fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドン郊外に広大な敷地を構える、エーデルフェルト別邸のメインリビング。
分厚いマホガニーの扉の前に立ったライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、その向こう側から漏れ出ている尋常ならざる魔力の気配と、それ以上に濃厚な『甘い熱』に、思わず蠱惑的な唇を吊り上げた。
「……トリムマウ、扉を開けたまえ。わがエルメロイ派の優秀な元・猟犬の顔を拝んでやろうじゃないか」
『御意、マスター』
水銀のメイドが扉に触れると、幾重にも張り巡らされていたエーデルフェルトの防衛結界が、まるで「招き入れる」かのようにスッと道を開けた。
ガチャリ、と重厚な扉が開く。
「やあ。随分と甘ったるい匂いが充満しているじゃないか。時計塔(うち)の現代魔術科(ノーリッジ)でも、これほどむせ返るような空気はお目にかかれないよ」
ライネスはステッキを片手に、優雅な足取りで部屋へと足を踏み入れた。
その青い瞳が、広大なリビングの光景を鋭く射抜く。
そこは、まさに魔術師の常識を根底から覆す、狂おしくも美しい『愛の城』だった。
巨大なソファの中央に座る桜色の騎士、アストルフォ。
その右隣には蒼崎青子がワイングラスを傾け、左隣にはルヴィアゼリッタが優雅に扇子を揺らしている。足元に近い絨毯の上では、桜とフィオレ、レティシアが、まるで彼を崇拝するように寄り添って談笑していた。
そして、アストルフォの背後に立ち、彼の肩をマッサージするように手を添えていたのは――。
「……ライネス、様……っ」
フリルのついた可愛らしいエプロン姿のまま、顔を極限まで真っ赤に染め、震える声でライネスを見つめるバゼット・フラガ・マクレミッツだった。
かつての冷徹なスーツ姿はなく、その全身からは、彼に愛され尽くした女特有の、艶やかで隙だらけのフェロモンが隠しきれないほどに溢れ出している。
「くくっ……あははははっ!」
ライネスは腹を抱えて、声を上げて笑った。
「傑作だね! いや、実に素晴らしい。あの武骨なバゼットが、そんな愛らしいメイドの真似事をしているなんて。兄上が見たら、胃に穴が開くどころか気絶してしまうかもしれないな」
「ひ、姫君……っ、これは、その……監視任務の、一環で……っ!」
涙目で弁明しようとするバゼットだが、アストルフォが彼女のエプロンの紐を後ろからきゅっと引っ張り、「バゼットのご飯、すっごく美味しかったよ!」と無邪気に褒め称えると、彼女は「ひゃんっ!」と情けない声を上げて彼の背中に顔を隠してしまった。
完全に飼い慣らされている。
ライネスは笑いを収め、サディスティックな光を瞳に宿して、青子とルヴィアを見据えた。
「さて。挨拶はこれくらいにしようか。蒼崎青子、それにエーデルフェルトの次期当主殿。君たちは、時計塔の監視役をたぶらかし、我が現代魔術科をコケにしてくれた。……落とし前、という言葉の意味は理解しているね?」
ライネスの言葉と共に、背後のトリムマウが刃のように鋭く変形し、威嚇の姿勢をとる。
次期当主としての圧倒的なプレッシャー。並の魔術師ならば、この時点で平伏しているだろう。
しかし、ソファに座る魔女たちは、微動だにしなかった。
「落とし前? 人聞きが悪いわね。私たちはただ、迷える子羊ちゃんに『本当の幸せ』を教えてあげただけよ」
青子が妖艶に笑い、グラスのワインを飲み干す。
「ええ。それに、監視役を送り込んできたのはそちらですわ。ミイラ取りがミイラになった……ただそれだけのことでしょう?」
ルヴィアが扇子をパチンと閉じ、ライネスに向かって不敵に微笑み返した。
(……なるほど)
ライネスは内心で舌を巻いた。
彼女たちの瞳には、アストルフォという男に操られているような洗脳の濁りは一切ない。完全に理性を保った上で、自らの意志でこの「狂ったハーレム」を構築し、時計塔のエルメロイ派たる自分すらも盤上の遊戯として楽しんでいるのだ。
「ふん。強がりだね。だが、エルメロイの権力を甘く見ないことだ。時計塔を本気で敵に回せば、君たちのその甘いお城も、明日には灰燼に帰すかもしれないよ?」
ライネスが、冷酷な交渉のカードを切ろうとした、まさにその瞬間だった。
「ねえねえ! キミがライネスだよね!」
「……っ!?」
不意に。
本当に、全く気配も殺気もなく。
ソファに座っていたはずのアストルフォが、いつの間にかライネスの目の前――それこそ、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離に立っていた。
「なっ……トリムマウ!!」
ライネスが弾かれたように後退し、叫ぶ。
水銀のメイドが主を守るべく、鋭い刃となってアストルフォとライネスの間に割り込もうとした。
しかし、アストルフォはそれを躱すどころか、一切の抵抗を見せずに、ただ満面の笑みでライネスを見つめ続けた。
殺意がない。敵意もない。魔術的な干渉すら一切ない。
ただ純度百パーセントの「好意」と「興味」だけで近づいてくる存在に対し、自動防衛礼装であるトリムマウの迎撃システムが一瞬、判断を迷い、停止したのだ。
「え……?」
トリムマウの刃が止まった隙間を縫って、アストルフォの顔がさらにライネスへと近づく。
「キミ、すっごく綺麗な青い目をしてるね! お人形さんみたいだ!」
「ちか……っ、離れたまえ……っ!」
ライネスは咄嗟にステッキで彼を突き放そうとしたが、アストルフォの大きな手が、彼女のステッキを持つ手を、ふわりと、ひどく優しく包み込んだ。
「っ!!」
ライネスの脳裏に、強烈な警鐘が鳴り響いた。
(なんだ、この熱は……っ!)
