fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
時計塔の重厚な石造りの門を抜け、ロンドンの冷たい夕暮れの風が頬を撫でた時、バゼット・フラガ・マクレミッツは深い、ひどく疲労の混じったため息をこぼした。
「……信じられない。なぜ、私がこのような……」
彼女の目の前には、ロンドンの街並みには到底そぐわない、華やかで、そして致命的なほどに人目を引く奇妙な集団が歩いていた。
車椅子に乗るフィオレを優しく押す桜。その両脇を固めるように歩く、蒼崎青子とルヴィアゼリッタ。そして、レティシアと並んで先頭を歩く、桜色の髪の騎士――アストルフォ。
バゼットは、彼らから数歩遅れた位置で、周囲に鋭い視線を配っていた。
現代魔術科を裏で牛耳るエルメロイ派の次期当主、ライネスから下された至上命題。それは、この得体の知れない英霊と、時計塔の秩序を揺るがす魔女たちを『監視・護衛』すること。
「(周囲に敵影はなし。しかし、この集団は目立ちすぎる。いつ保守派の刺客が襲ってきてもおかしくないというのに……)」
バゼットがスーツの懐に忍ばせたルーン石に触れ、いつでも戦闘態勢に入れるよう神経を尖らせていた、その時だった。
「わぁっ! みんな、見て見て! あっちの通り、すっごく賑わってるよ! 夜市みたいなのやってる!」
アストルフォが、テムズ川沿いの広場に立ち並ぶ、煌びやかな屋台や大道芸人たちの輪を指差して歓声を上げた。
「ちょっと、アストルフォ。私たちはエーデルフェルトの別邸に戻る途中なのよ? これ以上寄り道したら……」
青子が呆れたように口を挟むが、アストルフォの目は完全にキラキラと輝いていた。
「えー! でも、せっかくバゼットも一緒なんだよ? 歓迎会しなきゃ! ねえ、みんなも行きたいでしょ!?」
「わたくしは構いませんわ。エーデルフェルトの威信にかけて、屋台の食べ物など口にする気はありませんけれど、雰囲気くらいは楽しんであげてもよろしくてよ」
ルヴィアが扇子で口元を隠し、満更でもない様子で微笑む。フィオレやレティシア、桜も、異国の夜の活気に少し目を輝かせていた。
「ま、待ちなさいっ! 貴方たち、自分が命を狙われている自覚があるのですか!?」
バゼットが慌てて彼らの前に立ち塞がった。
「このような不特定多数の人間が密集する場所は、暗殺者にとって絶好の狩り場です。護衛対象を危険に晒すわけにはいきません。直ちに別邸へ直行――」
「バゼット」
アストルフォが、バゼットの言葉を遮るように、彼女の目の前へと一歩踏み込んだ。
そして、抗議しようと開かれたバゼットの口に、横の屋台で買ったばかりの、熱々の甘いクレープの端をぽいっと押し込んだのだ。
「むぐっ!?」
「はい、あーん! すっごく甘くて美味しいよ! 難しい顔してたら、せっかくの綺麗な顔に皺が寄っちゃうよ?」
「んっ……んんっ……!」
突然の暴挙に、バゼットは顔を真っ赤にして後ずさり、口に押し込まれた甘い生地とクリームを慌てて飲み込んだ。
「な、なにを……っ! 任務中に、食事など……っ!」
「任務任務って、キミは本当に生真面目だなぁ。ボクが一緒なんだから、暗殺者なんて絶対に近づけさせないよ。……それに」
アストルフォは、クレープのクリームが微かについてしまったバゼットの唇の端を、自分の親指でそっと拭った。
そして、その親指についたクリームを、彼自身の舌でペロリと舐め取ったのだ。
「ひゃっ……!?」
「うん。やっぱりバゼットと一緒に食べると、もっと甘くて美味しいね」
極上の、そしてひどく色気を含んだ悪戯っぽい笑顔。
バゼットの心臓が、ドクンッ!! と警鐘ともつかない激しい音を立てた。
顔中の血液が沸騰したように熱くなり、足の先から甘い痺れが這い上がってくる。
「あ、あ、貴方……っ! なんという破廉恥な……っ!!」
「あはは! さあ、行こう! バゼット、はぐれないようにボクの手、しっかり握っててね!」
「さ、触らないでくださいっ! 私は、自分の足で……っ」
激しく抗議するバゼットをよそに、アストルフォは彼女の革手袋に包まれた手を強引に引っ張り、夜市の喧騒の中へとずんずんと進んでいった。
青子たちが「あーあ、完全に手玉に取られてるわね」「ふふっ、バゼットさんも可愛らしいところがありますのね」と背後でクスクス笑っているのが聞こえ、バゼットは羞恥で泣きそうになっていた。
***
それからの数十分は、バゼットにとって、ある意味でどんな死線よりも過酷な戦いだった。
「バゼット! これ、キミの瞳と同じ色の髪飾りだ! すっごく似合うと思うな!」
「い、要りません! 戦闘の邪魔に……っ」
「はい、つけちゃった! うん、やっぱりすっごく可愛い!」
「バゼット、あそこの射的ゲーム、ボクがキミのためにあの大きな犬のぬいぐるみ取ってあげる!」
「くだらない……。そのような遊戯、フラガラックの伝承者たる私には……っ」
「じゃーん! 取れたよ! はい、プレゼント!」
ことごとく、彼女の『執行者としての防波堤』は、アストルフォの底抜けの明るさと、真っ直ぐな好意によって軽々と飛び越えられていく。
バゼットの腕の中には、いつの間にか大きなフワフワのぬいぐるみが抱えられ、彼女の小豆色の髪には可愛らしい髪飾りが揺れていた。
その姿は、冷徹な猟犬などではなく、彼氏に振り回される不器用な乙女そのものだった。
「(だめだ……このままでは、私の精神が……っ)」
バゼットが、腕の中のぬいぐるみを強く抱きしめながら、必死に理性を保とうと荒い呼吸を繰り返していた、その時。
ドワッ!!
