fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
――西暦2017年、初夏。日本・東京。
湿気を帯びた極東の空気が、超音速プライベートジェットから降り立った四人を包み込んだ。
ロンドンから手配していた都内一等地の超高級ホテルのスイートルームにチェックインした直後、アストルフォは大きな窓から広がる高層ビル群を見下ろし、目を輝かせた。
「わあーっ! 日本、すっごく久しぶり! 前に来た時は凛や桜の生まれた冬木だったけど、東京もすっごく大きくてキラキラしてるね!」
かつて、冬木の街を騒がしくも温かく駆け回った記憶。あの時はまだ、彼を取り巻く「家族」は今ほど多くはなかった。
10年以上の時を経て、再び訪れた極東の地。彼の背中からは、愛する妻たちと子供たちで溢れるエーデルフェルトの魔窟から持ち込んだ、無尽蔵の肯定感と底抜けに明るい太陽の熱量が、むせ返るような薔薇の香りと共に放たれている。
「……はぁ。あんたのその真っ直ぐすぎる熱、この国の気候だと余計に肌にまとわりついてくるわね。おかげで、エアコンが効いているのに妙に身体が火照るわ」
蒼崎橙子が、赤いフレームの眼鏡を中指で押し上げながら、首元のタイトスーツのボタンを一つ外した。
彼女は冷静を装っているが、視界の端にアストルフォを捉えるたび、ロンドンで彼に理性を焼き尽くされた夜の記憶が蘇り、太ももの内側が微かに、けれど確実に熱を帯びて疼いていた。
「橙子、暑いの? 日本の夏は蒸し蒸しするからね。ボクが扇いであげる!」
アストルフォが無邪気に駆け寄り、備え付けの団扇でパタパタと橙子を扇ぐ。
「……っ、馬鹿。お前の匂いがダイレクトに来るだろうが……。やめなさい、仕事に集中できなくなる」
橙子は顔を背けながらも、彼の体温が混ざった風を吸い込み、小さく甘い息を吐き出した。
「ふふっ。本当に、王子様ったら罪作りなんだから」
沙条愛歌が、ホテルのベッドに優雅に腰掛けながら、一切の感情を排した金色の瞳をトロンと甘く濁らせる。
「王子様の熱に当てられたいなら、夜まで我慢しなさいな、お人形さん? 今は、私の世界を濁そうとする『虫』の駆除方法を考えるのが先よ」
愛歌の言葉に、部屋の空気が一瞬だけピリッと引き締まった。
「……ええ。愛歌さんの言う通りです。調査結果を共有しましょう」
黒い法衣姿のシエル――今回、教会の目を欺くため、過去を乗り越えた証である『エレイシア』の名を名乗る彼女が、テーブルに分厚い資料を広げた。
「標的は新興宗教団体『真言立川詠天流』。教祖、殺生院キアラ。……現在、彼らの本拠地は関東近郊の山中にある巨大な施設に指定されていますが、その内部構造は完全に異常です」
シエルは、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせた。
「物理的な武装は皆無。しかし、施設全体を覆う洗脳結界……いや、『魅了(チャーム)』の術式が、常軌を逸しています。信徒たちは強制的に従わされているのではなく、自らの意志で、喜んで教祖という名の『胃袋』に溶け込もうとしている。まるで、羽虫が自ら炎に飛び込むように」
「ああ、最悪のパターンだね」
橙子が、タバコに火をつけて紫煙を吐き出す。
「他者を自分を満たすための『救済すべき獣』としか見ていない、究極の唯我独尊。本物の菩薩気取りの魔性だ。……もし、ここに常識的な倫理観を持った魔術師や、使命感に駆られた教会の代行者が乗り込んだら、どうなると思う?」
橙子の問いに、シエルが静かに答える。
「……信徒たちを救出することは不可能です。彼らはすでに、教祖への依存で自己を完全に溶かしきっている。真っ当な手段で事態を解決しようとすれば、信徒ごと施設を物理的に殲滅するしか道はない。……そして、その凄惨な業を背負わされた者は、彼女の『慈愛』という名の底なし沼に絡め取られ、精神を根底から腐敗させられてしまうでしょうね」
