fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドン郊外、エーデルフェルト別邸。
シエルに肩を掴まれ、逃げ場を失ったノエルは、ガタガタと膝を震わせながら屋敷の奥へと案内されていた。
すれ違うのは、蒼崎橙子や沙条愛歌といった、魔術世界における「規格外の化け物」たちだけではない。ノエルをさらに深い絶望の淵へと突き落としたのは、屋敷の廊下やキッチンで立ち働く「見知った顔」たちの存在だった。
(……ウソでしょ!? あれって、確か二年前に消息を絶った埋葬機関のシスターじゃ……? こっちでお茶を淹れてるのは、異端審問局の……それに、時計塔の鉱石科の典位(プライド)魔術師まで!?)
ノエルの瞳孔が極限まで見開かれる。
かつて「教会の貴重な戦力」として、あるいは「魔術協会の誇り高き探求者」として、この屋敷の調査・討伐に向かい、そのまま帰らぬ人となった女たち。彼女たちが今、フリルのついたメイド服や家庭的なエプロンを身に纏い、一様に『完全に蕩けきった発情した雌』の顔をして、楽しそうに談笑しているのだ。
ある者はアストルフォの脱いだシャツを抱きしめてうっとりと匂いを嗅ぎ、ある者は「今夜は私があの方に奉仕する番ですわ」と頬を赤く染めて身悶えしている。
(……狂ってる。ここは狂人の巣窟だわ……っ! 足を踏み入れたら最後、脳髄までドロドロに溶かされて、あの異端の騎士の『肉便器(おもちゃ)』に作り変えられるんだ……!)
強烈な恐怖と吐き気が、ノエルの胃の腑を駆け上がる。
今すぐ踵を返して逃げ出したい。生存本能が全力でそう叫んでいた。
だが、前を歩くシエルの「一切の警戒心を持たない、ただ幸せを満喫しているだけの艶やかな背中」を見た瞬間。ノエルの心底にこびりついたド黒い泥水が、恐怖を上回る熱量で沸騰した。
(……冗談じゃないわ。私が全部奪われて、あんなに惨めな思いをしてきたのに。私からすべてを奪った元凶のアンタだけが、こんな狂った楽園で、女としての幸せを独り占めしてるなんて……ッ!!)
ノエルはギリッと奥歯を噛み砕きそうなほど強く噛み締めた。
(やってやる。死なば諸共よ! アンタのそのムカつくおままごと(幸せ)を、絶対に、絶対にぶち壊してやるんだから……ッ!!)
恐怖を私怨で塗り潰し、ノエルは仮にも教会の代行者としての(歪んだ)意地を見せ、シエルの背中を睨みつけた。
***
その日の深夜。
騒がしい晩餐(ノエルにとっては魔女たちの品定めという針の筵だった)が終わり、屋敷が静寂に包まれた頃。
薄暗い廊下を、息を殺して進む二つの影があった。黒い修道服のノエルと、青いルームウェアを羽織ったシエルだ。
「……先輩。もう誤魔化しは効きませんよ。これ以上、あの異端の男に洗脳されているフリを続けるなら……私が教会の名の下に、先輩ごとヤツを始末します」
ノエルはシエルの背中に黒鍵を突きつけて(るような気迫で)凄んでみせた。
「ええ、わかっていますよ、ノエル」
シエルは振り返りもせず、ただ静かに、どこか悲しげな(とノエルには見えた)声で答えた。
「……貴女の決意がそこまで固いなら、案内しましょう。『彼』の寝室へ」
(……勝った! やっぱりこの女、教会の正論と私の覚悟には逆らえなかったのよ!)
ノエルは内心で歓喜の雄叫びを上げた。
作戦は完璧だ。シエルを先陣(囮)にして寝室に突入し、あの忌まわしい太陽の騎士の寝首を掻く。そうすれば、シエルの幸せな家庭は一瞬で崩壊し、彼女は再び血みどろの十字架を背負う惨めな代行者に逆戻りだ。
シエルが、屋敷の最奥にある豪奢な両開きの扉の前で立ち止まる。
「……ここです」
シエルが、なんの警戒もせずに、静かに扉を開け放った。
「いけ、シエル先輩ッ!!」
ノエルがハルバードを具現化させ、シエルの背中を押し込むようにして部屋に飛び込んだ、その瞬間。
ノエルの肺腑を、致死量の『オスのフェロモン』が情け容赦なく殴りつけた。
「――――ッ!?」
極彩色の天蓋付きの巨大なベッド。
充満する、脳髄が直接溶かされそうになるほどに甘く、重く、そして圧倒的な熱気。キアラという最強の魔性との死闘を経て限界突破したアストルフォのそれは、室内の空気を液状化させているかのように濃密だった。
そして、ベッドの中央には。
「やあやあ! 待ってたよ、シエル! それと、ノエルちゃん!」
上半身をはだけた桜色の髪の騎士――アストルフォが、全く無防備な、底抜けに明るい太陽の笑顔で彼女たちを出迎えたのだ。
(な……っ!? 起きて、いや、待ち構えて……っ!?)
