fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
カチャリ、と。
背後で分厚い扉が閉ざされた瞬間、空間の法則が完全に切り替わった。
極彩色の曼荼羅が描かれた天井。むせ返るような、脳髄を直接撫で回されるかのような甘く重たい香の匂い。
そして、部屋の最奥に鎮座する、豪奢な蓮の花を模した巨大な寝台。
「――ようこそいらっしゃいました。太陽のように眩しく、熱い殿方」
薄布一枚の、ほとんど裸体に近い艶めかしい装いで寝台に横たわる女――殺生院キアラが、とろけるような笑みを浮かべて彼を出迎えた。
彼女から放たれる『慈愛』という名の魔性は、この部屋に足を踏み入れた時点で、常人であれば理性を完全に奪い去り、ただ彼女の足元にひれ伏して交尾を乞うだけの獣へと作り変えてしまうほどの絶対的な濃度を誇っていた。
「……あぁ。近くで見ると、さらに凄まじい熱量ですこと。貴方から溢れるその生命力……すべて、わたくしのお腹の奥で、優しく、甘く、救済して差し上げますわ。さあ、こちらへ」
キアラは、蠱惑的な仕草で細く白い指を差し招いた。
彼女の眼には、眼前の青年がどれほどの魔力を持っていようと、結局は「自らの快楽の海に溺れ、溶けていく哀れな羽虫」にしか見えていない。究極の唯我独尊。彼女以外はすべてが獣であり、彼女の胎内で救われるために存在しているという、途方もない傲慢さ。
だが。
「やあやあ! 招待してくれてありがとう!」
アストルフォは、その絶対的な魔性の沼を前にしても、足取り一つ乱すことはなかった。
彼は、部屋に充満する甘い毒牙(チャーム)に一切の抵抗を示すことなく、ただの春風を浴びるかのような自然さで、キアラの待つ寝台のすぐ傍まで歩み寄ったのだ。
「……あら?」
キアラの三日月のように吊り上がった唇が、ほんの僅かだけ、疑問の形に歪む。
(……おかしいですわね。わたくしの領域に触れながら、この殿方……一切、理性が濁っていない。それどころか、ただ真っ直ぐに、わたくしを視ている……?)
「キアラちゃん、だよね? ボクはアストルフォ! キアラちゃんとお話ししたくて来たんだ!」
アストルフォは屈託のない笑顔を咲かせると、寝台の縁に腰を下ろし、キアラが差し出していたその白い手を、自らの両手でガシッと包み込んだ。
「ひゃっ……」
その瞬間。
キアラの喉の奥から、彼女自身も予期していなかった、微かな――しかし明確な、動揺の吐息が漏れた。
触れ合った掌から、火傷しそうなほどの圧倒的な『オスの体温』が流れ込んできたのだ。
キアラはこれまで、他者の欲望や熱量を「吸収」することで自らを満たしてきた。
しかし、アストルフォから放たれるこの熱は、彼女の『胃袋』に吸収されない。彼の熱は、欲望(エゴ)ではないからだ。ただ純粋な、対象を全肯定し、慈しむだけの「陽の気」。それが、彼女の冷たく虚無に満ちた内側を、外側から強制的に温めようと浸透してくるという、未知の感覚。
(……な、何かしら、この熱は。わたくしが、取り込めない……?)
