fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドンの霧に沈む時計塔。その一角、現代魔術科(ノーリッジ)の権を握るエルメロイ教室の執務室では、ロード・エルメロイⅡ世が、いつにも増して深い絶望の表情で胃薬を水で流し込んでいた。
「……ライネス。お前、自分が何をしているのかわかっているのか」
Ⅱ世は、目の前のデスクに置かれた一枚の書類――『現代魔術科特別顧問付・自律型特級使い魔(アストルフォ)の登録証』を、忌々しそうに睨みつけた。
「当然じゃないか、兄上。私の『使い魔』が、ロンドンに跋扈する特許泥棒や不穏分子を狩り立てる。現代魔術科の権益拡大と治安維持にこれほど役立つ手駒はない。……これなら、法政科の連中も文句は言えまい?」
執務室の豪奢なソファに腰掛けるエルメロイの姫君、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、余裕たっぷりに足を組み、蠱惑的な笑みを浮かべていた。
彼女の首元には、上質なスカーフが巻かれているが、その隙間から微かに覗く肌には、消えかかった赤い痕がいくつも散見される。そして何より、かつて彼女が纏っていた「孤独な次期当主の張り詰めた空気」は完全に消え失せ、代わりに、極上の蜜月を満喫している女特有の、むせ返るような艶やかなフェロモンが漂っていた。
(……完全に、向こう側(ハーレム)に取り込まれているじゃないか、この義妹は……っ)
Ⅱ世は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
時計塔の保守派を黙らせるため、ライネスはアストルフォを「現代魔術科の超有能な使い魔」として公式にでっち上げたのだ。その実態は、彼女自身が夜な夜な彼の熱に溺れるための口実に過ぎないのだが。
「で。兄上には、その私の可愛い『使い魔』殿の、初陣となる任務を采配してもらいたいのだよ。……保守派の連中のぐうの音も出ないほど、彼が役に立つという実績(アピール)が必要だからね」
「……わかった。勝手にしろ」
Ⅱ世はため息をつき、引き出しから一つの分厚い封筒を取り出した。
「大英博物館の地下、旧時代の廃棄魔術工房跡地だ。最近、そこから妙な魔力干渉が観測されている。放置すればロンドンの霊脈に影響が出る可能性があるが、内部の防衛機構(トラップ)が厄介で、調査隊が足踏みしている案件だ。……これなら、文句はないだろう」
「完璧だね。……さあ、アストルフォ。出番だよ」
ライネスが声をかけると、執務室のドアが勢いよく開き、私服姿の桜色の騎士が満面の笑みで飛び込んできた。
「呼ばれた! ライネス、ボク、何すればいいの!?」
「地下の迷宮のお掃除さ。パパッとお小遣い稼ぎ(実績づくり)をして、早く私たちが待つ『お城(エーデルフェルト別邸)』に帰ってきてくれたまえ」
ライネスがアストルフォの首元に腕を回し、誰の目も憚らずにチュッ、と熱いキスを落とす。
「うん! 任せて! ボク、すっごく頑張ってくるね!」
アストルフォは無邪気に笑い、Ⅱ世から封筒を受け取ると、嵐のように執務室から飛び出していった。
残されたⅡ世は、再び強烈な胃痛に襲われ、机に突っ伏した。
「……もう嫌だ、この派閥」
***
ロンドン地下、旧時代の廃棄魔術工房。
外界の光が一切届かないその石造りの回廊は、冷たく、カビと魔力の残滓の匂いが充満していた。
「……はぁっ……はぁっ……!」
その暗闇の中を、一人の幼い少女が荒い息を吐きながら駆け抜けていた。
天体科(アニムスフィア)の君主の娘、オルガマリー・アニムスフィア。まだ十一歳という、魔術師としては未熟すぎる年齢の彼女である。
銀色の美しい髪は埃に汚れ、仕立ての良い魔術協会の制服も、あちこちが擦り切れている。彼女の金色の瞳には、明らかな焦燥と、子供らしい恐怖が浮かんでいたが、それでも彼女は決して立ち止まろうとはしなかった。
(だめよ……ここで成果を上げなければ、お父様に……本当に見捨てられてしまう……っ!)
亜種聖杯戦争の泥沼に見切りをつけ、別の計画へと冷徹に舵を切った父、マリスビリー。彼は最近、娘であるオルガマリーを「力不足」「計画のパーツとして不要」と見なし、冷遇し始めていた。
この地下工房の探索は、事実上の『見捨てられ』と同義の、護衛すらつかない無謀な命令だった。それでも彼女は、偉大すぎる父に自分を認めさせたいという、強迫観念にも似た承認欲求だけで、この危険な封鎖領域へと足を踏み入れていたのだ。
しかし、現実は十一歳の少女にとってあまりにも非情だった。
ガシュンッ……! ギギギギ……ッ!
「……っ! また防衛機構(ゴーレム)……っ!?」
回廊の奥から、石と魔力で構成された巨大な三体の番人が現れ、オルガマリーの退路と前方を完全に塞いだ。
「ガンダー……ッ!」
オルガマリーは震える小さな指先から魔力弾を放つが、分厚い魔力装甲に弾かれ、表面をわずかに焦がすにとどまった。
(魔力が、もう……底を突く……っ)
恐怖で足がすくむ。このままでは、暗く冷たい地下で、誰にも知られずに、お父様に見捨てられたまま押し潰されて死ぬ。
「いやっ……!! 誰か……お父様……たすけて……っ!」
令嬢としてのプライドが崩れ去り、年相応の悲鳴が漏れた。
巨大なゴーレムの石の拳が、彼女の小さな身体を粉砕すべく、容赦なく振り下ろされる。
オルガマリーは目をきつく閉じ、腕で顔を覆った。
――しかし。
待てど暮らせど、その痛みは訪れなかった。
ドガァァァンッ!!
