fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
あの衝撃的な温室での遭遇から、数日が経過していた。
ロンドン・時計塔に程近い、エーデルフェルト家の本邸。
その豪奢な執務室で、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、最高級のダージリンティーが冷めていくのも忘れ、優雅な眉間を深く揉みほぐしていた。
「……信じられませんわ。あのサクラが、あのような破廉恥な……っ」
思い出すだけで、カッと顔が熱くなる。
数日前、雨の庭園の温室で彼女が目撃した光景。大切に、それこそ箱入り娘のように育ててきた義妹の桜が、見知らぬ男のジャケットを素肌に羽織り、完全に『女』の顔をして彼に寄り添っていたのだ。
しかも、その隣にはあの厄介極まりない第五魔法の体現者、蒼崎青子までが「彼は私のものよ」と言わんばかりの態度で居直っていた。
その後、ルヴィアは半ばパニックになりながらも当主候補としての矜持を保ち、桜を自室へ軟禁した。男と蒼崎青子には即座に屋敷から退去を命じたのだが――問題は、その後の桜の態度だった。
『お義姉様。私、彼に会いに行きます』
軟禁したはずの桜は、夜な夜な屋敷の結界をすり抜け(恐らく蒼崎青子の手引きか、あの男自身の規格外の能力によるものだろう)、彼らが滞在しているホテルへと通い詰めているのだ。
咎めても、桜は決して俯かなかった。かつての虚ろで人形のような瞳ではなく、強烈な熱と意志を宿した紫の瞳で、ルヴィアを真っ直ぐに見つめ返してくる。
『私はもう、空っぽではありませんから』
そう微笑む妹の顔は、悔しいほどに美しく、生命力に満ち溢れていた。
「……一体、あの男は何者ですの。サクラをたった一日で洗脳し、あの蒼崎青子までを手懐けるなど……魔眼の持ち主? それとも、精神干渉系の宝具を持つ英霊?」
ルヴィアはギリッと奥歯を噛み締めた。
エーデルフェルトの誇りにかけて、得体の知れない輩に妹をたぶらかされたままにしておくわけにはいかない。次にあの男がこの屋敷に姿を現した時は、問答無用でガンドの雨を降らせ、時計塔の地下牢にでも叩き込んでやる。
そう決意を固め、ルヴィアが冷めた紅茶に口をつけようとした、その時だった。
「やっほー! ルヴィア、いるー?」
「……ぶふっ!?」
コンコン、というノックの音すらなかった。
重厚なマホガニーの扉が勢いよく開け放たれ、執務室に桜色のつむじ風が舞い込んだのだ。
「げほっ、ごほっ……っ! あ、あなた……っ!」
「あ、ごめん! 紅茶飲んでたんだね! 驚かせちゃった?」
悪びれる様子など微塵もない、底抜けに明るい笑顔。
数日前に温室で見た、あの忌まわしき青年——アストルフォが、エーデルフェルトの厳重な魔術結界をどうやって抜けたのか、堂々とルヴィアの執務室のど真ん中に立っていた。
今日は少しだけフォーマルな黒いシャツを着崩しているが、その人間離れした美貌と、周囲の空気を一変させるような陽性のオーラは健在だった。
「どうやってこの部屋に……っ! ええい、警備の者は何をしていますの! ここはエーデルフェルトの当主の部屋ですわよ!」
「青子がね、『特許の追加書類を持ってけ』って言うからお使いに来たんだ! 玄関のゴーレムみたいな人たちは、ヒポグリフがちょっと遊んであげてるから大丈夫!」
「大丈夫ではありませんわ!! 門番を破壊したというの!?」
ルヴィアはバンッ! とデスクを叩いて立ち上がった。
青い瞳に怒りの炎を燃やし、両手に魔力を集中させる。指先でパチパチと青白い魔力光が弾け、いつでも必殺のガンドを撃ち込める体勢をとった。
「それ以上近づいたら、灰にしますわよ。……サクラをたぶらかした色情狂の悪魔め。あなたのそのふざけた顔を、二度とサクラに見せられないようにしてやりますわ」
絶対零度の声。一流の魔術師から放たれる明確な殺意。
しかし、アストルフォは全く動じなかった。それどころか、彼はきょとんとした顔で首を傾げた。
「色情狂? 悪魔? ボクのこと? ……うーん、悪魔じゃないけど、桜のことはいっぱいいっぱい愛してあげたよ! 桜、すっごく可愛かったなぁ」
「なっ……! このっ、恥知らず……っ!!」
怒りが頂点に達したルヴィアは、魔術を放つことすらもどかしくなり、自らの肉体を弾丸のように前に打ち出した。
彼女は淑女でありながら、プロレスをはじめとする格闘技の達人でもある。美しいドレスの裾を翻し、アストルフォの胸ぐらを直接掴んで投げ飛ばそうと、猛禽類のような鋭さで彼に飛びかかった。
「そこを退きなさいっ!」
ルヴィアの華奢だが鍛え上げられた手が、アストルフォの黒いシャツの襟首を掴む。
――そのはずだった。
「わわっ、危ないよルヴィア!」
「……え?」
視界が、反転した。
ルヴィアの投げ技が彼に届くよりも一瞬早く、アストルフォは極めて滑らかな動きで彼女の腕をとり、その勢いを殺すようにクルリと背後に回り込んだのだ。