ノエルは完全に虚を突かれ、手にしたハルバードをガタガタと震わせた。
「シ、シエル先輩、罠です! バレてました! 下がって、私が……ッ!」
ノエルがシエルを庇おうと前に出た、次の瞬間。
信じられない光景が、ノエルの眼球を貫いた。
「……遅くなってごめんなさい、アストルフォ。可愛い後輩が、どうしても貴方の熱を欲しがって、聞かないものですから」
シエルは、ノエルの横を通り過ぎると、まるで吸い寄せられるようにアストルフォのベッドへと歩み寄り――そのまま彼のがっしりとした胸板に抱きつき、完全に『発情した雌』の顔で、その唇に深く、熱く、卑猥な音を立ててキスを交わしたのだ。
「んんっ、ちゅ……。シエル、今日もすっごくいい匂い」
「あぁっ……アストルフォ、貴方の熱……たまらない……っ」
「……………………は?」
ノエルの思考回路が、完全にフリーズした。
目の前で、自分がその幸福をぶち壊してやろうと憎悪し、同時に大義名分として利用していた最強の先輩が。異端の男の胸の中で、よだれを垂らしながら、見たこともないような淫らな顔で喘いでいる。
「……しぇ、シエル、先輩……? 何を……裏切っ、たの……っ!?」
ノエルの口から、震える声が漏れ落ちる。
「あら、ノエル」
シエルは、アストルフォの逞しい腕の中から、とろけるような青い瞳でノエルを見つめ返した。そこには、ノエルのちっぽけな私怨などすべて見透かした上での、圧倒的な強者(正妻)としての余裕と、深い罪悪感からくる慈愛が混ざり合っていた。
「裏切ってなどいませんよ。……貴女がいつも、私の背中を見て怯え、どうしようもない劣等感と嫉妬に苛まれていたことは知っています。私には、貴女の奪われた『普通の女の子としての時間』を返してあげることはできなかった」
シエルの言葉が、ノエルの核心を容赦なく抉る。
「……でも、あの方の無尽蔵の愛(熱)ならば。貴女のそのちっぽけで醜い憎しみすらも、すべて丸ごと肯定し、溶かし尽くしてくださいます。……さあ、ノエル。貴女も、教会の呪縛から解き放たれて、ただの愛される『女の子』になりなさいな」
「――っ! ふ、ふざけるなっ! 綺麗事ばっかり並べるな、シエルゥゥゥッ!!」
パニックと絶望、そして暴かれた私怨の恥辱。
ノエルはハルバードを振り上げてアストルフォへと躍りかかった。この男を殺さなければ、自分のアイデンティティが完全に崩壊してしまう。
「いっけええええええッ!!」
だが。
「うわっ、危ないなぁ。でも、元気があってすっごくいいね!」
『ドンッ!』
「……え?」
ノエルが渾身の力で振り下ろしたハルバードは、ベッドから身を乗り出したアストルフォの片手によって、いとも容易く、赤子をあしらうように受け止められていた。
「な、んで……っ」
「ノエルちゃん、シエルのためにここまで一人で来てくれたんでしょ? すっごくいい子だね! えらいえらい!」
アストルフォが、ハルバードを握るノエルの手に、自らの熱い掌を重ねた。
その瞬間。
「ひゃうッ……!?」
ノエルの全身を、高圧電流のような見えない熱が貫いた。
極東の魔性すらも陥落させた、限界突破の『オスの肯定感』。それは、ノエルのようなコンプレックスの塊の凡庸な魔術回路にとっては、触れられただけで自我の防壁がドロドロに融解し始めるほどの、絶対的な猛毒だった。
「あ、ぁ……っ、なに、これ……っ。手が、熱い……っ」
ハルバードが、ガランと音を立てて床に転げ落ちる。
ノエルの膝から完全に力が抜け、彼女は為す術もなく、アストルフォの広く逞しい胸の中へと崩れ落ちていった。