代わりに響いたのは、岩が木っ端微塵に粉砕される爆音。
そして。
「おっと! 間一髪! 大丈夫!? 怪我してない!?」
「……え?」
オルガマリーが恐る恐る目を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。
冷たく暗い地下回廊の空気を完全に塗り替えるほどの、圧倒的な黄金の光。
巨大なゴーレムは、たった一撃で胴体を両断されて崩れ落ち、その瓦礫の上に、桜色の髪をなびかせた一人の青年が、黄金の馬上槍を肩に担いで立っていた。
「キミ、すっごく震えてるね。こんな暗くて寒いところで、一人で迷子になっちゃったの?」
アストルフォは槍を虚空へと消すと、驚きで腰を抜かしているオルガマリーの元へ、軽やかな足取りで近づいてきた。
「な……ななな……」
オルガマリーは言葉を失った。
時計塔の人間ではない。こんなデタラメな魔力と身体能力、英霊以外の何者でもない。
「あ、貴方、何者よ……っ! 迷子なんかじゃないわ! 私は天体科の……っ」
強がろうとしたオルガマリーだったが、崩れ落ちるゴーレムの残骸が、彼女の小さな頭上へと降り注いできた。
「危ないっ!」
ガシッ、と。
アストルフォのがっしりとした腕が、オルガマリーの華奢な身体を抱き寄せた。
そのまま彼は、彼女をふわりと抱き上げ、瓦礫の雨から逃れるように、壁際の安全な空間へと着地した。
「ひゃっ!?」
「うん、怪我はなさそう! よかったぁ!」
着地した瞬間。
オルガマリーの鼻腔を、むせ返るような花々の甘い香りがくすぐった。
そして、冷え切っていた彼女の小さな身体に、彼のがっしりとした胸板から、太陽のように暖かく、圧倒的な安心感を与える体温が流れ込んできたのだ。
至近距離。ゼロ距離。
見上げれば、アストルフォの紫水晶の瞳が、彼女を心配そうに、けれど底抜けの純粋な優しさで見つめ下ろしている。
「キミの身体、氷みたいに冷たいよ。心音も、トクトクってすっごく早く鳴ってる。……怖かったんだね。もう大丈夫だよ、ボクが守ってあげるから!」
「……っ!!」
オルガマリーの心臓が、大きくドクンッと跳ねた。
冷たく厳しいアニムスフィアの家門で、父の道具として生きることを強いられ、たったの一度も「抱きしめられる」ことすら無かった彼女。
そんな彼女の分厚い氷の鎧の隙間を、この見ず知らずの桜色の騎士は、一切の打算もない純度百パーセントの『思いやり』と『肯定』で、いとも容易くすり抜けてきたのだ。
「だ、誰が怖いなどと……っ! 私は、マリスビリー・アニムスフィアの娘……っ、こんなところで、泣き言など……っ」
「泣き言、言っていいんだよ。キミ、すごく無理して、強いふりしてる顔してるもん」
「な……っ」
図星を突かれ、オルガマリーの金色の瞳が大きく見開かれた。
アストルフォの大きな手が、彼女の震える背中を、まるで怯える子供をあやすように優しくポンポンと叩く。
その、あまりにも温かく、そして無条件の愛情に満ちた手つきに、父に見捨てられ、孤独で凍え切っていた彼女の心の奥底が、ジンと熱を持ち始めた。
「私は……っ、私は……っ」
「ボクはアストルフォ! キミのお名前は?」
「オ、オルガマリー……よ。……オルガマリー・アニムスフィア……」
「オルガマリー! すっごく可愛い名前だね! 髪の毛も、銀色で星みたいにキラキラしてる!」
「か、かわいい……っ!?」
時計塔で、彼女を恐れる者や利用しようとする者はいても、面と向かって「可愛い」などと、ごく普通の女の子のように褒めてくれる人間など、これまで一人もいなかった。
顔が、耳の先までカッと茹でダコのように赤くなるのが自分でもわかった。
「と、とりあえず、私を下ろしなさいっ! この不敬者……っ!」
オルガマリーは彼の胸を両手で押し返そうとしたが、彼から伝わる圧倒的な安心感のせいか、指先に全く力が入らず、逆に彼のシャツをきゅっと、無意識にすがりつくように握りしめてしまっていた。
「あはは! オルガマリー、顔真っ赤だ! お兄ちゃんのこと、気に入ってくれた?」
「だ、誰がお兄ちゃんよ……っ! こんな、馴れ馴れしい英霊なんて……っ!」
「でも、ここ、まだ敵がいっぱいいるみたいだし。ボクがお掃除終わるまで、ボクの側から離れちゃだめだよ?」
アストルフォはオルガマリーの小さな身体をしっかりと抱き抱えたまま、彼女に向かって、どこまでも純粋で、太陽のように温かいヒーローの笑顔を向けた。
「キミのこと、ボクが絶対に安全なお家までエスコートしてあげるからね!」
冷たく暗い地下迷宮。父に見捨てられ、すべてが終わるはずだった場所。
しかし、十一歳の少女・オルガマリーの世界は今、この桜色の騎士がもたらした強烈な『温もり』と無償の愛によって、足元からぐらぐらと溶かされ始めていた。