そして、ルヴィアが体勢を崩して床に倒れ込む寸前。彼女の細い腰に、彼のがっしりとした腕が巻き付き、ふわりと空中で抱き留められた。
「はい、キャッチ! 床に転がったら、綺麗なドレスが汚れちゃうからね」
「……っ!?」
ルヴィアの背中が、アストルフォの硬く熱い胸板にぴったりと密着していた。
至近距離。いや、ゼロ距離。
耳元で囁かれる無邪気な声と同時に、彼から発せられる途方もない体温が、ドレス越しにルヴィアの肌を直接焦がすように伝わってくる。
「は、離し……っ!」
「ルヴィアってば、すっごくいい匂いがするね! 高そうな紅茶と、お花の匂い! でも、身体はすごくガチガチに強張ってるよ?」
アストルフォはルヴィアを抱き留めたまま、少しも離れようとしない。
それどころか、彼の顔がルヴィアのうなじのすぐそばまで近づき、熱い吐息が彼女の真っ白な首筋をふわりと撫でた。
「ひゃっ……!?」
魔術師としての鍛錬を積んできたルヴィアでさえ、経験したことのない異質な感覚。
それは、彼が放つ圧倒的な『オス』としてのフェロモンだった。ただの魔力ではない、本能に直接訴えかけてくるような、野性的で甘い引力。ルヴィアの脳髄の奥が、一瞬だけ甘く痺れたような錯覚に陥る。
「無礼者っ!!」
ルヴィアは顔を真っ赤にして叫び、アストルフォの胸を肘で思い切り突いて強引に距離を取った。
ヒールを鳴らして数歩後ずさるが、彼女の呼吸は明らかに乱れており、胸が激しく上下していた。腰に回されていた彼の腕の感触と、火傷しそうなほどの熱が、まだ肌にべったりと残っている気がしてならない。
「……あ、あなた……っ。ただの使い魔ではないとは思っていましたが……サーヴァント、ですわね?」
「うん! ボクはアストルフォ! ライダーの英霊だよ!」
隠す気すらない堂々とした名乗りに、ルヴィアは警戒レベルを最大まで引き上げた。
英霊。神話や歴史の英雄。それがマスターも伴わずに受肉し、あろうことか蒼崎青子と行動を共にしている。
しかし、ルヴィアが今この瞬間に恐れを抱いたのは、彼の規格外の魔力やステータスに対してではなかった。
(なんなの、この男は……。一瞬触れられただけで、思考が、身体の奥が……おかしな熱を持つなんて……っ)
「……帰ってくださいませ。書類は受け取りました。もう二度と、私とサクラの前に姿を現さないで」
ルヴィアはデスク越しに書類を指差し、極力冷たく、感情を交えずに言い放った。
これ以上この男と同じ空間にいれば、自分の冷静な判断力が狂わされてしまうという本能的な危惧があった。
だが、アストルフォは帰るどころか、ルヴィアのデスクの前に歩み寄り、両手をついて彼女の顔を正面から覗き込んだ。
「ねえ、ルヴィア。キミはどうして、そんなにいつも怒ってるの?」
「……は?」
「温室で会った時もそう。今もそう。キミはいつも、眉間に皺を寄せて、誰かを威嚇してる。……まるで、そうやって強がってないと、自分が壊れちゃうみたいに」
紫水晶の瞳が、ルヴィアの心の最も分厚い装甲を、いとも容易く貫通してくる。
「っ……あなたに、私の何がわかると言うのですか!」
「わかんないよ。でも、キミが桜のことをすっごく大切に思ってることはわかる。……キミは、桜を守るために、必死で『立派なお姉ちゃん』と『当主』の仮面を被ってるんでしょ?」
図星だった。
エーデルフェルトの双璧として、桜を迎え入れた日から。ルヴィアは、遠坂から出された桜がこれ以上傷つかないよう、彼女に完璧な居場所と誇りを与えるため、誰よりも厳しく、そして誰よりも孤独に「完璧な当主候補」を演じ続けてきた。
弱音など吐けるはずがなかった。背負うものが大きすぎたからだ。
「……黙りなさい。エーデルフェルトの人間は、誇り高きハンターですわ。私が守っているのは、一族の利益だけ。くだらない感情論など……っ」
「嘘だ」
アストルフォの大きな手が、デスクの上に置かれていたルヴィアの震える手に、ふわりと重ねられた。
「あ……」
「キミの手、すごく冷たい。一人でそんなに重たいものを抱え込んでたら、いつか凍えちゃうよ」
先ほど腰を抱かれた時と同じ、常軌を逸した熱量が、今度は指先からルヴィアの全身へと流れ込んでくる。
振り払わなければならない。この男は、桜を狂わせた毒だ。
頭では分かっているのに、ルヴィアの身体は、その優しすぎる熱を拒絶することができなかった。
「ボクはね、桜をたぶらかしたんじゃない。彼女が一人で凍えてたから、ボクの熱で温めてあげただけだ。……そして今、目の前に、もう一人凍えてる女の子がいる」
アストルフォの顔が、さらに近づく。
ルヴィアの青い瞳が、彼の紫の瞳に完全に捕らえられた。
「ねえ、ルヴィア。キミも……ボクの熱、欲しい?」
挑発するような、けれどどこまでも甘く、深淵に引き摺り込むようなオスの囁き。
執務室の静寂の中、ルヴィアの胸の奥で、決して鳴らしてはならないはずの警鐘が、けたたましく、そしてひどく淫らに鳴り響き始めていた――。