広場の中央で大道芸の火吹きパフォーマンスが終わり、興奮した観客の波が一斉に押し寄せてきた。
「危ないっ!」
周囲の群衆が波のように押し寄せ、バゼットの体勢が崩れかけた瞬間。
アストルフォの力強い腕が、バゼットの腰を抱き寄せ、彼女を群衆の波から庇うように、レンガ造りの建物の壁際へと強引に引き込んだ。
ドンッ、と。
バゼットの背中が壁にぶつかり、その直後、アストルフォのがっしりとした身体が、彼女を完全に覆い隠すように覆い被さってきた。
「っ……!!」
至近距離。いや、群衆に押されているため、二人の身体は隙間なくぴったりと密着していた。
バゼットの豊かな胸の膨らみが、スーツ越しにアストルフォの硬い胸板に直接押し付けられる。彼から発せられる、常人を遥かに超える途方もない『熱』と、甘く野性的なオスの匂いが、バゼットの理性の壁に最後の一撃を叩き込んだ。
「ア、アストル、フォ……っ」
「大丈夫? バゼット。怪我してない?」
耳元で、彼の低く、甘い声が響く。
バゼットは見上げることしかできなかった。彼の紫水晶の瞳が、薄暗い路地裏の影の中で、ひどく艶めかしい熱を帯びて自分を見下ろしている。
「は、離れ……群衆は、過ぎ去り……っ」
「ううん。まだ、すごく人が多いよ。このまま出たら、押し潰されちゃう」
アストルフォは離れるどころか、さらに自らの身体をバゼットに押し付けた。
彼の逞しい太ももが、バゼットの脚の間に滑り込む。
「ひゃっ……!?」
「ねえ、バゼット。キミ、さっきからずっとボクの手を振り払おうとしてるけど……。本当は、こうしてボクに守られるの、嫌いじゃないでしょ?」
「ち、違い……ます……っ! 私は、護衛で……貴方を、守る側……っ!」
「嘘だ」
アストルフォの大きな手が、バゼットの腰から背中へと這い上がり、彼女の身体をさらに深く、自分の方へと引き寄せた。
「ああっ……! だめ、そん、な……強く、抱きしめられ、たら……っ」
「キミの身体、すごく震えてる。心音も、こんなに早く……。ボクに触られて、熱くなって、頭の中がぐちゃぐちゃになってるのが、ボクには全部わかるよ」
彼の言葉は、執行者としてのバゼットの誇りを完全にへし折る、残酷で、甘すぎる真実だった。
バゼットの呼吸が乱れ、その青灰色の瞳から、ついに限界を迎えた涙がポロリとこぼれ落ちた。
ずっと、誰かに守られたかった。
戦う機械ではなく、ただの一人の女の子として、可愛いと言われ、甘やかされ、愛されたかった。
その、決して誰にも見せるつもりのなかった「蟻の穴」ほどの小さな乙女の願望が、彼のもたらす圧倒的な熱流によって、完全に決壊してしまったのだ。
「私、は……っ。だめ、なのに……っ、こんなこと、許されないのに……っ」
泣きじゃくるバゼットの唇を、アストルフォの唇が、今度こそ深く、そして容赦なく塞いだ。
「んんっ……!! ぁ……ああっ……!」
時計塔の密室で寸止めされた熱情が、一気に爆発する。
アストルフォの滑らかな舌がバゼットの口腔内を蹂躙し、彼女の抗議の声を、すべて甘い嬌声へと塗り替えていく。
バゼットは、腕に抱えたぬいぐるみを落とさないよう必死に抱きしめながら、もう片方の手で、アストルフォの背中の服を、すがりつくように強く握りしめた。
「んちゅ……あっ、はぁっ……あ……っ」
唇が離れた瞬間、バゼットの瞳には、もはや冷徹な猟犬の光は一切残っていなかった。
そこにあるのは、強烈な恋情と快楽の予感に完全に理性を溶かされた、一人の淫らで美しい『メス』の顔だけだった。
「バゼット……キミのこと、もっともっと可愛くしてあげる。お家(エーデルフェルト別邸)に帰ったら……朝まで、キミのそのスーツ、二度と着たくなくなるくらい、めちゃくちゃに愛してあげるからね」
耳元で吹き込まれた、極上の宣告。
その言葉の背徳感と期待感に、バゼットは足から完全に力が抜け、アストルフォの腕の中に崩れ落ちた。
「……はい……っ。私を、貴方の熱で……めちゃくちゃに、して……っ」
完全に陥落した執行者を抱きかかえ、アストルフォは極上の笑みを浮かべた。
路地の入り口では、青子やルヴィアたちが「ついに落ちたわね」「さあ、今夜は賑やかになりますわよ」と、妖艶に微笑みながら二人を待っていた。
ロンドンの夜。エーデルフェルト別邸という、むせ返るような愛の魔城へと、新たな、そして極上の獲物が持ち込まれようとしていた――。