fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
東の空が白み始め、ミレニア城塞の石造りの部屋に柔らかな朝日が差し込んできた。
小鳥のさえずりが遠くから聞こえる中、フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアは、全身を包み込む心地よい疲労感と、蕩けるような温もりの中でゆっくりとまぶたを開けた。
「……んっ」
少し身じろぎをすると、腰のあたりに微かな気怠い痛みが走る。しかし、それは決して不快なものではなく、昨夜このベッドの上で交わされた熱烈な愛の証そのものだった。
視線を落とすと、すぐ目の前には桜色の髪が散らばっていた。アストルフォが、フィオレの柔らかな素肌に顔を埋めるようにして、スゥスゥと穏やかな寝息を立てている。
薄手のシーツ一枚の下で、二人の身体はまだぴったりと密着していた。彼のがっしりとした逞しい腕がフィオレの腰をしっかりと抱き寄せ、絡み合った脚先からは、人間よりはるかに高い英霊の体温が直に伝わってくる。
魔術回路を失い、冷たく動かなくなっていたはずの彼女の脚は、今、彼から与えられた熱で芯からポカポカと温まっていた。
「……ふふっ。寝顔は、本当にただの可愛い男の子なのに」
フィオレは愛おしげに微笑み、アストルフォの頭をそっと撫でた。サラサラとした桜色の髪が指の間をすり抜ける。昨夜、この無邪気な少年の面影を持つ騎士が、どれほどオスとしての強い情熱と甘い愛撫で自分を乱し、肯定し尽くしてくれたか。その記憶が蘇るだけで、フィオレの頬は再びカッと熱を帯びた。
「……んん。フィオレ……もう、朝……?」
髪を撫でる感触に気づいたのか、アストルフォがゆっくりと紫水晶の瞳を開いた。寝起きの少し掠れた、甘い声。
彼はフィオレを見上げると、ふにゃりと無邪気な笑顔を浮かべた。
「おはよう、フィオレ。……キミ、朝の光の中でもすっごく綺麗だね」
「お、おはよう、アストルフォ……。もう、朝からそんなこと……っ」
恥ずかしさに耐えきれずシーツで顔を隠そうとしたフィオレの腕を、アストルフォの大きな手が優しく押さえた。そのまま彼は身体を起こし、フィオレの上に覆い被さるようにして顔を近づける。
「隠さないでよ。昨日の夜、あんなに全部見せてくれたじゃないか。キミの声も、熱いところも……ボク、全部覚えてるよ?」
チュッ、と、彼からの軽いモーニングキスが、フィオレの首筋に落とされた。
そこには昨夜彼がつけた赤いキスマークが残っている。その痕をなぞるように、アストルフォの唇が這う。朝の清々しい空気の中にあっても、彼の仕草一つで、あっという間に夜の甘く濃厚な空気が引き戻されていく。
「あ、んっ……だめよ、アストルフォ。すっかり夜が明けてるわ。誰か来るかもしれないし……」
「来たら来たで、『フィオレはボクのものだ』って自慢してあげるから平気!」
「もう……っ、あなたは本当に……」
フィオレは困ったように笑いながらも、アストルフォの広い背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。
空っぽだったはずの胸の奥は、今や彼からもらった愛でひたひたに満たされていた。車椅子で生きていく未来に対する漠然とした不安も、今の彼女には不思議と恐ろしくなかった。この温もりが、私を肯定してくれている。それだけで十分だった。
二人はそれからしばらくの間、シーツにくるまったまま、肌の温もりを確かめ合うように深いキスを何度も交わした。
***
数時間後。朝の支度を整えたフィオレは、バルコニーの風に吹かれていた。車椅子の膝掛けは、アストルフォが丁寧に整えてくれたものだ。
バルコニーの縁には、幻馬(ヒポグリフ)の手綱を握ったアストルフォが立っていた。普段の鎧姿に戻った彼は、どこまでも広がる青空を見上げて目を輝かせている。
