまま置いていってほしい?」
意地悪く、けれど極上に甘い視線が、桜を射抜く。
至近距離で交差する視線。互いの吐息が混じり合い、温室の湿った空気が、さらにじっとりと濃密な熱を帯びていく。
もはや、逃げ道はなかった。いや、最初から逃げる気など、桜の中には存在しなかったのかもしれない。
「……いかないで」
微かに震える声で、桜はついに白旗を揚げた。
理屈も、嫉妬も、令嬢としての矜持も、すべてが彼の途方もない愛の海に呑み込まれてしまった。
「私を……私だけを、見て……っ。私に、あなたの熱を……教えて……っ!」
その懇願の言葉を合図に、アストルフォの唇が、桜の唇を深く、そして情熱的に塞いだ。
「んっ……!」
ちゅっ、と淫らな水音が、雨音に混じって温室に響く。
最初は確かめ合うような優しいキスだったが、桜が彼にすがりつくように自ら口を開いた瞬間、アストルフォの滑らかな舌が、彼女の無防備な口腔内へと容赦なく侵入してきた。
「んんっ……ふぁ……ぁ……アストル、フォ……っ」
魔術的な修練を積んできた桜であっても、英霊である彼がもたらす物理的な快感には抗いようがなかった。
舌と舌が熱っぽく絡み合い、甘い唾液を交換し合う。息を継ぐ暇も与えられないほどの深い口付けに、桜の視界が白くチカチカと明滅する。
彼のがっしりとした胸板が、桜のドレス越しの柔らかな膨らみに押し付けられる。
「はぁっ、んちゅ……あっ、だめ……息が……っ」
「桜……キミ、すごく熱い。こんなに震えてる……可愛いよ、ボクの桜……っ」
唇がわずかに離れ、銀の糸が艶かしく引かれる。
アストルフォの熱い吐息が、桜の首筋にかかる。彼の手が、桜の紫色のドレスの背中にあるリボンへと、ゆっくりと伸びていった――。