「キアラちゃんの手、すっごく冷たいね。それに、とってもいい匂いがするけど……なんだか、いっぱいいっぱい泣いてるみたいな匂いだよ」
アストルフォの紫水晶の瞳が、至近距離でキアラの魔性の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……泣いている、ですって? 冗談を。わたくしはただ、哀れな獣たちを救済するだけの……」
「ううん、違うよ」
アストルフォは、彼女の言葉を優しく、けれど絶対に揺るがない響きで遮った。
「キアラちゃんは、みーんなのことを『可哀想な動物』みたいに思ってるんでしょ? だから、誰のことも本当の意味で好きになれない。……キアラちゃんの周りには、キアラちゃんと同じ目線で笑い合える『人間』が、一人もいないんだ」
「………」
キアラの呼吸が、一瞬だけピタリと止まった。
「だから、いっつも一人ぼっちで、すっごく寂しいんだよね。……こんなに広くて綺麗な部屋にいても、心はずーっと冷たいままなんだ」
魔術的な分析でも、高度な心理学でもない。
ただ、どこまでも真っ直ぐに他者の魂の形を視る、規格外の直感。
キアラが心の奥底に封じ込め、自分自身すらも気づかないふりをしていた究極の孤独を、眼前の騎士は、一切の嫌悪も恐怖も抱かず、ただ純粋な思いやりだけを持って暴き出したのだ。
「……ふ、ふふっ。何を仰るかと思えば」
キアラは、一瞬の動揺を完璧な菩薩の微笑みの奥へと隠し、艶やかに目を伏せた。
「わたくしが、孤独? わたくしは、この宇宙のすべてを抱きしめる愛そのものですわ。……貴方のような殿方に、そのような安い同情をされる謂れは……」
「同情じゃないよ」
アストルフォの大きく熱い手が、彼女の手を包み込んだまま、ゆっくりと彼女の頬へと伸びた。
「ボクは、キアラちゃんを『神様』とか『仏様』とか、そんな風には見ないよ。もちろん、救ってほしい動物にもならない。……ボクは、キアラちゃんと対等な『一人の男』として、キアラちゃんのこと、いっぱいいっぱい愛してあげる」
彼の親指が、キアラの柔らかな頬を優しく撫でる。
「だから、もう一人ぼっちじゃないよ。ボクの熱で、キアラちゃんの心の冷たいところ、全部あっためてあげるからね」
その言葉と、頬に触れる圧倒的なオスの体温。
今まで誰も、殺生院キアラという存在を「ただの一人の女」として、これほどまでに純粋に、一切の見返りも求めずに愛そうとした者はいなかった。
彼女の異常な結界が、アストルフォの純度百パーセントの肯定感の前に、ほんの微かに、しかし決定的な「軋み」を上げた瞬間だった。
(……この殿方、本当に……わたくしを、ただの女として……?)
キアラの子宮の奥底で、かつて感じたことのない、甘く重たい火種がチリッと音を立てて燃え上がる。
それは、彼女が他者から吸い上げる快楽ではなく、彼女自身の中から生まれ出た、純粋な『雌』としての疼きの予兆だった。
「……ふふっ。本当に、恐ろしい殿方ですこと。わたくしの領域で、これほどまでに不遜な言葉を紡ぐなんて」
キアラは、自らの内に生じた名状しがたい動揺を力でねじ伏せるように、自らアストルフォの首に白い腕を回した。
ここで彼を逃せば、自分が自分でなくなってしまうという本能の警鐘。そして同時に、この圧倒的な熱量を頭の芯まで味わい尽くしたいという、魔性としての底なしの欲求。
「……よろしいですわ。そこまで仰るなら、わたくしの深淵の奥の奥まで……貴方のその熱で、満たしてごらんなさいな。……もし少しでも貴方の愛が尽きれば、その時は……骨の髄まで、わたくしの一部にして差し上げますから」
密室の寝台で、極限の至近距離で視線が絡み合う。
互いの吐息が混ざり合い、部屋の甘い香りが、むせ返るようなオスのフェロモンと魔性の蜜の匂いへと完全に塗り替えられていく。
「うん! ボクの愛は無尽蔵だから、覚悟しててね、キアラちゃん!」
最強の魔性と、純度百パーセントの太陽の騎士。
どちらの熱が相手の存在(エゴ)を先に溶かし尽くすのか。互いの一切の退路を断った、極上で、そして凄絶な愛の死闘(ベッド・バトル)が、今、甘い吐息と共に幕を開けたのだった――。