それほどまでに、殺生院キアラという存在は、敵対する者の理性や敵意、あるいは正義感すらも自らの快楽(エサ)へと変換してしまう『愛欲の獣』の片鱗を孕んでいた。
「だからこそ、私たちが来たんだ」
橙子が、視線をアストルフォへと向けた。
「正義でも、魔術の理でも対抗できない、自己愛の化け物。……これを真正面からぶち壊せるのは、あんたのその『デタラメな太陽の熱』だけだ。……信徒を皆殺しにするんじゃなく、教祖そのものの唯我独尊の殻を内側から溶かし尽くせる、規格外のオスにな」
「うん! 任せて!」
アストルフォは、資料に写る妖艶な教祖の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「このキアラって人、すっごく寂しいんだよね。誰も自分のことを、普通の『女の子』として見てくれなくて。だから、ボクがいっぱいいっぱいお話しして、ぎゅーってして、あっためてあげる!」
「……ふふっ、本当に、うちの旦那様は最強の特効薬(毒)ですわね」
シエルが、愛おしそうに微笑んでアストルフォの頬を撫でる。
「では、作戦ですが……私が、まずは一般の求道者を装って外堀から潜入します。結界の基盤構造を解析し、彼女の魔性の届かない安全ルートを確保します。橙子さんは魔術的なバックアップを。愛歌さんは……」
「王子様に危険が及ぶような物理的な障害があれば、私が『なかったこと』にしてあげるわ」
愛歌が、恐ろしいほどの全能の威圧感を、甘い微笑みの中に隠して言い放つ。
「ありがとう、みんな! ボク、絶対キアラと仲良くなってみせるからね!」
太陽の騎士の無邪気な宣言と共に、世界最高峰の女たちによる極秘の潜入工作が始まった。
***
数日後。真言立川詠天流、本部施設。
山中に隠されたその豪華絢爛な施設の外周で、シエルと橙子は、独自のルートから結界の解析を進めていた。
(……見事なものね。魔術回路を使わず、ただ教祖のフェロモンと説法だけで空間を歪めている)
作業服に身を包み、視覚情報を橙子と共有しているシエルが、舌を巻く。
しかし、彼女たちが完璧な隠密行動をとっている一方で。
その施設の中心、教祖専用の絢爛な応接室の奥深くで。
「……ん、ぁ……」
豪奢な蓮の花の意匠が施された寝台の上で、殺生院キアラは不意に、自らの豊かな双丘を両手で抱きしめ、艶めかしい吐息を漏らした。
彼女の周囲には、すでに自我を溶かされ、恍惚とした表情でひれ伏す信徒たちの姿がある。彼らから吸い上げる快楽は、彼女にとって食事のようなもの。
しかし、今彼女の魔性のセンサー(子宮の奥底)が感知したものは、そんな薄汚い獣たちの欲情などではなかった。
(……何かしら、この熱は)
キアラの魔性の瞳が、怪しく光る。
(私の結界の端に……触れただけで、お腹の奥が焼けるように疼く、圧倒的な『オス』の陽気……。こんなもの、今まで味わったことがありませんわ)
彼女はこれまで、数多の人間を救済(捕食)してきた。だが、そのどれもが彼女の虚無を満たすには至らなかった。
だが、今彼女の領域に足を踏み入れようとしている存在は、明らかに違う。
彼女の特異な結界は、アストルフォという「規格外の太陽」が放つ無尽蔵の肯定感とフェロモンを、隠しきれないほどの巨大な熱源として感知してしまったのだ。
「……ふふっ。ふふふふっ」
キアラは、自らの柔らかな唇を舌先で舐めめぐらせた。
「どうやら、極上の迷い子が、私の元へやって来たようですわね。……ええ、ご案内しなさい。私の、特別応接室へ」
信徒たちに静かな命令が下される。
潜入工作を進めていたはずが、魔性の菩薩自身からの『ご指名』によって。
太陽の騎士と愛欲の獣の、世界を揺るがす極上の官能バトルへ向けた扉が、今、静かに開かれようとしていた――。