fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドンの冷たい雨がガラス屋根を叩く音は、いつの間にか小降りになり、静かな霧雨へと変わっていた。
むせ返るような薔薇の香りと、二人が生み出したむき出しの熱情の匂いが立ち込める温室。
長椅子の上で、桜・エーデルフェルトはアストルフォの少し大きめの白いジャケットを素肌に直接羽織り、彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「……ふふっ。桜、ボクの服、すごく似合ってる。なんだかボクの一部になっちゃったみたいだね」
「もう……からかわないでください。私のドレス、あんなに濡らしてしまって……お義姉様(ルヴィア)に何と言い訳すればいいか」
困ったように眉を下げる桜だったが、その紫の瞳にはもう、先ほどまでの凍てつくような孤独の色は微塵もない。艶やかな肌には彼が刻み込んだ無数の赤い痕が散らばり、指先が触れ合うだけで甘い痺れが蘇るほどの、濃密な余韻に浸っていた。
アストルフォは桜の額にちゅっと軽いキスを落とし、彼女の乱れた黒髪を指で梳いた。
「言い訳なんてしなくていいよ。『ボクが桜を可愛がりすぎちゃったからだ』って、ちゃんとボクが説明してあげる!」
「そ、そんなこと言ったら、お義姉様があなたをガンドで撃ち抜いてしまいます……っ!」
くすくすと、二人だけの甘い笑い声が交差する。
桜の胸の奥は、これまでにないほどの絶対的な安心感と、彼に対する強烈な独占欲で満たされていた。自分はもう、誰かの代用品でも、空っぽの箱でもない。この胸を満たす熱が、その何よりの証拠だった。
しかし――その甘美な時間は、不意に鳴り響いた「ヒールが石畳を叩く鋭い足音」によって破られた。
「……ちょっと。どういうことか、説明してもらえるかしら」
温室の入り口。
ガラス扉を押し開けて立っていたのは、黒いトレンチコートを羽織った最強の魔法使い、蒼崎青子だった。
彼女の背後には、雨上がりの冷たい空気が渦巻いている。しかし、青子自身の青い瞳からは、ぞっとするほどの低い温度と、明確な『怒り』……いや、凄まじい『嫉妬』の炎が立ち上っていた。
「あ、蒼崎先生……っ!?」
桜の肩がビクッと跳ねる。
青子は数々の修羅場を潜り抜けてきたトップクラスの魔術師だ。温室に入った瞬間に、そこに残留している魔力の痕跡、二人の乱れた衣服、そして何より、桜の肌に刻まれた真新しい愛痕と、アストルフォから漂う濃厚な『事後』の匂いを、一瞬で悟ったのだ。
「……私が、あの金持ちでプライドの高い金髪の当主候補(ルヴィア)と、胃の痛くなるような特許の交渉をしてる間に……あんたは、そのお宅の大事な妹君を、こんな温室で美味しく頂いていたってわけ?」
青子の声は、地を這うように低かった。
彼女の指先で、パチッ、パチッと青白い魔力の火花が爆ぜる。それは決して冗談ではなく、一歩間違えれば温室ごと吹き飛びかねないほどの危険な兆候だった。
「青子! おかえりなさい! 交渉、終わったんだね!」
しかし、当のアストルフォは、そんな一触即発の空気など全く意に介さず、桜を抱き寄せたまま満面の笑みで青子に手を振った。
「おかえりなさい、じゃないわよこの大馬鹿!! あんたね、少し目を離した隙に……っ!」
「だって、桜がすごく寂しそうな顔で泣いてたから。放っておけなくて、ボクの熱でいっぱいに温めてあげたんだ! 桜、すっごく可愛かったよ!」
一切の悪びれもない、純度百パーセントの報告。
そのあまりにも規格外な『理性蒸発』っぷりに、青子は怒りを通り越して、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「あんた……自分が何言ってるかわかってるの……? 私という女がいながら、堂々と……っ」
「わかってるよ! ボクは、青子のことも、桜のことも、両方大好きなんだ!」
その言葉に、青子は息を呑んだ。
普通なら「ふざけるな」と殴り飛ばす場面だ。しかし、青子は南欧の夜で、彼のその「規格外の愛」に自分自身が救われ、完全に陥落してしまったことを知っている。彼の言葉には一片の嘘も打算もなく、ただひたすらに、目の前の少女の孤独を救いたいという『英雄としての純粋な愛』しかなかったのだと、痛いほど理解できてしまうのだ。
その時だった。
アストルフォの腕の中にいた桜が、ゆっくりと立ち上がった。
素肌に大きめのジャケットを羽織っただけの、ひどく無防備で淫らな姿。しかし、青子を見つめ返す彼女の紫の瞳には、エーデルフェルトの魔術師としての、決して退かないという強い意志の光が宿っていた。
「……蒼崎先生。彼を、責めないでください」
「桜……あんたね、自分が何をされたか……」
「わかっています。……いえ、私から、彼に求めたのです。私の空っぽな心を、満たしてほしいと」
桜は一歩、青子の方へ歩み出た。
かつてなら、あの蒼崎青子を前にして、萎縮して何も言えなかったはずだ。しかし、今の彼女の内側には、アストルフォから注ぎ込まれた圧倒的な熱と自己肯定感が、確かな芯となって存在していた。
