fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
『ザァァァァァッ……!』
窓を叩きつける激しい雨音だけが、薄暗い探偵事務所『伽藍の堂』の室内に響いていた。
「うわぁ、間一髪だったね! マナちゃん、入れてくれてありがとう!」
「……ええ。お兄さんも、そのすごい荷物が濡れなくて良かったわね。ほら、タオル」
未那は、奥の居住スペースから清潔なタオルを数枚持ってくると、アストルフォに差し出した。
事務所の中は、古い書物や雑多な骨董品が並び、どこかインクと埃、そして仄かな煙草の匂いが染み付いている。そこに、雨上がりの湿気を帯びた外気と、アストルフォという異物が持ち込んだ「むせ返るような熱帯の空気」が混ざり合い、ひどく濃密で息苦しい空間を作り出していた。
「ありがとう! んーっ、助かったぁ」
アストルフォは、両手に抱えていた大量のお土産袋をソファの脇に下ろすと、無造作にタオルで桜色の髪をガシガシと拭き始めた。
雨に少しだけ濡れた彼の首筋から、汗と雨水が混ざり合った雫が鎖骨へと滑り落ちる。
その無防備な仕草だけで、彼が魔窟で限界まで鍛え上げてきた『規格外のオスのフェロモン』が、むわっと室内に拡散された。
「…………っ」
未那は、お茶を淹れる手を一瞬止め、自らの下腹部がキュンと甘く疼くのを感じた。
(……なんなの、この匂い。お花みたいに甘いのに……すっごく、雄(オトコ)って感じで……頭の芯が、フワフワする……っ)
未那は、極道の家系に生まれ、両儀式という恐ろしい闇を抱えた母と、両儀幹也という絶対的な光である父の間に生まれた、極めて早熟なお姫様だ。並の男の色気や威圧感など鼻で笑ってあしらえるだけの胆力とプライドを持っている。
だが、目の前でニコニコと笑っているこの青年から放たれる引力は、次元が違った。彼が息を吐くたび、空気が重く甘く変質し、未那の内側にある「雌」としての本能を直接撫で回してくるのだ。
「雨、すぐには止みそうにないわね。……パパたちも、今日は仕事で遅くなるって言ってたし」
未那は、自らの動揺を悟られないよう、できるだけお嬢様らしい、ツンとした余裕のある声を作って温かいお茶をテーブルに置いた。
「そっか。マナちゃん、一人でお留守番えらいね!」
アストルフォは、出されたお茶を両手で包み込むように持ち、ふーふーと息を吹きかけてから一口飲んだ。「あ、これ美味しい! すっごくホッとするや」
その屈託のない笑顔に、未那の胸がまた大きく高鳴る。
「……お兄さん、そのすごい荷物、全部お土産なの?」
未那は、話題を逸らすように、ソファの横に山積みになっているカラフルな紙袋を指差した。
「うん! イギリスのお家で待ってる、ボクの奥さんたちと、子供たちにね! ケーキとか、可愛いお茶碗とか、いっぱい買っちゃった!」
「……奥さん『たち』? 子供『たち』?」
未那の黒い瞳が、驚きに見開かれる。
「そうだよ! ボクのお家にはね、橙子もいるし、凛や桜や……えっと、とにかくすっごくたくさん、大好きなボクのお姫様たちがいーっぱいいるんだ! 子供もね、イリヤちゃんやマナちゃんと同じくらいの子から、まだ小っちゃいアルチナまで、もう毎日すっごく賑やかなんだよ!」
アストルフォは、一切の悪びれる様子もなく、むしろ心底幸せそうに、自らの常軌を逸した「愛の魔窟」の家族自慢を展開した。
普通なら「頭のおかしいヤバい男」として警戒するだろう。
だが、未那の直感は、彼の言葉に一切の嘘や邪気がないことを見抜いていた。彼は本当に、その場にいない数多の女性や子供たちを、分け隔てなく、海の底のように深く愛しているのだ。だからこそ、あれほどまでに圧倒的な「包容力」と「オスの熱」を纏っている。
「ふーん……。お兄さんって、見た目よりずっと……すごい人なのね」
未那は、お茶の入ったカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ悔しそうに(そして無意識の熱を帯びた瞳で)アストルフォを見つめた。
「でもね、私のパパだって負けてないんだから!」
未那は、持ち前のませた性格と、少しの対抗心を燃やして、身を乗り出した。
「私のパパはね、本当にすっごく優しいの。誰かを傷つけることなんて絶対にしないし、どんなに怖い人でも、パパの前ではみんな大人しくなっちゃうんだから。あのママ(式)だって、パパの言うことだけは絶対に聞くのよ」
未那のパパ自慢が始まる。
「それにね、パパは私のことを一番大事にしてくれるの。私にとってパパは、誰よりもかっこいい、私だけの絶対の王子様なんだから!」
未那は、少し得意げに胸を張った。
十八歳という、もう立派な大人の女性として扱われてもいい年齢であるにもかかわらず、彼女が大人たちにこの話をすると、皆一様に「ふふっ、相変わらずお父さんっ子なのね」「いつになったらパパ離れできるのかしら」と、あくまで『愛らしい娘の微笑ましい冗談』として軽く受け流してくる。それが大人の余裕というものだ。
だから、未那はアストルフォも同じように笑って受け流すと思っていた。
だが。
「へえーっ!!」
アストルフォは、カップをテーブルに置くと、目をキラキラと輝かせて未那の顔を真っ直ぐに見つめ返したのだ。
「マナちゃんのパパ、すっごくかっこいいね!! 橙子も『あれは特別な馬鹿弟子だ』って言ってたけど、本当にすごい人なんだなぁ。……ママさんみたいな強い人も包み込んじゃうくらい優しいなんて、本物の王子様だね! ボクも、絶対会ってお話ししてみたかったな!」
一切の否定も、茶化すこともない。
子供扱いなど微塵もない、純度百パーセントの、真っ直ぐな『全肯定』だった。
「…………えっ」
未那の言葉が、不意に途切れた。
彼女が「一人の女性としての本気の想い」として語ったパパへの憧れを、アストルフォは「対等な一人の人間の想い」として、正面から完全に受け止めてくれたのだ。
『ドクンッ!!』
未那の子宮の奥底で、先程までの微熱が、弾けるような激しい熱流へと変わった。
(……なんで、そんな風に……私の目を見て、言ってくれるの……っ)
パパ(幹也)の優しさは、どんな相手も無条件で受け入れる「静かな水面」のようなものだ。
しかし、目の前にいるこの太陽の騎士の優しさは違う。相手のすべてを肯定しながら、その内側に踏み込み、理性をドロドロに溶かして「雌」として惹きつけてやまない、暴力的なまでの『熱帯の太陽』。
「でもね」
アストルフォは、不意に声のトーンを落とし、スッと未那の顔に近づいた。
雨音だけが響く密室。彼から放たれる熱気と、甘いオスの匂いが、未那の全身を絡め取る。
「マナちゃんのパパもすっごく素敵だけど。……マナちゃん自身も、すっごく魅力的で、可愛いお姫様だよ」
紫水晶のように澄んだ瞳が、未那の黒い瞳を真っ直ぐに、逃げ場のないほど至近距離で射抜く。
「……ボクなら。マナちゃんのこと、誰よりも一番にしてあげるのになぁ」
「――――ッ!!」
その言葉と、彼から放たれた極限のフェロモンが。
両儀未那という少女が必死に保っていた防壁を、内側から完全に、甘く溶かし尽くした瞬間だった。