fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
冷たく湿った空気が支配する、ロンドン地下の廃棄魔術工房。
瓦礫の陰で、アストルフォのがっしりとした腕の中にすっぽりと収まっていたオルガマリー・アニムスフィアは、彼の桜色の髪と、常軌を逸した魔力密度に気づき、弾かれたように彼を突き飛ばした。
「さ、触らないでッ!! 貴方……ピンクの髪に、そのデタラメな気配……っ。まさか、時計塔で噂になっている『はぐれ英霊』!?」
オルガマリーは瓦礫に背をつけ、震える小さな指先でアストルフォを指差した。
天体科の令嬢である彼女の耳にも、ここ数日のロンドンを騒がせている異常事態の噂は届いていた。封印指定の執行者(バゼット)をたった一晩で牙の抜けた飼い犬にし、現代魔術科の姫君(ライネス)すらも懐柔し、エーデルフェルトや青崎青子と結託して巨大な『巣』を構築しているという、未知の怪物。
「噂では、関わった魔術師の理性を根こそぎ奪う『色欲の獣』だと聞いていたけれど……っ! なぜ、こんな地下迷宮に貴方がいるのよ!」
まだ十一歳のオルガマリーは、金色の瞳に明確な警戒心と、子供らしい怯えを浮かべて後ずさる。
「色欲の獣!? ひどいなぁ! ボクはシャルルマーニュ十二勇士のアストルフォ! ライネスに頼まれて、ここのお掃除に来ただけだよ!」
アストルフォは全く気を悪くした様子もなく、無邪気な少年のように笑った。
「ライネスが……っ!? あの女、まさかこの地下の星図礼装を横取りするために、貴方を……っ!」
天体科と現代魔術科の権力闘争。そして何より、偉大な父(マリスビリー)に認めてもらうための『最後の手柄』を横取りされるという焦りが、オルガマリーの心を激しく乱す。
「ふんっ! 誰が貴方なんかの助けを借りるもんですか! 私はアニムスフィアの次期当主。こんな迷宮の防衛機構くらい、一人で……っ」
強がりを叫び、オルガマリーが踵を返して回廊の奥へ進もうとした、その瞬間。
カチッ。
彼女の小さな靴底が、石畳に隠された古い感圧式のルーンを踏み抜いた。
「え……っ」
バシュウゥゥッ!!
壁面から、彼女の全身を串刺しにすべく、致死量の魔力を帯びた無数の槍が射出される。魔力が底を突きかけている十一歳の少女に、防ぐ術はなかった。
(あ……お父様――)
死の恐怖に瞳を閉じた彼女の耳に、鋭い風切り音と、金属が激しくぶつかり合う轟音が響いた。
「そりゃっ!!」
目を開けると、オルガマリーの目の前に、桜色の髪の騎士が立っていた。
彼は黄金の馬上槍(トラップ・オブ・アルガリア)を風車のように回転させ、四方八方から迫る死の槍を、ただの一撃も彼女に届かせることなく、すべて完璧に弾き落としていた。
「……っ」
「危ないなぁ。ここは、キミみたいな小さな女の子が一人で歩いていい場所じゃないよ」
振り返ったアストルフォの横顔には、色欲の獣の面影など微塵もなく、ただ純粋に弱者を守る『本物の騎士(お兄ちゃん)』としての、凛々しく、底抜けに優しい光が宿っていた。
オルガマリーの小さな心臓が、恐怖とは全く別の理由で、トクン、と大きく跳ねた。
「……っ、な、なぜ……」
「え?」
「なぜ、私を庇うのよ! 私は天体科の人間で、貴方のマスター(ライネス)の敵対派閥よ!? 放っておけばよかったじゃない!」
混乱するオルガマリーに対し、アストルフォは困ったように眉を下げ、彼女の目線に合わせるように片膝をついた。
「敵とか味方とか、そういうのボクにはわかんない。でも……」
アストルフォの大きな手が、へたり込んでいるオルガマリーの、埃で汚れた頬の涙の跡をそっと拭った。
「っ!」
「キミが今、すごく怖がって、一人ぼっちで泣きそうになってる女の子だってことはわかるよ。……騎士が、女の子を見捨てるわけないじゃないか」
その言葉は、魔術師の打算や「血統の義務」で濁りきった時計塔の空気とは無縁の、あまりにも眩しく、無条件の『肯定』だった。
父・マリスビリーの計画のパーツとして、常に完璧でなければならなかった。誰かに甘え、守られることなど、アニムスフィアの令嬢として許されなかった。
しかし、彼のその真っ直ぐな紫水晶の瞳と、頬に触れる太陽のように温かい手のひらは、十一歳の少女が長年張り詰めてきた心の氷に、確かなヒビを入れていた。
「……ば、馬鹿じゃないの。お人好しにも程があるわ……っ」
オルガマリーは顔を真っ赤にして彼の手を振り払おうとしたが、その小さな手は微かに震えていた。
「さあ、立てる? ボクの後ろにくっついてて。キミの探してるお宝のところまで、ボクがエスコートしてあげるから!」
アストルフォは極上の笑顔を見せ、彼女に向かって手を差し出した。
