fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
「は、放したまえ……っ! 私は、そんな……っ、んんっ……!」
腰を抱き寄せられ、圧倒的な熱量に当てられたライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。
彼女の青い瞳が、未曾有のパニックに微かに揺らいだ。しかし、彼女は時計塔の現代魔術科を裏で束ねる次期当主(姫君)だ。ただの小娘のように悲鳴を上げて流されるわけにはいかない。
「……トリムマウ! 形態変化(フォルム・チェンジ)! 捕縛刃!」
『了解シマシタ、マスター』
水銀のメイドが鞭のような刃へと変化し、アストルフォの腕に巻きつこうとする。
「おっと!」
アストルフォはライネスに傷がつくのを避けるため、ふわりと軽やかにバックステップを踏んで彼女を解放した。
「……ふう。危ないところだったじゃないか」
ライネスは乱れたドレスの襟元を直し、ステッキを床にトン、と突き立てて、どうにか次期当主としての傲慢な笑みを取り繕った。
しかし、彼女の呼吸は明らかに乱れており、手の甲に落とされたキスの熱が、未だに火傷のようにジンジンと疼いている。
「殺意のない接近にはトリムマウの反応が遅れる。……なるほど、バゼットが手玉に取られるわけだ。君は、純粋な『好意』を凶器にして振るう、とんでもない英霊だね」
ライネスは青い瞳を細め、アストルフォを値踏みするように睨みつけた。
「凶器じゃないよ! ボクはただ、ライネスと仲良くなりたいだけだもん。キミ、すっごくいい匂いがするし、意地張ってる顔も可愛いから!」
アストルフォが満面の笑みで言い放つ。
「……可愛い、だと? 私を誰だと思っているのかね。私はエルメロイの次期当主。君たちのような野良の英霊や、特許泥棒の魔女たちを、時計塔の地下牢に放り込む権限を持った人間だ」
ライネスは冷たく言い放ち、周囲のヒロインたちを挑発するように見渡した。
「そんな私が、君のその甘ったるい熱に絆されるとでも? 私はね、他人の感情を盤上の駒として操るのが好きなんだ。君たちのように、理性を捨てて一人の男に群がるような『安い女』と一緒にしないでくれたまえ」
それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、彼らに対する「腹芸」による反撃だった。
自分が上位者であり、決してこの甘い毒沼には落ちないという宣言。
しかし――。
「あら、安い女とは随分なご挨拶ね、ライネスちゃん」
ティーカップを置いた蒼崎青子が、余裕に満ちた妖艶な笑みを浮かべた。
「でも、あなたのその計算高い頭脳は、今、警鐘を鳴らしてるんじゃない? 『この男の熱に触れ続けたら、自分が自分でいられなくなる』って」
「な……っ」
「蒼崎先生の言う通りですわ。……わたくしも、最初はあなたと同じように、次期当主としての誇りを盾に彼を拒絶しました」
ルヴィアゼリッタが立ち上がり、優雅な足取りでライネスの斜め前へと歩み寄る。
「けれど、彼がもたらす熱は、魔術師としての計算も、次期当主の重圧も、すべてをドロドロに溶かしてしまう。……あなたも、本当はわかっているのでしょう? 自分が被っている『次期当主』という仮面が、どれほど重くて冷たいものか」
「ルヴィアゼリッタ……っ。知ったような口を利くな。私は……」
「次期当主(ライネス)様」
不意に、背後から声をかけられ、ライネスは肩をビクッと跳ねさせた。
振り返ると、フリルエプロン姿のバゼット・フラガ・マクレミッツが、顔を赤く染めながらも、真剣な眼差しでライネスを見つめていた。
「バゼット……。今更蒸し返すようだが、なんだね、そのふざけた格好は。監視役が聞いて呆れる」
「申し訳、ありません。ですが……私は今、生まれて初めて、心が満たされています」
バゼットは自らの胸に手を当て、潤んだ青灰色の瞳でライネスを真っ直ぐに見た。
「戦うだけの機械だった私を、彼は……ただの女として、いっぱいに愛してくれました。……ライネス様。貴女も、本当は安らぎが欲しいのではありませんか? エルメロイ派を背負う重圧から、解放されたいと……」
「……黙りたまえッ!!」
ライネスはステッキを激しく床に叩きつけた。
