fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
時計塔の最奥、重厚なアンティーク家具に囲まれた特別応接室。
秒針の音すら、二人の荒い息遣いと、異常に高鳴る心音に掻き消されていた。
アストルフォの長く美しい睫毛が伏せられ、その滑らかで熱い唇が、バゼットの震える唇を完全に塞ごうとした、そのコンマ数秒前。
(――だめだっ!!)
バゼットの脳裏に、自らを縛り付けてきた『封印指定執行者』としての鉄の掟と、魔術協会における己の立場が、強烈な閃光のようにフラッシュバックした。
私はフラガラックの伝承者。感情を排し、任務を遂行する猟犬。ここで監視対象である得体の知れない英霊に絆され、あまつさえ職務中に唇を許すなど、己の人生すべてを否定するに等しい敗北だ。
「……っ!!」
バゼットは、全身の魔力と最後の理性を総動員し、顔を背けながらアストルフォのがっしりとした胸板を両手で押し返した。
アストルフォの唇は、彼女の唇を捉え損ね、真っ赤に染まった耳たぶをちゅっ、と甘く掠めるに留まった。
「ひゃあっ……!」
耳を直接撫でられた強烈な快感に、バゼットの膝がガクンと折れそうになる。しかし、彼女は壁に背中を預けたまま、必死に彼を押し除けようと踏み止まった。
「に、任務……中、ですっ……!!」
バゼットは息も絶え絶えに、涙目になりながら彼を睨みつけた。
「私は護衛であり、監視役です……っ! 対象と、このような……破廉恥な行為に及ぶなど……フラガ・マクレミッツの誇りが、絶対に許しませんっ……!」
それは、冷徹な執行者としての完璧な拒絶の言葉だった。
――テキストの上だけならば。
実際の彼女の声は、甘く上ずり、吐息は熱を帯び、彼を突き放すはずの両手は、まるで彼のがっしりとした胸の筋肉にすがりつくように震えていた。
さらに、一つ外されたシャツのボタンの隙間からは、普段の男装からは想像もつかないほど白く豊かな胸の谷間が覗き、彼の体温にあてられてうっすらと桜色に染まっている。
頭では必死に拒絶しながら、身体と本能は完全に彼の熱を欲して鳴いている。そのちぐはぐで不器用な姿は、アストルフォから見れば、愛おしくてたまらない極上の獲物でしかなかった。
「……そっか。バゼットは、本当にすごく真面目なんだね」
アストルフォは無理やり彼女を押し倒すことはせず、しかし壁ドンした腕はそのままに、極上の笑みを浮かべた。
「でもね。口ではだめって言ってるけど、キミの身体、こんなに熱いよ」
「あ……っ!」
アストルフォの長い指先が、外されたボタンの隙間から覗くバゼットの素肌――鎖骨から胸元への柔らかい斜面を、ツーッと、ひどくゆっくりとなぞり下ろした。
「ひぃっ……! や、やめ……触ら、ないで……っ」
「キミの心音、ボクの指先までビンビン伝わってくる。……本当は、もっとボクに触ってほしいんじゃない?」
「ちが……っ、違いますっ! 私は……っ、んんっ……!」
魔術回路を回すことすら忘れ、ただの皮膚感覚として与えられる甘美な刺激。バゼットは彼の胸を押し返していた手をギュッと握り込み、必死で喘ぎ声が漏れるのを堪えた。
心は完全に陥落の淵に立たされている。しかし、長年培った職業意識という薄氷一枚だけで、なんとか自らを支えている状態だった。
その、甘美で淫靡な拷問が、さらに数分間続こうとした――その時。
ガチャリ、と。
重厚な防音扉のドアノブが、無遠慮に回された。
「……あら。少し戻るのが早かったかしら?」
扉を開けて入ってきたのは、蒼崎青子だった。
