fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドンの高級ショッピング街。
どんよりとしたイギリス特有の曇り空の下であっても、その女の周囲だけは、まるで春の陽光が差し込んでいるかのように華やいでいた。
「ふふっ。この小さなワンピース、アルチナに似合うかしら。……ああ、でもあの方は、最近お肉のローストばかりだから、お魚のおかずも作って差し上げないと……」
青いコートを羽織ったシエルは、高級ブティックの紙袋と、色とりどりの食材が入ったエコバッグを提げ、上機嫌でショーウィンドウを眺めていた。
彼女の肌は、極東での死闘を経て限界突破したアストルフォの熱量に毎晩のように抱き潰されているせいで、内側から発光するような艶やかな桜色に火照っている。冷徹な第七位の代行者としての気配など微塵もない。そこにあるのは、愛する夫と愛娘のために買い物を楽しむ、ただの「幸福の絶頂にある女」の姿だった。
だが。
その平和で満ち足りた光景を、通りの反対側の薄暗い路地裏から、ギリッと奥歯を噛み鳴らして睨みつけている影があった。
赤茶色の髪をサイドテールにまとめた女――ノエルである。
(…………ッ! なによ、あれ……っ!)
ノエルの瞳に、ドス黒い泥水のような感情が渦巻く。
彼女はバチカンを出発する際、一抹の「シエルが酷い拷問や洗脳を受けているのではないか」という同情を抱いていた。しかし、目の前でショーウィンドウのベビー服を見て蕩けたように微笑むシエルの顔を見た瞬間、その一抹の同情は、完全な『確信(絶望と怒り)』へと反転した。
(洗脳なんて大層なもんじゃない。あの女……ただ単に、男に骨抜きにされて、女としての幸せに溺れてるだけじゃない……ッ!!)
ノエルの心臓が、激しい嫉妬と理不尽さへの怒りで破裂しそうになる。
「……ふざけ、ないでよ……っ」
ノエルの口から、呪詛のような声が漏れた。
「私から、普通の女の子としての人生も、家族も、全部奪い取っておいて……! 自分が化け物のくせに、いつも教会の正義だの使命だの、綺麗事ばっかり並べて私を見下していたアンタが……ッ! 自分だけそんな幸せを手に入れるなんて、絶対に、絶対に許さないッ!!」
ノエルにとって、シエルは決して越えられない壁であり、同時に自身の人生を狂わせた元凶(ロア)だ。そのシエルが、代行者としての責務を投げ出し、あまつさえ自分には永遠に手に入らない『普通の女としての幸福』を独り占めしている。
その事実が、ノエルのちっぽけな自尊心と復讐心を、最悪の形で爆発させた。
(……いいわ。シエル、アンタがその気なら……私が、アンタのそのおままごと(幸せ)を、教会の正義の名の下に、木っ端微塵にぶち壊してあげる)
ノエルは、自らの内に渦巻くドロドロの私怨を、分厚い「しおらしい後輩」の仮面の下へと強引に隠し込んだ。
***
買い物を終え、人通りの少ない裏路地へと差し掛かったシエル。
「――シエル先輩ッ!!」
路地の暗がりから、悲痛な声を上げて飛び出してきたのは、黒い修道服姿のノエルだった。
「……あら? ノエル?」
シエルは、驚いたように目を瞬かせた(実際は、屋敷の結界を出たあたりから、背後にへばりつく粗雑な魔力配分に気づいていたが、あえて乗ることにした)。
「先輩……っ! よかった、ご無事で……っ!」
ノエルは、涙ぐんだ瞳でシエルの手にすがりついた。その演技は、彼女の小物ゆえの生存本能が極限まで発揮された、完璧な「先輩を慕う健気な後輩」のものだった。
「どうして貴女がここに? バチカンに待機していたはずでは……」
「来ますよ! 当たり前じゃないですか! 先輩が三年以上も同じ監視報告だけを送ってきているのに、上層部の連中は『あの魔窟は放置する』なんて見捨てるような決定を下したんですよ!?」
ノエルは、あふれる涙を拭うそぶりを見せながら、シエルを理詰めで追い詰めにかかった。
「……私、気づいたんです。完璧なシエル先輩が、三年も任務を遂行できずにいる。それはつまり、対象の異端の魔術師が、先輩の精神を絡め取るような高度な魔術……あるいは、人質をとるような卑劣な手段を使っているに違いないって!」
「…………」
「先輩は教会の誇りです! 私の、たった一人の尊敬する師匠です! だから私、命令に背いてでも、先輩を救出に来たんです! ……先輩、私と一緒に、あの異端を討ち果たしましょう! そして、教会の正義を証明するんです!」
正論。大義名分。教会の掟。
ノエルは、シエルが絶対に反論できない「代行者としての建前」を完璧に並べ立てた。
(どうよ、シエル。アンタは代行者の鑑なんだから、この『正しい後輩』の訴えを無下にはできないでしょ? もし断れば、アンタが異端に堕ちた裏切り者だって確定する。……さあ、自分の手で、あの屋敷にいるアンタの『幸せ』を殺しに行きなさいよ!)
