fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドン郊外。
鬱蒼とした森を抜けた先にそびえ立つ、広大で重厚なエーデルフェルト別邸。
その豪奢な鉄格子の門の前に立ったノエルは、一歩足を踏み出そうとした瞬間、強烈な吐き気と目眩に襲われ、思わずその場に立ちすくんだ。
「……っ。な、なに、これ……」
ノエルの未熟な魔術回路でさえ、本能が全力で警鐘を鳴らしていた。
屋敷を包み込んでいるのは、単なる魔術的な防壁ではない。
それは、蒼崎橙子のルーンと沙条愛歌の全能性が複雑に絡み合った『絶対不可侵の結界』であり、同時に、屋敷の内部から漏れ出している、常軌を逸した濃度の『愛欲のフェロモン』の塊だった。
足を踏み入れた瞬間、脳髄を直接甘く撫で回され、自らのエゴ(自我)がドロドロに溶かされてしまいそうな、底なしの底なし沼。
(……教会のバカ共が『ブラックホール』って呼んでた理由、ようやくわかったわ。これ、物理的な防御じゃなくて……女を『雌』に作り変えるための、巨大な胃袋じゃないの……っ)
ノエルの背筋を、遅すぎる恐怖が駆け上る。
いくら「シエルの幸せをぶち壊してやる」と息巻いてきたとはいえ、これは想定のレベルを遥かに超えていた。
「どうしました、ノエル? 入らないんですか?」
ノエルの前を歩いていたシエルが、青いコートを翻して振り返る。
その微笑みは慈愛に満ちているが、ノエルの目には、獲物を罠に誘い込む蜘蛛のように見えた(実際、その通りなのだが)。
「は、入りますよ! 当たり前じゃないですか。……シエル先輩を洗脳した異端の魔術師の結界がどれほどのものか、確かめただけです!」
ノエルは必死に虚勢を張り、震える足で門をくぐった。
(大丈夫、私にはシエルがいる。この女を盾にして……いざとなれば囮にして、私がヤツの寝首を掻けばいいだけ……っ!)
『ギィィィッ……』
エントランスの重厚な扉が開かれる。
ノエルは背中のハルバードの感触を確かめ、いつでも戦闘に入れるよう極限まで神経を尖らせて屋敷の中へと足を踏み入れた。
だが。
彼女を待ち受けていたのは、血に飢えた魔術師でも、おぞましい使い魔でもなかった。
「やあやあ! おかえり、シエル! それと、初めまして! キミがノエルちゃんだね!」
桜色の髪を揺らし、フリルのエプロンを身につけた、この世のものとは思えないほど愛らしく、そして底知れない『オスの色気』を放つ太陽の騎士――アストルフォの、一切の邪気がない満面の笑顔だった。
「……え?」
ノエルが呆然と立ち尽くすその後ろで、広大なメインリビングのソファに寛いでいた女たちが、一斉にこちらへ視線を向けた。
「あら、本当に来たのね。……教会の迷える子羊さんが、自ら生贄になりに来てくれるなんて」
赤い眼鏡の奥で、冷徹な(しかしどこか蕩けた)瞳を光らせる女。
ノエルの心臓が跳ね上がった。
(あ、あれって……魔術協会の冠位(グランド)魔術師、蒼崎橙子……!? なんであんな化け物が、こんなところで寛いでるのよ!?)
「ふふっ。あの方(太陽)の無尽蔵の熱量を、ぜひ貴女の身をもって味わっていただきましょう。きっと、主の教えよりも素晴らしい救済が得られますわよ?」
艶やかな尼僧の装いで、蠱惑的な笑みを浮かべる女(殺生院キアラ)。
ノエルはその正体を知らない。だが、彼女から放たれる『魔性』の濃密さは、死徒の比ではないほどおぞましく、それでいて抗いがたい色香に満ちていた。
さらにノエルの絶望は続く。
「まったく。アストルフォも人が悪いわね。こんな怯えきった小鳥さんを、いきなり私たちの晩餐に混ぜるなんて」
「いいんじゃないかしら? 王子様の新しいおもちゃ……ふふっ、お姫様が増えるのは、賑やかで楽しいもの」
金髪の巻き髪で扇子を揺らす女(ルヴィアゼリッタ)。
銀髪でツンと澄ました顔をしながら、頬を赤く染めている女(オルガマリー)。
一切の感情を排した金色の瞳で、ノエルを値踏みするように見つめる全能の少女(愛歌)。
ノエルは、教会の暗部で働く代行者だ。裏世界の情報にはそれなりに通じている。
だからこそ、ここに集まっている女たちが、単なる魔術師ではない異常な面子であることが直感で理解できた。名門の当主、時計塔の君主(ロード)、アインツベルンのホムンクルス、そして冠位魔術師。
(……狂ってる。なによ、この状況……っ)
ノエルの額から、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
(こんな、世界でもトップクラスの化け物みたいな女たちが……全員、あの桜色の騎士(男)に飼い慣らされて、あんな『発情した雌』みたいな顔をしてるっていうの……!?)
それは、彼女が心の底で抱いていた「所詮は男でしょ。私の色仕掛けか、教会の奇襲でどうにでもなる」という致命的な楽観視が、音を立てて完全に崩壊した瞬間だった。
シエルだけではない。ここにいる全員が、あの騎士の熱にドロドロに溶かされ、彼なしでは生きられないように『作り変えられて』いるのだ。
「さあ、ノエルちゃん! お腹空いてるでしょ? いっぱいご飯食べて、あったかくして休んでね!」
アストルフォが、全く警戒する様子もなく、ノエルの手を無邪気に引こうと近づいてくる。
「ひぃッ……!! く、来るなッ!!」
ノエルはパニックに陥り、咄嗟に後ずさって自らのハルバードを構えようとした。
だが。
「……あらあら。せっかく歓迎して差し上げているのに、無作法な真似は感心しませんね」
ノエルの背後から、いつの間にか背後に回っていたシエルが、冷たい(けれど恐ろしいほど艶やかな)手で、ノエルの肩をガシッと掴んだのだ。
「し、シエル先輩……っ!? はな、放して……っ! なんなのよ、この屋敷は!! アンタたち、全員おかしいわよ!!」
ノエルは悲鳴を上げて抵抗しようとするが、第七位の膂力に敵うはずもない。
「おかしくなんてありませんよ、ノエル」
シエルは、ノエルの耳元で、悪魔のように甘く、そして深い罪悪感を孕んだ声で囁いた。
「……貴女がいつも抱えていた、ちっぽけな劣等感も、私への憎しみも。……あの方の無尽蔵の愛(熱)に触れれば、すべてどうでもよくなるくらい、気持ちよく溶かしてくれますから」
「や、やめ……っ! 私は、そんなことのために来たんじゃない……っ! 私は、アンタの幸せを……ッ!!」
ノエルの隠していたド黒い本音の叫びは。
「うん! ノエルちゃん、ボクのお家へようこそ!」という、アストルフォの純度百パーセントの太陽の笑顔と、彼から放たれる圧倒的な『オスのフェロモン』の奔流に完全に飲み込まれ、むなしく掻き消されていったのだった。