fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
――極東の山中を、白々とした朝の光が包み込み始めていた。
真言立川詠天流の本部施設、その最奥に位置する特別応接室。外界の光が、豪奢なステンドグラスを透かして極彩色の寝台へと降り注ぐ。
「……んっ……ぁ……」
乱れに乱れきったシーツの波間で、殺生院キアラは重い瞼をゆっくりと押し上げた。
目覚めと同時に全身を襲ったのは、かつて経験したことのないほどの深い気怠さと、下腹部の奥底でジンジンと脈打ち続ける「他者から与えられた圧倒的な熱」の余韻だった。
(……わたくしは……生きて、いる……?)
彼女は、呆然と自らの身体を見下ろした。
他者の欲望を喰らい、虚無へと還元するはずだった彼女の宇宙(エゴ)は、ゆうべの死闘の果てに完全に破壊された。本来であれば、自我を保てずに精神が崩壊していてもおかしくはない。
だが、彼女の心は驚くほどに穏やかで、そして満たされていた。
彼女の視線の先には、昨夜、彼女の菩薩としての殻を完膚なきまでに叩き割り、内側の最も冷たく孤独だった部分をドロドロの愛で満たし尽くした桜色の騎士――アストルフォが、穏やかな寝息を立てている。
キアラは無意識に手を伸ばし、彼のがっしりとした胸板に触れた。
「あ……」
彼と繋いだまま眠りに落ちていた右手。その指先からは、まだ彼の火傷しそうなほどの『オスの体温』が流れ込んでくる。その熱を感じた瞬間、キアラの瞳から再び、どうしようもないほどの愛おしさと情欲の涙がこぼれ落ちた。
「……あぁっ……わたくし、本当に……貴方に、全部溶かされてしまったのですね……」
キアラは、自らアストルフォの広い胸に顔を埋め、すりすりと頬を擦り寄せた。
自分を神と崇める獣たちを見下すのではなく、ただ一人の男の腕の中で、愛され、守られることの底なしの悦び。彼女はもはや、この熱なしでは一日たりとも生きられない、ただの『恋する雌』へと完全に作り変えられてしまっていた。
「……ん? あ、キアラちゃん。おはよー!」
アストルフォが目を覚まし、胸の中で甘えるキアラを見て、底抜けに明るい太陽の笑顔を咲かせた。
「キアラちゃん、手、もう冷たくないね! すっごくあったかくて、いい匂いだよ!」
「……っ! アストルフォ、様……っ」
キアラは、彼に名前を呼ばれただけで子宮の奥底が甘く跳ねるのを感じ、彼に強く抱きついた。
「もっと……もっと、わたくしを抱きしめてくださいませ……っ。貴方の熱が、貴方の匂いが……少しでも離れると、わたくし、不安で、おかしくなってしまいそうですの……っ」
最強の魔性として君臨していた女が、涙目で彼にすがりつく。その姿は、あまりにもいじらしく、そして狂おしいほどに艶やかだった。
「よしよし! いっぱいいっぱい、ぎゅーってしてあげるね!」
アストルフォが彼女の柔らかな裸身を腕の中に包み込み、その髪に優しくキスを落とした、まさにその時。
『ガチャリ』
無施錠だった重厚な扉が、一切の遠慮もなく開け放たれた。
赤いフレームの眼鏡を光らせた蒼崎橙子が、タバコの紫煙をくゆらせながら呆れたように足を踏み入れる。
続いて、ダークスーツ姿のシエルと、優雅な足取りの沙条愛歌が部屋の中へと入ってきた。
「……ひゃっ!?」
突然の乱入者に、キアラは咄嗟にシーツで自らの裸身を隠し、アストルフォの背後に隠れるように身を縮めた。かつての彼女であれば、彼女たちすらも自らの魅了(チャーム)で飲み込もうと微笑みかけていたはずだ。しかし今の彼女の目には、明らかに「愛する男の正妻たち」に対する、強烈な嫉妬と、それを上回る敗北感(気後れ)が浮かんでいた。
「……なるほど。どうやら、本当に『解体』されちゃったみたいね」
橙子が、キアラの変わり果てた――あまりにも「女」としての隙と色香に満ちた姿を見て、ニヤリと笑う。
「昨日のあの吐き気がするような唯我独尊の化け物が、たった一晩で、すっかりうちの馬鹿旦那に依存しきった可愛い新妻の顔になってるじゃないか。……傑作だわ」
「……ええ。施設の異常な魔力波長も、完全に浄化(リセット)されています」
シエルは、眼鏡の奥の瞳を和らげ、ふぅっと安堵の息を吐いた。
「アストルフォ。怪我はありませんか? ……その、随分と、激しく搾り取られたご様子ですが」
エレイシアの視線が、アストルフォの背中や首筋に無数に刻まれた、キアラの赤い爪痕やキスマークに向けられ、少しだけ嫉妬の色が混じる。
「みんな、おはよー! 外の人たち、大丈夫だった?」
アストルフォは、修羅場という概念が全くない笑顔で手を振る。
「ええ。全員、ただの心地よい微風の中で、ぐっすり眠っているわ」
愛歌が、ふわりとアストルフォの傍に歩み寄り、シーツ越しに彼の腕に絡みついた。
彼女の全能の金色の瞳が、アストルフォの背後に隠れるキアラをスッと射抜く。
「……ふふっ。昨日はあんなに泥水みたいな嫌な匂いがしてたのに、今はすっかり、王子様の匂いでいっぱいに満たされているのね」
愛歌は、一切の感情を排した笑顔で、キアラに宣告した。
「いいわ。王子様が貴女を『お姫様』にするって決めたなら、私は許してあげる。……でも、王子様の一番は私なんだから、ちゃんと後輩として弁えなさいよね?」
「……っ」
キアラは、愛歌から放たれる圧倒的な底知れなさと、橙子やエレイシア(シエル)が纏う「彼に愛され尽くした女の余裕」を前に、自分がどれほど傲慢な井の中の蛙だったかを思い知らされていた。
しかし、それ以上に。彼女たちと同じように、この無尽蔵の太陽に愛される「家族」の末席に加われるという事実に、彼女の胸の奥は甘い期待で打ち震えていた。
「キアラちゃん、すっごく寂しがり屋で、不器用なだけだったんだよ。だから、これからみーんなで、いっぱいいっぱい仲良くしようね!」
アストルフォの全肯定の笑顔。
それは、殺生院キアラという最強の魔性の首に、絶対に外れることのない、そして彼女自身が誰よりも望んでいた『愛の首輪』が、完全にカチリとはめられた瞬間だった。
かくして。
極東の山奥で世界を飲み込もうとしていたカルトの教祖は、たった一夜にして、底なしの太陽の騎士に身も心も捧げる極上のヒロインへと生まれ変わったのだった。