fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
極東の地で、最強の魔性・殺生院キアラとの凄絶な愛の死闘を繰り広げ、彼女を完全に陥落させてからおよそ四ヶ月。
季節は巡り、ロンドン郊外にそびえ立つエーデルフェルト別邸は、冬の寒さを微塵も感じさせない、むせ返るような愛欲の熱気と穏やかな日差しに包まれていた。
「あーっ! だぁめ、だぁめ!」
「ふふっ、アルチナ。そこはお父様の大切な剣を飾っている場所ですよ。怪我をしたら大変ですから、ママのところにいらっしゃい」
広大なプライベートルームの柔らかい絨毯の上。
青いゆったりとしたルームウェアに身を包んだシエルが、ペタペタと裸足で駆け回る三歳の愛娘――アルチナを、愛おしげに抱き上げた。
アストルフォから受け継いだ桜色のふんわりとした髪に、シエルと同じ知的な青い瞳を持つアルチナは、この規格外の「愛の魔窟」にあって、誰もが目を細める宝物の一人だ。
「ママ、いい匂い! パパとおんなじ匂いする!」
アルチナが無邪気にシエルの胸元に顔を埋め、くんくんと鼻を鳴らす。
「……えっ。あ、も、もう……アルチナったら」
シエルの頬が、一瞬にして林檎のように朱に染まった。
娘の言う通りだった。昨夜も、いや、キアラという規格外の魔性を受け止めたことで『オスの限界』を突破したアストルフォの熱情は凄まじく、シエルは夜通し彼の広く逞しい胸に抱き潰されていた。
何度絶頂に達し、何度愛の言葉を泣き叫んだか定かではない。念入りにシャワーを浴びたはずなのに、彼女の肌の奥深く――魔術回路の芯や子宮の底には、火傷しそうなほど熱い彼の『オスの匂いと体温』が、ドロドロの甘い蜜となって未だにこびりついている。娘を抱き上げたほんのわずかな動作だけで、下腹部がジンジンと疼き、太ももの内側が艶やかに濡れそぼっていくのがわかった。
(……ああ、本当に。私はどれだけあの方に、甘やかされているのでしょうか……)
かつて、フランス事変という絶望の淵で死徒(ロア)の業を背負い、永遠に続くかと思われた血みどろの闘争に身を投じていた冷徹な代行者。それが自分だったとは、今のこの圧倒的に満たされた多幸感の中では、まるで遠い前世の夢のように思える。
アストルフォという無尽蔵の太陽は、シエルの背負っていた重すぎる十字架を、一切の理屈抜きで、ただ「女の子として愛し尽くす」という圧倒的な肯定感で丸ごと溶かしてくれたのだ。
シエルは、腕の中で微睡み始めたアルチナの背中を優しくトントンと叩きながら、デスクの上に置かれたノートパソコンの画面へと視線を向けた。
画面には、聖堂教会の暗部――『埋葬機関』のサーバーへと直結された、高度な暗号化通信のウィンドウが開かれている。
シエルは、片手でアルチナを抱いたまま、もう片方の手で淀みなくキーボードを叩き始めた。
『――第七位より、定時報告。
対象(アストルフォ)及び、エーデルフェルト家周辺に展開された特異な魅了の結界は、未だ極めて強固。物理的・魔術的な排除は極めて困難、あるいは不可能と判断する。
当職は引き続き、対象の最深部にて長期の潜入・監視任務を続行する。
なお、対象の精神浸染(フェロモン)は女性に対して極めて致死的であるため、追加の人員派遣は固く禁ずる。ミイラ取りがミイラになるだけの無駄な犠牲を払うべきではない――』
カタッ、と、エンターキーを押して送信を完了する。
この数年間、彼女が教会の上層部へと送り続けている『偽装報告書』だ。
「……ふぅ。これで、またしばらくは教会も手出しを渋るでしょう」
シエルは丸い眼鏡を指で押し上げ、小さく、しかし極めて艶やかな吐息を漏らした。
監視任務など、とうの昔に放棄している。
彼女が今もロンドンに留まっているのは、単にアストルフォという男を心の底から愛しており、彼なしでは一日たりとも生きられないカラダと心にされてしまったからだ。この報告書は、愛する夫と愛娘、そして少しばかり騒がしくて危険な「姉妹(ヒロイン)たち」との平和な日常を守るための、教会を欺く強固な防波堤であった。
だが。
送信を終えた暗いディスプレイに映る自らの幸福な顔を見つめた時、シエルの脳裏に、かつて自分が庇護下に置いていた「ある人物」の顔がよぎった。
黒い修道服に身を包み、身の丈に合わない巨大なハルバードを背負った、赤みがかった茶髪の不憫な後輩――ノエル。
(……ノエル。貴女は今も、あの冷たく息の詰まる教会で、必死に虚勢を張って生きているのでしょうか)
シエルの胸の奥に、チクリとした痛みが走る。
ノエルは、シエル(の中にいたロア)が引き起こしたフランス事変の被害者だ。普通の女の子としてのささやかな幸福をすべて奪われ、復讐心と劣等感だけで這い上がり、それでも才能の壁にぶつかっていつも泣きそうな顔をしていた不器用な少女。
シエルは彼女を哀れみ、少しでも長く生き延びさせようと自らのパートナーとして囲ったが……それは結果的に、ノエルに「化け物のような先輩の背中を見せつけられ続ける」という残酷な劣等感を植え付けることになってしまった。
(私は、あの子からすべてを奪っておきながら……今、こんなにも満たされ、普通の『女』として、母親としての幸せを貪っている。……もし、あの子がこの私の姿を見たら、どれほど絶望し、憎悪するでしょうか)
シエルは、アストルフォによって癒されたはずの深い罪悪感が、再び頭をもたげるのを感じた。
自分が手に入れたこの奇跡のような温もりに、ノエルは永遠に手が届かない。彼女は一生、憎しみとコンプレックスに苛まれながら、血みどろの教会の歯車として消費されていくのだろう。
「……ごめんなさいね、ノエル。私には、貴女の奪われた時間を返してあげることは、できない……」
シエルは、眠るアルチナの温かい体温にすがりつくように目を伏せた。
しかし、シエルはこの時まだ知る由もなかった。
そのノエル本人が、シエルの『幸福』を薄々察知し、ドス黒い嫉妬と私怨、そして「教会の誇り」という薄っぺらい大義名分を武装して、この世界最凶の魔窟へと自ら足を踏み入れようとしていることなど。
――不憫な代行者の、甘く絶望的な救済劇の幕は、静かに開かれようとしていた。