その後ろから、ルヴィアゼリッタ、桜、そしてフィオレの車椅子を押すレティシアが続く。会議(という名の時計塔との政治的交渉)を終えたヒロインたちが、特別応接室へと戻ってきたのだ。
「あ、みんな! おかえりー!」
アストルフォはパッとバゼットから離れ、何事もなかったかのように満面の笑みで青子たちに手を振った。
残されたバゼットは、壁に寄りかかったまま、顔を茹でダコのように真っ赤にし、荒い息を繰り返していた。
外されたシャツのボタン。乱れた短い赤髪。潤んだ瞳。
誰がどう見ても、密室で「攻略寸前まで追い詰められていた」ことは明白だった。
「……っ! 蒼崎、青子……! これは、違う……っ、彼が勝手に……!」
バゼットは震える手でシャツのボタンを留めようとするが、指先が痺れてうまく穴に入らない。
その様子を見たルヴィアが、扇子を広げてオーッホッホと優雅に笑った。
「まぁまぁ。あのお堅い猟犬殿が、まるで初めて殿方と手をつないだ村娘のような初々しさですこと。……アストルフォ、あと少し時間が欲しかったですの?」
「うーん、そうだね! でも、バゼットがすっごく我慢強くてさ。でも、そこがまた可愛いんだ!」
「なっ……! 貴方たち、ふざけるのも大概にしなさいっ!」
バゼットは羞恥で爆発しそうになりながら怒鳴るが、全く迫力がない。
そこに、桜がふわりと歩み寄り、バゼットの震える手の上に自分の手を優しく重ねた。
「バゼットさん。無理しないでくださいね。……ほら、私が留めてあげます」
「え……? あ、エーデルフェルトの……サクラ、さん……」
桜は手慣れた様子で、バゼットの胸元のボタンを一つ一つ、丁寧に留めていく。その桜から漂う、アストルフォと同じ甘い薔薇の匂いに、バゼットは再びクラリと眩暈を覚えた。
「大丈夫ですよ。彼、少し強引ですけど、すごく優しいですから。……バゼットさんも、彼に甘えたくなったら、いつでも教えてくださいね」
桜が小声で、耳元で甘く囁く。
それは、すでに彼に心身を捧げきった「先輩」としての、余裕と慈愛に満ちた言葉だった。
「わ、私は……っ、甘えるなど……っ」
バゼットは完全に包囲網を敷かれ、逃げ場を失っていた。
最強の武闘派である自分が、魔術戦でもない「恋愛と情欲」という盤面において、これほどまでに手玉に取られ、丸裸にされている。
「さーてと。じゃあ、お堅い護衛さんも一緒ってことだし、私たちの滞在しているエーデルフェルトの別邸に戻りましょうか」
青子がパンッと手を叩いて宣言した。
「べ、別邸……!? ま、待ちなさい、私は護衛として、貴方たちを監視……」
「だから、その別邸で二十四時間監視しなさいって言ってるのよ。ライネスからの命令でしょ?」
青子が意地悪く笑う。
「……っ」
バゼットは絶句した。
あの、五人の美女たちが入り乱れ、アストルフォという無限の熱源が存在する、むせ返るような情欲の魔城(エーデルフェルト邸)に、自分も寝泊まりしなければならないというのか。
「やったー! バゼットも今日から一緒にお泊まりだね! ボク、すっごく嬉しいよ!」
アストルフォがバゼットの背中に回り込み、ポンと肩を叩く。
その手から伝わる熱に、バゼットの身体はビクンと大きく跳ねた。
「ひぃっ……!」
「……ふふっ、本当に分かりやすい反応ですわね。今夜は、監視役殿のその強がりがどこまで保つか、見物ですわ」
ルヴィアが扇子で口元を隠しながら、艶やかに微笑む。
時計塔の冷徹な執行者バゼット・フラガ・マクレミッツ。
彼女の職業意識という名の最後の防壁が、狂おしいほどの熱狂と甘い快楽に満ちたハーレムの輪の中で、完全に粉砕され、彼に心身を捧げ尽くす夜は、もう目前にまで迫っていたのだった――。