fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
――関東近郊の山中に鎮座する、真言立川詠天流の本部施設。
外観こそ歴史ある仏教寺院の様相を呈しているが、一歩その敷地内に足を踏み入れた瞬間、空気が泥のように重く、そしてひどく甘ったるく変質した。
「……なるほど。これは外から観測した以上の代物ね。吐き気がするほど見事な『胃袋』だわ」
蒼崎橙子が、赤い眼鏡の奥の瞳を鋭く細め、ヒールの音を抑えて廊下を進む。
施設の内部は、最新のセキュリティ設備と豪奢な調度品で整えられているが、そこに「生活の匂い」は一切ない。すれ違う信徒たちの顔には、狂信的なまでの恍惚とした笑みが張り付き、ただ教祖(キアラ)という名の虚無に向かって自己を捧げるためだけに呼吸をしているような、異常な空間だった。
「お気をつけください。この空間に満ちているのは、単なる魔力ではなく、彼女自身の圧倒的な『愛欲(フェロモン)』をベースにした洗脳結界です。……油断すれば、魔術師であろうと、代行者であろうと、その精神の根底を『救済』という名の快楽で腐敗させられます」
ダークスーツに身を包んだシエルが、周囲に警戒の視線を配りながら小声で警告する。彼女の言葉通り、もしこの場に常識的な倫理観や、使命感に燃える正義の遂行者がいれば、その真っ直ぐな感情こそが最大の隙となり、結界の甘い毒に絡め取られていただろう。
だが、この四人のパーティは、根本からして「常識」という枠を逸脱している。
「あら、そんな薄汚い泥水、私には一滴もかからないわ。……ねえ、王子様?」
沙条愛歌は、一切の感情を排した金色の瞳のまま、優雅な足取りでアストルフォの隣を歩く。彼女の歩く道だけは、全能の力によってこの結界から完全に「切り離されて」おり、異常なフェロモンも、狂信者たちの視線も、彼女と彼には一切干渉できない。
「うん! 愛歌が一緒にいてくれるから、すっごく歩きやすいよ!」
アストルフォは、全く緊張感のない、底抜けに明るい太陽の笑顔で愛歌の頭を撫でた。
「ふふっ……王子様ったら。……でも、この女の匂い、やっぱり気に入らない。王子様の中にある、私の匂いまで濁されそう」
愛歌が、少しだけ不満げに頬を膨らませて、彼のがっしりとした腕にすがりつく。
「愛歌も、橙子も、エレイシア(シエル)も、みーんなボクのすっごく大事なお姫様だもん! 誰の匂いも消えたりしないから、安心してね!」
アストルフォは、愛歌の腰を抱き寄せたまま、後ろを歩く橙子とエレイシアにも満面の笑みを向けた。
その純度百パーセントの「陽の気」と、無尽蔵の肯定感。
教団の結界が放つ『他者を救済すべき獣と見下す、傲慢なまでの慈愛』の波長と、アストルフォから放たれる『他者を対等な人間として全肯定する、純粋な太陽の熱』。
水と油のように絶対に交わらない二つの概念が、施設の廊下を進むごとに、バチバチと見えない火花を散らして軋みを上げていた。
「……まったく。あなたのそのデタラメな熱量、この結界の中でどんだけ目立ってるか、分かってるの?」
橙子が、呆れたようにため息をつく。
「向こうからご丁寧に招待してくるわけね。……彼女からすれば、あんたのその無尽蔵のオスの熱量は、自らの虚無を満たすための極上の『ご馳走』に見えているはずだから」
「ご馳走? あはは! ボク、食べられちゃうのかな? でも、キアラちゃんがいっぱいお話しして、寂しくなくなるなら、それでもいいや!」
アストルフォのその言葉に、シエルが静かに首を振った。
「……いいえ、アストルフォ。貴方は食べられません。むしろ……」
シエルは、眼鏡の奥で彼特有の火傷しそうなほどの熱量を感じ取りながら、確信を持って呟いた。
「……彼女の傲慢なまでの自己愛の殻を、その熱で内側から完全に溶かし尽くしてしまう。……私たちがそうされたように」
かつて、それぞれの因縁や孤独、魔術の掟に縛られていた彼女たちが、彼という太陽の引力に絡め取られ、極上のヒロインとして生まれ変わったように。
この魔性の菩薩もまた、彼と真っ向から対峙すれば、ただでは済まないはずだ。
やがて、案内役の信徒が足を止めた。
施設の最奥。周囲の空気とは明らかに次元の違う、濃厚で、淫靡で、そして圧倒的な『魔性』が渦巻く、豪奢な巨大な両開きの扉の前だった。
「……こちらです。キアラ様が、お待ちです」
信徒は深く一礼し、音もなく扉を開け放った。
「ありがとう!」
アストルフォは、信徒に極上の笑顔で礼を言うと、一切の躊躇なくその扉の向こう――魔性の菩薩の『胃袋』のど真ん中へと、軽やかな足取りで踏み込んでいった。
「……さあて。ここから先は、あんたの独壇場よ。私たちは、外の薄汚い虫(暴走する信徒と結界)どもが、あんたたちの邪魔をしないように掃除しておきましょう」
橙子が、赤い眼鏡を中指で押し上げ、冷徹な冠位人形師の顔でニヤリと笑う。
「……ええ。気をつけて、アストルフォ。私たちからの『熱』、どうかあの女に負けずにぶつけてきてください」
シエルも、黒鍵を握り直しながら、愛する男の背中を見送った。
開かれた扉の向こう。
そこには、極彩色の曼荼羅と蓮の花の意匠で飾られた、息を呑むほどに美しく、そして狂おしいほどに甘い匂いが充満する空間が広がっていた。
そして、その最奥の豪奢な寝台で。
世界を滅ぼしかねない究極の自己愛を秘めた魔性の女――殺生院キアラが、艶やかな唇を三日月のようにつり上げ、極上の獲物(太陽)を待ち構えていたのだった。