fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
時計塔、現代魔術科(ノーリッジ)の君主(ロード)が居を構える、重厚で静謐な執務室。稀覯書の匂いと、紅茶の香りが漂うその部屋で、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、手元にある羊皮紙の報告書を読みながら、蠱惑的な唇に三日月のような笑みを浮かべていた。
「……くくっ、あはははっ! これは傑作だね。あの堅物で血の匂いしかしない猟犬(バゼット)が、こんな『腑抜けた』報告書を上げてくるなんて」
ライネスは羊皮紙をデスクに放り投げ、背後に控える水銀のメイド――トリムマウを一瞥した。
「トリムマウ。この報告書に付着している、バゼットの残留魔力のバイタルサインを再読み込みしたまえ」
『了解シマシタ、マスター』
トリムマウの無機質な声が執務室に響く。
『報告書作成時ノ、バゼット・フラガ・マクレミッツノ状態。心拍数、通常ノ一・五倍。体温、異常上昇。魔力回路ノ稼働率ハ極メテ低ク、代ワリニ、未知ノ『甘イ芳香』ト、極度ノ精神的弛緩(リラックス)状態ガ確認サレマス。……補足。彼女ノ魔力波形ハ、何者カニ対スル強烈ナ『依存』ト『情動』ヲ示シテイマス』
「……やっぱりね。完全に、向こう側(あちら)の毒牙にかかっているじゃないか」
ライネスは呆れたように、しかしひどく楽しげに目を細めた。
封印指定の執行者として、数々の異端を屠ってきたバゼット。彼女の心は氷のように冷たく、決して他者に隙を見せないはずだった。ライネスが彼女を『監視役』としてあの奇妙な一団――エーデルフェルトや蒼崎青子、そして得体の知れない英霊の元へ送り込んだのは、保守派を牽制しつつ、バゼットの武力で彼らの底を測るためだった。
それが、たった一晩。
たった一晩あの英霊とエーデルフェルトの別邸で過ごしただけで、バゼットは「対象に不審な動きはなし。引き続き別邸内で『密着して』監視を続行する」という、言い訳がましい、恋に浮かれた少女のような報告書を送ってきたのだ。
「あのバゼットの理性を一晩で完全にドロドロに溶かして、牙を抜いた……。一体、どんな『熱』を持った男なんだろうね。兄上(エルメロイⅡ世)が胃薬をがぶ飲みするのも頷けるというものだ」
ライネスはティーカップの縁を指先でなぞりながら、窓の外、ロンドンの灰色の空を見つめた。
エルメロイ派の次期当主という、大きすぎる肩書き。崩壊寸前だった派閥を立て直すため、彼女は幼い頃から感情を殺し、他者を盤上の駒として扱い、陰謀と権謀術数の渦中で生き抜いてきた。
だからこそ、彼女は『規格外』を愛する。自分の計算を狂わせ、時計塔の退屈で陰湿な常識を破壊してくれるような、絶対的な異常(イレギュラー)を。
「……それにしても、彼らの動きは不気味すぎるね」
ライネスは別の報告書を手に取った。
それは、時計塔の保守派たちが、エーデルフェルト別邸に滞在するアストルフォ一行に対して仕掛けた、数々の『暗躍』に対する結果報告だった。
特許を狙う魔術師たちが、物理的な結界破壊や呪詛を仕掛けた形跡はある。
しかし、彼らは誰一人として『死んで』はいなかった。
報告によれば、襲撃に向かった暗殺者たちは皆、別邸の堅牢な扉の前で、なぜか「可愛らしいピンク色のリボン」で亀甲縛りにされ、あまつさえ口の中には最高級の甘いマカロンを詰め込まれた状態で、気絶して発見されたというのだ。
『女の子たちの甘い時間を邪魔する悪い子への、ボクからのお仕置きだよ!』
そんな、ふざけたメッセージカードと共に。
魔術戦において、相手を殺さず、完全に無力化し、しかも精神的に屈辱(あるいは謎の多幸感)を与えて送り返すなど、圧倒的な実力差と余裕がなければ不可能な芸当だ。
「蒼崎青子の破壊力や、ルヴィアゼリッタの資金力と防衛術式……そこに、バゼットの武力までが完全に『彼』を守るために機能している。……いや、違うな」
ライネスの青い瞳が、鋭い知性の光を帯びる。