「本当に、もう行ってしまうのね」
フィオレの言葉に、寂しさは滲んでいなかった。ただ、愛しい人の旅立ちを見守る、穏やかな微笑みがあった。
アストルフォはくるりと振り返り、フィオレの前に片膝をついて彼女の手を取った。
「うん。ボクは『ライダー』だからね。風の吹くまま、気の向くままに世界を見て回りたいんだ。……でもね、フィオレ」
アストルフォは、フィオレの手の甲に誓いのキスを落とした。
「ボクの居場所は、ここにもあるってわかったから。世界中を飛び回って、面白いものをたくさん見つけたら、必ずキミのところに帰ってくるよ。キミに話したいことが、これから山ほどできるはずだから!」
「ええ。待っているわ、アストルフォ。……私の、大好きな騎士様」
フィオレがそう言って微笑むと、アストルフォは満面の笑みで頷き、軽やかにヒポグリフの背へと飛び乗った。
「それじゃあ、行ってくるね! フィオレ、ちゃんとリハビリ頑張るんだよ! 無理はしちゃだめだからね!」
ヒポグリフがいななき、力強く羽ばたく。強風がバルコニーを吹き抜け、アストルフォの姿はあっという間にルーマニアの青空へと吸い込まれていった。
小さくなっていく彼の背中を、フィオレはいつまでも見つめ続けていた。彼女の心には、もう一抹の曇りもなかった。
***
「ひゃっほー!! やっぱり空を飛ぶのは最高だね!」
上空の冷たい風を全身に浴びながら、アストルフォはヒポグリフの背で歓声を上げていた。
ミレニア城塞はすっかり眼下で小さくなり、やがて雲海の下へと姿を消した。彼の胸の中には、フィオレと過ごした熱く甘い夜の記憶と、彼女の柔らかな笑顔が温かく残っている。
「さてと、次はどこに行こうかな!」
『理性蒸発』のスキルのままに、アストルフォは空の旅を満喫する。特に目的の地を決めているわけではない。しかし、彼の脳裏にふと、一人の少女の姿が浮かび上がった。
『……どうか、彼らを導いてあげてください』
風を切って飛ぶヒポグリフの背の上で、アストルフォの脳裏に、聖杯大戦で共に戦ったもう一人の少女の不器用な笑顔が蘇っていた。
聖女ジャンヌ・ダルクの依り代として過酷な戦場に立ち、そして大戦が終わると同時に、元の『ただの女学生』としての日常へと帰っていった、純朴で心優しいフランスの少女。
「……そうだ。レティシア、元気にしてるかな」
アストルフォは、眼下に広がる雲海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
彼女は、フランスの片田舎にある全寮制の学校に戻ったと聞いている。
聖女という巨大すぎる光をその身に宿し、数々の奇跡と死闘を間近で体感した彼女の心。その巨大な光が天へと還り、元の静かで退屈な学生生活に戻った時……彼女の心には、どれほど巨大で冷たい『空洞』が残されていることだろうか。
戦いの傷は癒えても、一度奇跡を宿した器が元の空っぽに戻った時の、あの耐え難い孤独と温度差。
ただの平和な日常の中で、ふとした瞬間に窓の外を見つめ、どうしようもないほどの寂しさに震えているかもしれない。
「……そんなの、絶対にだめだ。あんなに頑張った女の子が、一人ぼっちで冷たい思いをしてるなんて」
アストルフォの紫水晶(アメジスト)の瞳に、明確な熱と決意の光が宿る。
彼女の心に空いた穴は、理屈や魔術で埋められるものではない。必要なのは、彼女自身を『ただの一人の女の子』として真っ直ぐに見つめ、抱きしめ、奥の奥まで温めてあげることのできる圧倒的な体温だけだ。
「よし、決まり! ヒポグリフ、進路変更! 西へ向かおう。目指すはフランスの片田舎、レティシアの待つ学校だ!」
アストルフォが手綱を力強く引くと、ヒポグリフが高らかにいななき、その巨大な翼を大きく翻した。
ルーマニアの冷たい風を切り裂き、桜色の騎士は、孤独な少女の心をドロドロの愛で満たすために、一直線に西の空へと駆けていった。
次からレティシア編を開始します。