ノエルは、内心で暗い笑いを浮かべながら、シエルの返答を待った。
シエルは、すがりつくノエルの金色の瞳(その奥底でチロチロと燃える、ドス黒い嫉妬の炎)を、丸い眼鏡の奥から静かに見つめ返していた。
(……ああ。ノエル。貴女は、私が手に入れたこの幸福を、許せないのですね)
シエルには、ノエルの浅知恵などすべてお見通しだった。
ノエルが教会の正義など信じていないことも、単に自分の幸せをぶち壊したいだけの私怨で動いていることも。
普段のシエルであれば、この愚かでちっぽけな後輩を気絶させ、バチカンへと送り返していただろう。
だが、シエルの胸の奥には、ノエルからすべてを奪ってしまったという『深い罪悪感』があった。
ノエルのこのドロドロとした嫉妬も、復讐心も、すべては自分が生み出してしまったものだ。それを「正論」で切り捨てることは、今のシエルにはできなかった。
(……なら。貴女のその凝り固まった憎悪と嫉妬を、あの方の『太陽の熱』で、強制的に溶かしていただくしかありませんね)
シエルは、ノエルのちっぽけな罠に、あえて自ら飛び込むことを決意した。
アストルフォの無尽蔵の愛と全肯定ならば、この不憫な後輩の空っぽな心を、底の底までドロドロに満たし、真の意味で救済してくれると確信していたからだ。
「……ありがとう、ノエル。貴女のその真っ直ぐな想い、確かに受け取りました」
シエルは、ノエルの手を優しく握り返し、慈愛に満ちた(そして、魔窟の正妻としての余裕に満ちた)笑みを浮かべた。
「えっ……? ほ、本当ですか、先輩!」
(やった! 案の定、綺麗事に弱いこの女は断れなかった! これで、ヤツらの寝首を掻けるわ!)
「ええ。実は私も、奴の結界の奥深くに潜り込み、致命的な隙ができるこの時をずっと待っていたのです」
シエルは、コートのポケットに手を入れると、ノエルに背を向けて歩き出した。
「さあ、行きましょうノエル。……『彼』の寝室に案内します」
ノエルは、勝利を確信して自らのハルバードの柄を強く握りしめた。
だが、前を歩くシエルは、ポケットの中で愛用のスマートフォンを器用に操作していた。
宛先は、エーデルフェルト別邸の「家族用グループチャット(参加者:ヒロイン全員+アストルフォ)」。
『――シエル:可愛い後輩が、私を助けに(アストルフォを始末して、私の幸せを壊しに)来ちゃいました。今から連れて帰るので、皆さん、極上の「歓迎」の準備をお願いしますね♡』
送信ボタンを押すシエルの顔は、代行者のそれではなく、完全に「愛する夫の寝室に、新たな生贄(不憫なおもちゃ)を引きずり込む、悪戯好きな魔女」の顔になっていた。