彼の手から伝わってくるのは、火傷しそうなほどの常軌を逸した体温。
そして、至近距離から容赦なくライネスの鼻腔を犯してくるのは、むせ返るような花々の甘い香りと、バゼットたちを狂わせた、圧倒的な『オス』としての濃密なフェロモンだった。
「バゼットから聞いたよ。キミ、すごく頭が良くて、偉い人なんでしょ?」
アストルフォの紫水晶の瞳が、ライネスの心の奥底を覗き込むように見つめてくる。
「……っ、そうだ。私はエルメロイの次期当主だ。気安く触れるな……っ」
「でもさ。偉い人ってことは、いつも誰かを疑ったり、怖い顔してなきゃいけないってことでしょ? それって、すっごく疲れるし、寂しいんじゃない?」
「……!」
ライネスの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
「キミの目、すごく綺麗だけど……ずっと『退屈だなぁ』って言ってるみたいに見える。本当は、誰かに思いっきり甘えたり、何も考えずに笑ったりしたいんじゃないかな?」
図星だった。
盤上のゲームを楽しむサディストを演じながらも、その根底にあるのは、他者を信じられない孤独と、時計塔の陰湿な日常に対する果てしない退屈感。
その、幾重にも塗り固めたはずの『姫君』としての分厚い仮面を、出会って数秒の、一切の打算を持たないこの騎士は、いとも容易く見透かしてしまったのだ。
「……くだらない。私を、そこの猟犬や魔女たちと同じように手懐けられるとでも思ったのかな? 私は、誰かの熱に絆されるような、安い女じゃないよ……っ!」
ライネスは虚勢を張り、彼の紫水晶の瞳を鋭く睨み返した。
しかし、アストルフォは彼女の棘のある言葉に傷つくどころか、ふっと、これまで見せていた無邪気な少年のものとは違う、極上に甘く、艶やかな『男』の笑みを浮かべた。
「そっか。ライネスはすっごく強がりなんだね」
アストルフォの手が、ステッキを握るライネスの手を滑り降り、彼女の華奢な手首をきゅっと掴んだ。
そのまま、彼はライネスの手の甲を自分の口元へと引き寄せると、そこにちゅっ、と音を立てて熱いキスを落としたのだ。
「ひゃっ……!?」
「でも、キミの身体は正直だよ。ほら、こんなに脈が早くなってる」
「き……っ、君……っ!」
手の甲に落とされたキスの熱が、まるで猛毒のように血流に乗って全身を駆け巡る。
ライネスの青い瞳が、信じられないものを見るように揺らいだ。
これまでの人生で、数多の魔術師たちの悪意や陰謀を涼しい顔で捌いてきた彼女の『完全なる理性』が、たった一つの口付けと、抗いがたい熱量によって、音を立てて崩れ始めている。
「ようこそ、ライネス。ボクたちの秘密のお城へ」
アストルフォが、逃げようとするライネスの腰に腕を回し、強引に自分の胸へと引き寄せた。
「今夜は、時計塔の仕事なんて忘れて、ボクとみんないっぱいいっぱい遊ぼう? キミのその退屈な顔、ボクが絶対に、とろとろに甘い笑顔に変えてあげるから!」
「は、放したまえ……っ! 私は、そんな……っ、んんっ……!」
背後では、青子やルヴィアたちが「あらあら、もう捕まっちゃったわね」「歓迎しますわ、新しい妹君」と、蠱惑的な笑い声を上げている。
エルメロイの若き支配者、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。
盤上の遊戯を楽しむはずだった彼女自身が、最も甘く、最も危険な絶対捕食者(アストルフォ)の腕の中に完全に絡め取られ、底なしの快楽の沼へと引きずり込まれるのは、もはや時間の問題であった――。