「お前たちに、私の何がわかる……っ! 兄上と共に泥水をすすり、崩壊寸前のエルメロイをここまで立て直してきた私の……っ! 私がどれだけのものを犠牲にして、この仮面を被り続けているか……っ!」
激昂するライネス。彼女の叫びは、時計塔という陰湿な権力闘争の中で、たった一人で背負い続けてきた孤独とプレッシャーの吐露だった。
誰にも弱みを見せられない。誰かに甘えれば、足元をすくわれてすべてが終わる。だから、彼女は他者を弄び、サディストとして振る舞うことでしか、自らの精神を保つことができなかったのだ(ただし、彼女のサディストな振る舞いが後天的なものなのかどうかは議論の余地があるが)。
その悲痛な叫びがリビングに響き渡った、直後。
「……うん。だから、キミはすごいよ、ライネス」
アストルフォが、ライネスの目の前に立っていた。
トリムマウが再び反応しようとするが、アストルフォの紫水晶の瞳から放たれる、あまりにも深く、純粋で、底なしの慈愛に満ちた光に、水銀のメイドすらも動きを止めてしまった。
「アストルフォ……っ、来るな……っ」
ライネスは後ずさろうとしたが、足が鉛のように重く、動かなかった。
「一人でずっと、怖い顔して、誰にも甘えずに頑張ってきたんだね。エルメロイってのがどれくらい重たいものか、ボクにはわかんないけど……。でも、キミのその小さな肩には、重すぎるよ」
アストルフォの大きな手が、ライネスの震える肩にそっと触れた。
「あ……っ」
「兄さん? と一緒に頑張ってきたのはえらいけどさ。でも、キミはまだこんなに若くて、可愛い女の子じゃないか。……たまには、その重たい王冠を下ろして、思いっきり泣いたり、笑ったりしなきゃ、キミの綺麗な心が壊れちゃうよ」
「……っ」
ライネスの青い瞳が、大きく揺らいだ。
彼の手から伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。それは、ただの体温ではない。彼女が長年、意地を張って拒絶してきた『他者からの無条件の肯定』だった。
「わ、私は……次期当主だ。エルメロイの……っ。誰にも、頼ら、ない……っ」
震える声で紡がれる、最後の強がり。
「頼らなくていいよ。ただ、ボクに甘えればいいんだ」
アストルフォの顔が近づく。
至近距離で交差する視線。彼から漂う、花のような甘い香りと、濃厚なオスのフェロモンが、ライネスの呼吸を浅く、乱れたものに変えていく。
「ボクは英霊だから、時計塔のルールなんて関係ない。キミがどんな偉い人でも、ボクにとってはただの『ライネス』だ」
アストルフォの腕が、ライネスの細い腰をしっかりと抱き寄せた。
「ひゃっ……! あ、貴様……っ」
「キミのその分厚い鎧、ボクの熱で全部溶かしてあげる。……キミが、素直に『助けて』って言えるまで、絶対に離さないからね」
耳元で低く囁かれる、鼓膜を直接溶かすような甘い毒。
アストルフォの熱い吐息が、ライネスの敏感なうなじを掠める。
『警告。マスターノ心拍数、危険領域ニ突入。体温、異常上昇。魔力回路ニ異常ナノイズ……コレハ……』
トリムマウが無機質な警告を発するが、ライネスの耳にはもう届いていなかった。
「あ……ぁっ……」
ライネスの口から、今まで出したこともないような、甘く、だらしない吐息が漏れた。
腰を抱く彼の手から、強烈な快感が電流のように背筋を駆け上がる。彼女は咄嗟にアストルフォの胸に両手をついて押し返そうとしたが、その手には全く力が入らず、逆に彼の上質なシャツをきゅっと握りしめてしまっていた。
青子やルヴィア、そしてバゼットたちが、その様子を極上の笑みを浮かべて見つめている。
(あぁ……これが、彼女たちが堕ちた理由……っ)
ライネスの明晰な頭脳が、最後に導き出した答え。
抗えるはずがない。こんな、圧倒的な熱と優しさを向けられて、心臓が爆発しそうなほどの快感を与えられて、どうして強がっていられようか。
「ライネス……キミ、すごく熱くなってる。震えてるよ」
「あ、アストルフォ……っ。だめ、だ……私、は……っ」
「だめじゃない。キミの強がり、全部ボクが食べてあげる」
アストルフォの指先が、ライネスの顎をそっと持ち上げた。
潤んだ青い瞳と、情欲に濁った紫水晶の瞳が絡み合う。
「ん……っ!」
アストルフォの滑らかで熱い唇が、ライネスの蠱惑的な唇を、極めて優しく、しかし絶対に逃げられない力強さで塞いだ。
それは、時計塔の若き支配者の理性が、完全に焼き切れた瞬間だった。