fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
深夜。
すっかり雨の上がった観布子市。古びた探偵事務所『伽藍の堂』の扉が、静かに開かれた。
「ただいま、未那。遅くなってごめんね。……あれ? 電気が点いてないな」
穏やかで、誰よりも優しい声とともに現れたのは、両儀幹也だった。その後ろには、着流しに赤い革ジャンを羽織った男装の麗人――両儀式が、気怠げな足取りで続いている。
「あいつ、もう寝たのか? 今年で十八だっていうのに、相変わらず夜更かししないガキだな」
式は呆れたように言いながら、事務所の明かりを点けた。
だが、いつもなら「パパ、おかえりなさい!」と真っ先に駆け寄ってくるはずの愛娘の姿はない。
代わりに、アンティークのテーブルの上に、見慣れない海外の高級洋菓子店の箱と、一通の可愛らしい封筒がポツンと置かれていた。
「……ん? 手紙?」
幹也は不思議そうに首を傾げ、封筒を手に取った。
そこには、未那の丸みを帯びた達筆な字で『大好きなパパ、そしてお母様へ』と書かれていた。
嫌な予感など微塵も抱かず、幹也はその手紙の封を切った。
そこには、ませた愛娘が初めて「一人の大人の女」として書き綴った、衝撃的な事後報告と意思表明が記されていた。
『――大好きなパパ、お母様へ。
突然だけど、私、今日、運命の王子様に出会いました。
パパ。私は今年で十八歳になったけれど、周りの大人はみんな、私のことを「おませな子供」としか見てくれませんでした。パパだって、私のことをずっと可愛い「娘」としてしか愛してくれなかったでしょ?
でもね。今日、橙子おばさまのお使いでここに来た桜色の髪のお兄さん(アストルフォさん)は、違いました。
彼は、私を子供扱いしませんでした。一人の対等な「女」として真っ直ぐに見つめて、私のすべてを肯定してくれました。
そして……パパみたいな穏やかな優しさじゃ絶対に満たせない、頭の芯がドロドロに溶けちゃうくらいの、すっごく熱くて激しい愛で、私を世界で一番のお姫様(大人の女)にしてくれたの。
もう、彼のあの匂いと熱がないと、私は生きていけません。ただの「娘」には戻れません。
だから私、彼についてロンドンへ行きます。彼のお家には、お母様みたいに強くて綺麗な女の人が何十人もいるみたいだけど、私だって絶対に負けないくらい、彼に愛されてみせるから。
心配しないでね。今まで育ててくれてありがとう。
追伸:このケーキは彼からのお土産です。とっても甘くて、美味しいよ。あと、橙子おばさまに会ったら、素敵な運命の出会いをありがとうってよろしく伝えてね♡
両儀未那(もうすぐ、アストルフォのお嫁さんより)』
「……………………」
静寂。
伽藍の堂の室内に、沈黙が落ちた。
「……おい。どうした、幹也」
式の鋭い瞳が、少しだけ目を丸くして固まっている夫の様子を捉える。
「……いや。まいったな」
幹也は、虚空を見つめて数秒ほど瞬きをした後。絶望するでもなく、取り乱すでもなく、ひどく困ったような、けれどどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべた。
「橙子さんの知り合いに、先を越されちゃったよ。……うちのお姫様も、ついに本当の王子様を見つけちゃったみたいだ」
幹也は、手紙をそっとテーブルに置いた。彼にとって、娘がいつか自分から離れていくことは、寂しくとも当たり前の成長として、すでに受け入れていることだったのだ。
だが、その手紙を横から覗き込んだ式の反応は、夫とは全く違った。
「…………は?」
式の瞳の奥で、カチリ、と氷の割れるような音がした。
次の瞬間、彼女の瞳には極限まで研ぎ澄まされた『直死の魔眼』が、青と赤の禍々しい光を放って起動していた。
「なめやがって。どこの馬の骨とも知れねぇ泥棒猫が、うちの娘に手ぇ出して……あまつさえ、あのクソアマ(橙子)の差し金だと?」
式は無言のまま、部屋の隅に立てかけられていた白鞘の日本刀――『九字兼定』を、スッと手に取った。
その全身から立ち上る殺気は、かつて数々の怪異を切り伏せてきた両儀式の、人生で最も深く、静かで、絶対的なブチギレのそれであった。
「ちょっと、イギリスまであのクソアマごと、そのふざけた騎士気取りの首を『殺し』に行ってくる」
式が、殺意のままに扉へ向かって足を踏み出そうとした、その時。
「ダメだよ、式」
幹也の温かく、一切の淀みがない手が、日本刀を握る式の腕を優しく、けれど絶対に逃げられない包容力で包み込んだ。
「みき、や……っ、止めんな。そいつは私が殺す」
「物騒なものは置いていこう。……未那の手紙、読んだだろう? あの子はもう、立派な一人の女性として、自分の意志で選んだんだ。相手の男性も、未那を心から大切にしてくれているのが伝わってくるよ」
幹也の、異常なまでの穏やかさと、底なしの受容力を持った黒い瞳が、式の凶暴な殺気を真っ直ぐに見つめ返す。
「娘が選んだ『運命の人』なんだ。……刀なんかじゃなくて、二人で、ちゃんと挨拶に行こうか」
その、世界で一番優しく、絶対に逆らえない光のような微笑みに。
式は数秒ほどギリッと奥歯を噛み締めた後。
「…………チッ」
大きく舌打ちをして、乱暴に直死の魔眼を解き、九字兼定を床に放り投げた。
「……あんたがそう言うなら、仕方ねぇ。だが、もし娘を泣かせるようなら、挨拶のついでにそいつの『死』を視てやる」
「ありがとう、式。……さて、それじゃあまずは、このケーキを二人で食べようか」
極東の最強夫婦の衝突は、黒桐幹也という絶対的な「普通(光)」によって、あっさりと平和的な結末(ロンドンへのカチコミならぬ、家族旅行)へと書き換えられたのだった。
***
同刻。ロンドン行きの国際線のファーストクラス。
「ふふっ。アストルフォ、あーんして?」
「あーん! うん、美味しい! マナちゃんが食べさせてくれると、もっと美味しく感じるや!」
広々としたシートで、未那はアストルフォのがっしりとした腕にぴったりと抱きつき、トロトロに甘え切った顔で彼に機内食のフルーツを食べさせていた。
十八歳の極道の姫君は、今や完全に「愛するオスの熱に当てられた極上の雌」としての色香を振り撒き、彼から離れようとはしなかった。日本に残してきた両親の動向など、今の彼女の幸福な脳内には微塵も存在していない。
「ねえ、アストルフォ。ロンドンに着いたら、ずっと私と一緒にいてね?」
「うん! もちろん! マナちゃんのこと、誰よりも一番大事なお姫様にしてあげるからね!」
屈託のない太陽の笑顔に、未那はたまらなくなって自ら彼の唇を奪う。
極東の最強夫婦の来訪と、蒼崎橙子の胃痛という特大の修羅場が迫っていることなど知る由もなく。無尽蔵の熱と全肯定で新たなお姫様をドロドロに溶かした太陽の騎士は、ロンドンの空へと向けて、満面の笑顔で帰路についているのだった。