※この作品はR-18です。

fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ   作:鰻天ぷら

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バゼット・フラガ・マクレミッツ編②

霧が立ち込めるロンドンの裏路地。

静寂を切り裂くように、石畳を砕く鋭い踏み込みの音が響いた。

 

「――ハッ!」

 

バゼット・フラガ・マクレミッツのルーンを刻印した革手袋が、赤黒い魔力の軌跡を描きながら、アストルフォの顔面へと容赦なく迫る。

それは、数多の魔術師や異端を葬ってきた、純粋な暴力の結晶。執行者としての氷のように冷たい『殺意』そのものだった。

 

しかし。

 

「おっと! すっごく速いね! でも、直線的すぎるよ!」

 

アストルフォは桜色の髪をふわりと揺らし、羽毛のような軽やかさでその恐るべき剛腕を躱した。

バゼットの拳が空を切り、背後の煉瓦の壁を爆音とともに粉砕する。

「チッ……!」

 

バゼットは即座に体勢を立て直し、流れるような連撃を繰り出そうとした。だが、彼女の視界の端で、アストルフォが馬上槍(トラップ・オブ・アルガリア)をクルリと無造作に回した。

 

「そりゃっ!」

「なっ……!?」

 

アストルフォの黄金の槍の切っ先が、バゼットの革靴のつま先にほんのわずかに触れた。

ただそれだけだった。物理的な衝撃など皆無。

しかし、次の瞬間、バゼットは自身の身体の重力法則が完全に狂ったのを知覚した。鍛え上げられた体幹も、ルーンによる強化も一切無視され、彼女の長身が宙に浮き、無様に石畳へと倒れ込もうとする。

 

(……宝具の能力!? しまった、受け身を……っ)

 

バゼットが歯を食いしばった、その時。

 

「危ないっ!」

 

石畳に叩きつけられる寸前、アストルフォのがっしりとした腕が、バゼットの細く引き締まった腰をふわりと、しかし逃げ場のない力強さで抱き留めた。

 

「え……?」

 

バゼットの口から、間抜けな声が漏れる。

敵を倒す絶好の好機だったはずだ。それなのに、彼は武器を収め、あろうことか敵である自分を庇うように抱きしめている。

 

「大丈夫? 痛いところ、ない?」

 

「……あ、貴方、何を……っ」

 

至近距離。ゼロ距離。

バゼットの青みがかった灰色の瞳のすぐ目の前に、アストルフォの紫水晶の瞳があった。

彼から吐き出される熱い息が、バゼットの前髪を揺らし、彼女の鼻先を掠める。

 

「離しなさい……っ! 私は、貴方たちを排除する、執行者……っ!」

 

強がって彼を突き飛ばそうとしたバゼットだったが、彼女の両腕はアストルフォの分厚い胸板にぴたりと押し当てられたままで、なぜか力が入らなかった。

仕立ての良いエンジ色のスーツ越しにすら、彼から発せられる途方もない『オス』の熱量が、じりじりと肌を焦がすように伝わってくるのだ。

しかも、彼から漂うのは血と鉄の匂いではない。数分前まで五人の美女たちとベッドで絡み合っていた、むせ返るような花々の香りと、じっとりと甘い情欲の匂いだった。

 

「……っ、なんという、破廉恥な匂い……貴方、本当に英霊なのですか……っ」

 

「破廉恥? そうかな。ボクは、大好きな女の子たちといっぱいいっぱい愛し合ってきただけだよ。……キミこそ、そんなガチガチのスーツ着て、無理して怖い顔ばっかりして。本当は、すごく苦しいんじゃない?」

 

「……!」

 

アストルフォの真っ直ぐな言葉が、バゼットの心の最も柔らかい部分を無遠慮に抉った。

魔術協会の猟犬として、ただ命令されるがままに戦い、裏切り者を狩る日々。女性としての幸せや、誰かに愛される喜びなど、とうの昔に封印したはずだった。私は、ただの戦う機械(フラガラック)でいいのだと、自分に言い聞かせてきた。

 

しかし、彼に腰を抱かれ、その圧倒的な熱と甘い匂いに当てられている今、バゼットの胸の奥底で、かつて押し殺したはずの『ただの乙女』としての感情が、激しく、そして恐ろしいほどの熱を持って警鐘を鳴らし始めていた。

 

(だめだ……このまま彼に見つめられていたら、私は……執行者としての自分を、見失ってしまう……っ!)

