fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
週末の夜。ロンドン郊外のエーデルフェルト別邸は、むせ返るような愛欲の匂いと、食欲をそそる極上の香りに包まれていた。
「よし! このお肉のロースト、すっごくいい感じに焼けたよ! シエル、お皿お願いできる?」
「はい、アストルフォ。……ふふっ、手際が随分と良くなられましたね。ソースの香りも完璧です」
広大なキッチンの中心で、フリルのついたエプロンを身につけた桜色の騎士――アストルフォが、満面の笑みでオーブンから巨大な肉の塊を取り出していた。
その傍らで彼をサポートしているのは、黒い法衣ではなく、家庭的な装いに身を包んだシエルだ。完全に心を許せる愛の城に帰還した彼女の表情には、代行者としての冷徹さは微塵もなく、ただ愛する夫の隣に立てる喜びに頬を桜色に染めた、純粋な一人の女性の顔があった。
「アストルフォさん。こちらの和風の副菜も仕上がりましたわ。味見をしていただけますか?」
エーデルフェルトの養女である桜が、紫の瞳を艶やかに潤ませて小皿を差し出す。
「うん! あーん……んっ、すっごく美味しい! 桜の料理はいつでも最高だよ!」
アストルフォが、彼女の指先に少しだけ残っていたソースの滴ごとペロリと舐めとると、桜は「ひゃうっ……!」と可愛らしい悲鳴を上げ、膝をガクンと震わせてキッチンのシンクにすがりついた。料理中であろうと、限界突破した彼の無自覚なフェロモン攻撃は、容赦なく妻たちの子宮の奥をジンジンと疼かせるのだ。
ダイニングホールには、すでに長い晩餐のテーブルが整えられ、世界最高峰の女たちがグラスを傾けながら、和やかに(そして少しだけ火照った顔で)談笑していた。
「……はぁ。キッチンから旦那様の匂いが漂ってくるだけで、ワインの回りが早くなるわね。困ったものだわ」
蒼崎橙子が、赤い眼鏡の奥の瞳をトロンと濁らせながら、呆れたように笑う。
「まったくですわ。わたくしたちエーデルフェルトの当主とあろう者が、あの方のエプロン姿を想像しただけで下腹部が熱くなるなんて……オーッホッホ! 完全に毒されていますわね!」
ルヴィアゼリッタが扇子で口元を隠すが、その太ももは落ち着きなく擦り合わされている。
隣では、遠坂凛やアイリスフィール、そして蒼崎青子までもが、「本当にね」「でも、あの子が作ってくれるご飯、最高に美味しいから」「胃袋まで掴まれちゃ世話ないわ」と、完全に骨抜きにされたデレデレの笑顔で頷き合っていた。
「……王子様の手料理。私のために作ってくれるなんて、本当に夢みたい。……早く、王子様ごともぐもぐって食べちゃいたいわ」
沙条愛歌は、一切の感情を排した金色の瞳を極限まで甘く細め、テーブルに頬杖をつきながらキッチンの扉を熱っぽく見つめている。
ライネスやオルガマリーといったプライドの高い面々も、今日ばかりは貴族の仮面を完全に下ろし、ただの「愛する夫の帰りを待つ妻」として、柔らかな笑みを浮かべていた。
やがて、次々と豪奢な料理がテーブルに並べられ、賑やかなナイトパーティが幕を開けた。
血みどろの聖杯戦争や、魔術協会の権力闘争など、ここには一切存在しない。あるのはただ、一人の太陽のような騎士と、彼に愛し尽くされた女たちの、底抜けに明るく、そして淫靡なほどに濃密な家族の団欒だ。
その喧騒の端で、少しだけ戸惑ったようにカトラリーを握っている女がいた。
殺生院キアラだ。
彼女は、この底なしに温かい日常の空気に、まだ完全には順応しきれていなかった。
これほどの力を持った魔術師や怪物たちが、互いに牽制し合うこともなく、ただ一人の男の愛のもとに完全に連帯し、笑い合っている。彼女がこれまで「獣の交わり」と見下してきた世俗の群れが、ここでは信じられないほど尊く、そして圧倒的な幸福感に満ちた「完成された宇宙」として成立していたのだ。
(……これが、彼の日常……。わたくしが求めても決して手に入らなかった、人と人との……当たり前の、愛の形……)
キアラが、自らの過去の虚無と現在の温かさのギャップに、少しだけ瞳を潤ませかけた、その時。
「キアラちゃん! はい、あーん!」
「……え?」
不意に、アストルフォがキアラの隣に座り込み、フォークに刺した極上のローストビーフを、彼女の口元へと差し出していた。
「これ、ボクが焼いたんだよ! キアラちゃんに一番最初に食べてほしくて!」
屈託のない、太陽の笑顔。
「あ……」
キアラは、周囲の正妻たちの視線(嫉妬と、そして新入りを受け入れる温かな諦めが混ざったもの)を浴びながら、顔を真っ赤にして口を開き、その肉をパクリと頬張った。
「……んっ……」
口いっぱいに広がる、温かくて、深い肉の旨味。だがそれ以上に、彼が自分のために料理を作り、自分の口に運んでくれたという「ただの人間としての優しさ」が、彼女の胸の奥をギュッと締め付けた。
「どう? 美味しい?」
「……はい……っ。わたくしの長い生涯の中で……これほど、お腹の奥まで温かくて、美味しくて……満たされるお食事は、初めてですわ……っ」
キアラは、ボロボロと涙をこぼしながら、アストルフォの腕にギュッとすがりついた。菩薩としての威厳など、もうどこにもない。そこにあるのは、家族の温もりを知った、一人の泣き虫な女の子の姿だった。
「よしよし! いっぱいいっぱい食べて、今夜もボクと一緒にあったかくして寝ようね!」
アストルフォが彼女の頭を優しく撫でると、テーブルのあちこちから「ちょっと旦那様! 新入りばっかり甘やかしてずるいわよ!」「私にもあーんして!」「王子様、私の隣にも座って!」と、ヒロインたちの愛に溢れた抗議の声が一斉に飛び交った。
「あはは! わかったわかった、順番ね! みーんな、だぁいすきだよ!」
広大なダイニングホールに響き渡る、笑い声と甘い溜息。
アストルフォという無尽蔵の太陽を中心に回るこの愛の魔窟は、今宵もまた、互いの熱を分け合いながら、世界で一番幸福で、最高にカオスな夜を更かしていくのだった――。