「あの絶世の美女たちが、まるで一人の男を中心に、絶対不可侵の『甘い城』を築き上げているんだ。嫉妬も、権力争いもなく、ただ彼からの寵愛を分け合うという、魔術師の常識ではあり得ない狂った連帯感で……っ」
ライネスは己の身体が、微かに打ち震えていることに気づいた。
恐怖ではない。それは、好奇心と、そして彼女自身も自覚していない、無意識の『渇望』だった。
時計塔という鳥籠の中で、常に誰かを疑い、利用し、利用されて生きるのが彼女の日常だ。
無条件の愛。誰一人見捨てない、底なしの熱量。
そんなおとぎ話のようなものが、もし本当にこのロンドンに存在し、あの氷の執行者(バゼット)すらもただの雌へと作り変えてしまったのだとしたら。
「……ふふっ。いいだろう。遠くから眺めているだけでは、この胸のざわめきは収まりそうにないからね」
ライネスは立ち上がり、優雅なドレスの裾を翻した。
彼女の唇には、極上の獲物を見つけたサディスティックな笑みと、そして自分からその「甘い毒」を舐めに行こうとする、ひどく艶めかしい色が浮かんでいた。
「トリムマウ。最高級の茶葉と、茶菓子の用意をしたまえ。……私自ら、そのデタラメな英霊殿と、骨抜きにされた猟犬の様子を『視察』に赴いてやろうじゃないか」
『御意、マスター』
「さあ……見せてくれたまえ。私のこの退屈な日常と重たい仮面を……君は、どうやって壊してくれるのかな?」
時計塔の若き次期当主、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。
彼女は自分が、アストルフォという絶対的な熱情の前に『遊んでやる』つもりで近づき、結果的に誰よりも深く、甘く、理性を溶かされていくことになるとは、この時まだ微塵も想像していなかった。
***
一方その頃。 エーデルフェルト別邸、豪奢なメインリビング。
「あはは! バゼット、そのエプロンすっごく似合ってるよ!」
「あ、アストルフォ……あまり見ないでください……っ。私は、こんなフリフリの布切れを着るために執行者になったわけでは……っ」
広大なキッチンで、かつての冷徹な猟犬は、ルヴィアが面白半分に用意した可愛らしいフリルエプロンを身に着け、顔を真っ赤にしながらパンケーキを焼いていた。
彼女の背後からは、アストルフォがぴったりと張り付き、その逞しい腕で彼女の腰を抱きしめている。
「でも、すっごくいい匂い! バゼットのお料理、早く食べたいな!」
アストルフォが彼女のうなじにちゅっ、とキスを落とす。
「ひゃっ……! 火、火を使っていますから、危ない、です……っ」
口ではそう言いながらも、バゼットの身体は彼の腕に完全にすり寄り、フライパンを持つ手は幸せそうに震えていた。
リビングの巨大なソファでは、青子とルヴィアがその様子を見ながら優雅に紅茶を飲んでいる。
「本当に、見事な手懐けっぷりね。あれが時計塔の人間を震え上がらせるバゼットだなんて、誰が信じるのかしら」
「ええ。ですが、これでわたくしたちの『防衛網』はさらに強固になりましたわ。……おそらく、そろそろ『あの方』も痺れを切らして動いてくる頃合いでしょうから」
ルヴィアが、青子にだけ聞こえる声で、妖艶に微笑む。
「ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ……ね。あのお転婆なお姫様が、アストルフォのこの底なし沼に足を踏み入れたら、一体どんな可愛い声を出すのかしら。少し楽しみね」
「お義姉様、蒼崎先生。……悪いお顔になってますよ?」
フィオレの車椅子を押しながら近づいてきた桜が、くすくすと笑う。
「あら、サクラだって、新しい『妹』が増えるのは嬉しいでしょう?」
「……はい。アストルフォさんの熱を、もっとたくさんの人と共有できたら……きっと、すごく温かいですから」
桜の紫の瞳もまた、完全にアストルフォの愛に染まりきった、共犯者の妖しい光を放っていた。
彼ら六人の男女は、すでに時計塔の次なる一手――ライネスの接触すらも完全に予期し、彼女をこの狂おしいほどに甘いハーレムの輪へと引きずり込むための、完璧で淫らな『蜘蛛の巣』を張り終えていたのだった。