 

バゼットの瞳が微かに潤み、彼女が無意識のうちに彼から目を逸らそうとした、まさにその時だった。

 

『――そこまでだ、バゼット。武器を収めよ』

 

不意に、バゼットのスーツの胸ポケットに忍ばせていた通信用の魔術礼装から、傲慢で、ひどく理知的な少女の声が響き渡った。

 

「っ……次期当主(ライネス)様……!?」

 

バゼットがハッとして、慌ててアストルフォの胸から距離を取ろうと身を捩る。

 

『時計塔の法政科から、貴女の任務に対する凍結命令が出た。エーデルフェルトの次期当主、並びに蒼崎青子、そして……そこの騒々しい英霊たちを、無傷で時計塔の中央会議室へ案内したまえ』

 

「案内、ですか……? しかし、彼らは……」

 

『これは君主(ロード)名義の決定だ。貴女はただの猟犬ではなく、客人へのエスコート役として振る舞いたまえ。……ふふっ、それにしても、あのお堅いバゼットの呼吸をそこまで乱すとは。その英霊、少し興味が湧いてきたよ』

 

通信越しの次期当主(恐らくライネス・エルメロイ・アーチゾルテ)のからかうような声に、バゼットの顔がボンッと音を立てるように赤く染まった。

 

「ち、違います! これは、彼が卑劣な宝具で私の体勢を……っ!」

 

『はいはい、言い訳は結構。では、待っているよ』

 

通信が一方的に切れる。

路地裏に、気まずい静寂が降り降りた。

 

ルヴィアと青子が、「なるほど、エルメロイ派が動いたのね」「交渉相手が変わったってわけね」と背後でヒソヒソと話している。

バゼットは咳払いを一つし、乱れたスーツの襟を整えながら、アストルフォに向き直った。

 

「……命令が、変更されました。貴方たちを、時計塔へ招待しろとのことです。……私に、ついてきなさい」

 

可能な限り冷徹な、事務的な声を作ったつもりだった。

しかし、彼女の視線はどうしてもアストルフォの紫水晶の瞳を真っ直ぐに見ることができず、少しだけ下を向いて泳いでいた。

 

そんなバゼットの不器用な反応を、アストルフォが見逃すはずがなかった。

 

「やったー! 案内してくれるの? ありがとう、バゼット!」

「っ……馴れ馴れしく名前を呼ばないでください。私はただ、職務として……」

 

「ねえ、バゼット」

 

アストルフォは、スタスタと歩き出そうとしたバゼットの隣にぴったりと並び、彼女の顔を下から覗き込んだ。

 

「キミ、顔がすっごく赤いよ? 熱でもあるの?」

「な、ありません! これは……っ、貴方が先ほど、不躾に私に触れたから……っ!」

 

「ふーん? じゃあ、こうやって歩いたら、もっと赤くなっちゃうのかな?」

 

アストルフォの大きな手が、バゼットの手袋に包まれた右手を、ポンと無造作に、しかしひどく優しく包み込んだ。

 

「ひゃっ……!?」

 

バゼットの口から、執行者としてはあり得ない、可愛らしい悲鳴が漏れた。

「な、なにをするのですかっ! 手を離しなさい!」

 

「案内してくれるんでしょ? はぐれないように、手を繋いでるだけだよ!」

「だ、誰も手を繋げなどとは言っていません! 離っ……あ、熱い……貴方の手、とても……」

 

振り払おうとするバゼットの抵抗は、信じられないほど弱々しかった。

彼女の指先から、アストルフォの常軌を逸した体温が、ジンジンと甘い痺れを伴って流れ込んでくる。これまで、彼女の手に触れるのは、武器か、殺すべき敵の血だけだった。

こんな風に、ただ純粋な好意と、甘い情熱だけで誰かに手を握られたことなど、彼女の人生において一度もなかったのだ。

 

「……ちょっと、アストルフォ。あんたまた新しい女の子に手を出してるわけ?」

背後から、青子が呆れたような声をかける。

 

「お義姉様……アストルフォさんって、本当に息をするように女性を口説きますね」

「ええ……ですが、あのお堅いバゼットが、まるで借りてきた猫のようになっていますわ。……ふふっ、少し面白いものが見られそうですわね」

桜とルヴィアが、腕を組みながらその様子をクスクスと笑い合っている。

 

「ち、違います、貴方たち! これは彼が勝手に……っ!」

 

真っ赤になって弁明しようとするバゼットだったが、アストルフォは彼女の手をしっかりと握ったまま、一歩距離を詰めた。

二人の肩が触れ合うほどの近さ。

 

「バゼット。キミの手、すっごく強くてカッコいいけど……本当は、女の子らしい柔らかい手をしてるんだね」

「……っ!」

「時計塔に着くまで、ボクがキミのこと、エスコートしてあげる。……だから、もう怖い顔しなくていいよ」

 

耳元で囁かれる、鼓膜を溶かすような甘い声。

バゼットの思考回路は、完全にショートしかけていた。

命令に従い、彼らを案内しなければならない。しかし、このまま彼に手を握られ、その甘い匂いを嗅ぎ続けていたら、時計塔に着く前に、執行者としての自分が完全にドロドロに溶かされてしまうのではないか。

 

「……わ、わかりましたから……あまり、近づかないでください……っ」

 

結局、バゼットはそれ以上彼の手を振り払うことができず、顔を俯かせたまま、アストルフォに手を引かれるような形で、霧のロンドンの街を歩き始めた。

その後ろを、五人の美女たちが「やれやれ」と微笑みながらついていく。

 

冷徹なる時計塔の猟犬の心に、アストルフォという規格外の熱と甘い毒が、今まさに静かに、しかし確実に回り始めていたのだった。

彼らの向かう先、魔術世界の深淵たる時計塔では、さらなる厄介で魅力的な女性たちが、この桜色の騎士の到着を待ち受けているとも知らずに――。

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