fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
観布子市の裏路地。
周囲の近代的な建物から取り残されたようにひっそりと佇む、時代遅れの古びた廃ビル。その上階にある『伽藍の堂』と書かれた磨りガラスの重厚な扉の前に、アストルフォは立っていた。
「えっと、ここだよね……。橙子が言ってた探偵事務所」
両腕には、愛する妻たちや子供たちのために買い込んだ大量の紙袋(ケーキ、和菓子、可愛い茶器、最新のゲームソフトなど)が、今にも崩れそうなほど抱えられている。
『コンコン!』
アストルフォは、袋の隙間から器用に指を伸ばし、扉をノックした。
「こんにちはー! 蒼崎橙子さんのお使いで来ましたー!」
明るく通る声で呼びかけるが、扉の向こうからは何の反応もない。気配を探ってみても、中に人がいる様子はなかった。
どうやら、橙子が「馬鹿弟子」と「物騒な目をした女」と呼んでいた主たちは外出中のようだった。
「うーん、お留守かなぁ」
アストルフォは、抱えきれない荷物を持ったまま、扉の前で困ったように首を傾げた。
勝手に入るわけにもいかないし、かといってこのまま帰るのも橙子の頼みを反故にしてしまうようで気が引ける。
「でも、ここ……間違いないや。橙子とおんなじ匂いがする!」
アストルフォの鋭い(そして天然の)嗅覚と魔術的な直感は、この古びた扉や壁に染み付いた、蒼崎橙子のルーンの残滓や、彼女特有のビターなタバコの匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
「仕方ないから、ここで少し待ってようかな。……あ、でもケーキの保冷剤が溶けちゃうかも」
彼が扉の前で、大量の紙袋をガサガサとさせながら遠慮がちに右往左往していた、その時。
「……あの。そこで何をしているのかしら?」
階段の方から、鈴の転がるような、少しだけ気高く澄んだ少女の声が響いた。
そこに立っていたのは、上質な高校の制服(ブレザー)に身を包んだ、十八歳になる娘だった。
艶やかな黒髪。凛とした顔立ちの中に、母親(両儀式)譲りの鋭さと、父親(黒桐幹也)譲りの底知れない穏やかさを併せ持ち、すでに大人の女性としての危うい色香を漂わせ始めている少女――両儀未那である。
「あ! ごめんね、邪魔だったかな?」
アストルフォは、両手の荷物を抱えたまま、パァッと満面の、太陽のような笑顔を向けた。
「…………っ」
その瞬間。未那の時間が、わずかに停止した。
未那は、同年代の少女たちに比べても圧倒的に精神年齢が高い。彼女の絶対的な理想(王子様)は、あの恐ろしい母をも包み込む底なしの優しさを持った「パパ(幹也)」であり、それ以外の同年代の男など子供のお遊戯にしか見えていなかった。
だからこそ、彼女は本能的な『人を見る目』に長けている。
(……なに、この人)
未那の黒い瞳が、僅かに揺れる。
見た目は、中性的で可愛らしい、桜色の髪の青年だ。両手にお土産を抱えてオロオロしている姿は、不審者というよりは迷子の大型犬のようで、警戒心など抱きようがない。
だが――違う。
彼がこちらを向いて微笑んだ瞬間、古びた廊下の冷たい空気が、一瞬にして『熱帯のそれに』書き換えられたのだ。
(すっごく、綺麗で……それに、なに、この……息が詰まるくらいの……)
ドクン、と。未那の胸の奥で、今まで感じたことのない早鐘が鳴った。
アストルフォから無自覚に漏れ出している、極東の魔性(キアラ)すら屈服させた『限界突破のオスの熱量とフェロモン』。
魔窟の化け物女たちを毎晩のように蕩けさせているその圧倒的な肯定感のオーラは、パパ(幹也)の持つ「静かな優しさ」とは全くベクトルの違う、暴力的で、甘く、強烈な『雄(オス)』としての引力だったのだ。
「……あ、あの」
未那は、無意識のうちに自らの制服の胸元をギュッと握りしめていた。
肌が粟立ち、下腹部の奥のほうから、ジンジンとした微熱が這い上がってくる。相手はただ笑いかけただけなのに、まるで自分の内側にある『女の子』としての部分を、真っ直ぐに見透かされ、肯定されているような錯覚に陥る。
「ボクね、蒼崎橙子さんのお使いで来たんだ! ここに住んでる人たちに、元気にしてるか見てきてって頼まれたんだけど……お留守みたいで、どうしようか迷ってたの」
アストルフォは、そんな未那の戸惑いなど全く気づかぬまま、人懐っこく事情を説明した。
「……橙子、おばさまの?」
未那は、はっと我に返った。だが、一度狂わされた体温はなかなか元に戻らない。彼女は熱を帯びた頬を隠すように、少しだけツンとした口調を作った。
「そう。ロンドンにいるあのおばさまがね。……ええ、ここは私のパパと、お母様の事務所よ。私は両儀未那。今は二人が留守だから、私が代わりにお話を聞いてあげるわ」
「本当!? よかったー! マナちゃんっていうんだね、ボクはアストルフォ! よろしくね!」
アストルフォが、紙袋の隙間からひょいと顔を出し、未那に向かってウインクをした。
「ひゃっ……」
未那の口から、自分でも驚くような、可愛らしい声が漏れた。
彼に見つめられるだけで、なぜか腰の奥が落ち着かなくなり、呼吸が浅くなる。パパと一緒にいる時の安心感とは違う、もっと危険で、甘くて、どうしようもなく惹きつけられる『熱』。
(なんなの、このお兄さん……。パパみたいに優しいのに……全然、違う……っ)
早熟なお姫様が、生まれて初めて「自分を狂わせる絶対的なオス」の引力に触れ、その理性の壁が甘く溶け始めた、その時だった。
『ザァァァァァッ!!』
突然、窓の外から激しい雨音が響き渡った。
初夏の極東特有の、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨だ。
「うわっ、すごい雨! ボク、傘持ってないや……」
アストルフォが窓の外を見て目を丸くする。
「……濡れちゃうわよ」
未那は、まだ微熱の引かない顔のまま、事務所の鍵を取り出して扉を開けた。
そして、自分より背の高い、熱の塊のような桜色の青年を見上げて、少しだけ小悪魔的に(しかし本能的な渇きを孕んだ瞳で)微笑んだのだ。
「中に入って、アストルフォお兄さん。……パパたちが帰ってくるまで、私が退屈しないようにお相手してあげるから」
かくして、古い探偵事務所という密室で。
太陽の騎士と、極道の姫君による、甘く危険な雨宿りが幕を開けたのだった――。