「先生が彼を愛していることは、知っています。……でも、私も、彼を愛してしまいました。彼が与えてくれた熱を、もう手放すことはできません」
「……っ、この……名門のお嬢様が、随分と大胆なことを言ってくれるじゃない」
青子の瞳が細められ、二人の女の間に、バチバチと見えない火花が散る。
互いに譲れない、強烈な独占欲のぶつかり合い。一歩間違えれば、魔術戦に発展しかねないほどの緊張感。
「ストーーップ!! 二人とも、怖い顔しないで!」
その張り詰めた空気を、アストルフォが軽やかにぶち破った。
彼は二人の間に割って入ると、なんと、右手で青子の腰を、左手で桜の腰を同時に力強く抱き寄せたのだ。
「きゃっ!?」
「ちょっ……あんた、なにを……っ!」
強引に彼の胸元に引き寄せられ、青子と桜の顔が至近距離で並ぶ。
アストルフォは、二人の美しい顔を交互に見つめ、極上の笑みを浮かべた。
「青子も、桜も、二人ともボクの大切なお姫様だ! どっちか一人を選ぶなんてできないし、どっちかが悲しむのも絶対に嫌だ!」
「無茶苦茶言わないでよ……っ! 恋愛ってのはね、そういうものじゃ……」
「ボクは英霊だよ? 常識なんて関係ない! ボクの愛は、キミたち二人を絶対に幸せにできるくらい、すっごく大きくて熱いんだから!」
そう宣言すると、アストルフォはまず、抗議しようと口を開いた青子の唇を、容赦なく深く塞いだ。
「んんっ……!? ぁ……っ、ばか、こんなところで……っ!」
南欧の夜を思い出させるような、強引で、けれどどうしようもなく甘い舌の絡み合い。青子の膝から瞬時に力が抜け、彼女はたまらずアストルフォの肩にすがりついた。魔術師としての怒りなど、彼のもたらす圧倒的なオスの熱の前では一瞬でトロトロに溶かされてしまう。
ちゅっ、と淫らな音を立てて青子の唇を解放した直後、アストルフォは今度は、その様子を顔を真っ赤にして見つめていた桜の唇へと、同じように深く熱いキスを落とした。
「あっ……んちゅ……ぁ、アストル、フォ……っ」
先ほどまで自分の内側をかき混ぜていたのと同じ、甘く狂おしい熱。桜はたまらず嬌声を漏らし、彼の首に腕を絡ませた。
「はぁっ、はぁ……っ。どう? ボクの愛、ちゃんと伝わった?」
左右の腕に、顔を真っ赤にして荒い息を吐く二人の極上の美女を抱え込みながら、アストルフォは得意げに笑った。
青子は、真っ赤な顔のまま、限界まで呆れたように大きなため息をついた。
「……っ、はぁ……。本当に、あんたって男は……規格外にも程があるわ。怒る気すら失せたわよ」
「えへへ! じゃあ、許してくれる?」
「許すわけないでしょ。……今日の夜、ホテルに戻ったら、私一人でたっぷり『お仕置き』してやるんだから。覚悟しなさいよね」
青子はアストルフォの頬をつねりながら、しかしその目は完全に熱に浮かされた女の艶を帯びていた。
その青子の言葉を聞いて、桜がピクッと反応した。
彼女はアストルフォのシャツの裾をきゅっと掴み、上目遣いで彼を見つめた。
「……ずるいです。私だって、まだ……彼と一緒にいたいです」
「さ、桜……? あんた、本気で言ってるの?」
「本気です。……青崎先生。私、先生から彼を奪い取るつもりはありません。でも……譲るつもりも、ありませんから」
桜のその言葉は、宣戦布告であり、同時に「彼を共有する」という狂った状況を、彼女自身が完全に受け入れた証拠でもあった。
「……ふふっ。言うようになったじゃない、お嬢様。いいわ、その喧嘩、買ってあげる。あんたも夜、私たちのホテルに来る気があるならね」
「望むところです……っ」
二人の間に、先ほどまでの殺伐とした嫉妬ではなく、奇妙な連帯感と、同じ男の熱に狂わされた者同士の、共犯者のような火花が散った。
「やったー! 青子も桜も、みーんな仲良しだね! 今夜は三人で、すっごく楽しい夜にしようね!」
何もわかっていないのか、すべてわかった上で立ち回っているのか。アストルフォは底抜けに明るい声で歓声を上げ、二人のヒロインをさらに強く抱きしめた。
ロンドンの冷たい雨の庭園で、規格外の騎士を中心とした、甘く、そしてひどく淫らなハーレムの輪が、今まさに確固たる形となって結ばれたのだった。
――「サクラ! どこにいますの、サクラ!!」
その時、遠くの本邸の入り口から、金髪の縦ロールを揺らし、優雅なドレスに身を包んだ少女――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの甲高い声が響き渡ってきた。
「お客人をお見送りしますわよ! 全く、大事な時にどこへ……って、まあっ!?」
庭園の奥、温室の中から出てきた三人。
蒼崎青子と、見知らぬ見目麗しい青年。そして、あろうことかその青年の『男物のジャケットを素肌に一枚羽織っただけ』の、乱れきった姿の妹、桜。
ルヴィアゼリッタの青い瞳が、限界まで見開かれた。
「サ、サクラ……!? あ、あなた、そのふしだらな格好は一体……!?」
「お、お義姉様……っ! こ、これは、その……っ!」
新たな波乱の幕開けに、青子は「あーあ、面倒なことになった」と肩をすくめ、アストルフォは「やっほー! キミがルヴィアだね!」と満面の笑みで手を振った。
ロンドン・時計塔でのアストルフォの『観光』は、まだ始まったばかりであった――。