「エ、エスコート……っ。勘違いしないでよね、魔力が回復するまで、一時的に協力してあげるだけよ……っ!」
オルガマリーは口ではツンケンと言い放ちながらも、恐る恐る、彼の手を握った。
「わっ……」
剣を握り続けてきた騎士の、分厚く、そして途方もなく温かい手。
彼女の氷のように冷え切っていた指先から、その圧倒的な安心感が、ジンジンと血流に乗って全身へと広がっていくのを感じた。
***
それからの地下迷宮の道中は、オルガマリーにとって、自分の世界が根底から覆される時間の連続だった。
「うわっ、またゴーレムだ! オルガマリー、ちょっとそこで待ってて!」
「待ちなさい、相手は魔力耐性が――」
彼女の忠告が終わる前に、アストルフォは軽やかなステップで巨石の怪物の懐に潜り込み、馬上槍の一撃でそのバランスを崩し、瞬く間に粉砕してしまう。
罠が作動すれば、彼が身を挺して彼女を庇い。
足場が崩れれば、彼が力強い腕で彼女の小さな身体を抱き寄せて跳躍する。
「あ……っ、ちょ、子供扱いしないでって言っているでしょ!」
「ごめんごめん! でも、落ちたら危ないからね!」
抗議するオルガマリーだが、何度も彼のがっしりとした胸板に抱き寄せられ、その花のような甘い匂いと高い体温に包まれるたびに、張り詰めていた心が信じられないほどに安らいでいくのを感じていた。
(……色欲の獣、ですって……? 冗談じゃないわ)
彼に手を引かれながら、オルガマリーはアストルフォの広い背中を見つめた。
時計塔の噂は、完全に間違っている。彼は獣などではない。誰もが憧れるような、底抜けに明るく、優しく、そして圧倒的に強い、おとぎ話から抜け出してきたような『ヒーロー』そのものだ。
だからこそ――恐ろしい。
彼のこの無限の優しさと温もりに、これ以上触れ続けていたら。
自分の中に長年巣食っていた「お父様に認めてほしい」「ただ甘やかしてほしい」という子供としての渇望が、完全に彼に向かって暴走してしまう。
「……ふぅ。よし、この階層はお掃除完了だね。少し休憩しよっか」
安全な小部屋を見つけ、アストルフォが振り返った。
「あ、ええ……っ。そうね、魔力も少し回復させないと……」
オルガマリーは壁際に座り込もうとしたが、極度の緊張の糸が切れたのか、ガクン、と膝の力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになった。
「オルガマリー!」
アストルフォが素早く駆け寄り、彼女の小さな身体をしっかりと抱き留める。
「あっ……ご、ごめんなさい……足が、もつれて……」
「無理しないで。ほら、キミ、こんなに震えてるよ」
アストルフォは彼女を床に座らせると、自らの上着を脱ぎ、彼女の華奢な肩にふわりと掛けた。
そして、彼自身も彼女のすぐ隣に腰を下ろし、彼女の冷え切った両手を、自分の大きな両手で包み込むように握りしめた。
「ひゃっ……! アストルフォ、貴方、近……っ」
「魔力が足りないんでしょ? ボクの体温、分けてあげる」
薄暗い地下の小部屋。
静寂の中、二人の息遣いだけが重なり合う。
オルガマリーの肩に掛けられた彼の上着からは、彼自身の優しい匂いがダイレクトに鼻腔を刺激し、包み込まれた両手からは、彼という存在の『絶対的な安心感』が、彼女の心の最も脆い部分へと容赦なく流れ込んでくる。
「……なぜ、そこまでしてくれるの。私は、貴方にとって価値のある人間じゃないわ……。お父様だって、私のことなんて、ただの出来損ないのパーツだと……っ」
不意に、オルガマリーの口から、絶対に誰にも見せるつもりのなかった絶望の吐露が、ポロリと零れ落ちた。
見捨てられたことへの恐怖。彼の温もりに触れたことで決壊した、十一歳の少女の「ただの子供」としての弱音。
アストルフォは、彼女の手を握ったまま、少しだけ顔を近づけた。
薄闇の中でもはっきりとわかる、彼の紫水晶の瞳の、極上に優しく、曇りのない光。
「価値なんて、ボクが全部決めるよ。……お父さんがキミを見ないなら、ボクがキミのこと、誰よりもいっぱいいっぱい見てあげる」
「……っ!!」
「キミは出来損ないなんかじゃない。こんなに怖いところで、一人で頑張れる、すっごく強くて、すごい女の子だよ」
鼓膜を直接包み込むような、底抜けに優しい囁き。
オルガマリーの金色の瞳から、張り詰めていた糸が完全に切れたように、大粒の涙が溢れ出した。
「あ……ぁっ……ちが、う……私は……っ、お父様に……っ」
「もう、一人で泣かなくていいよ、オルガマリー。お兄ちゃんが、ずっと一緒にいてあげるから」
アストルフォの大きな手が、彼女の涙を拭うように頬に添えられ、そのまま彼女の小さな頭を自分の胸元へと優しく引き寄せた。
「うわあああぁぁぁんっ……!!」
冷徹な天体科の令嬢の仮面が完全に砕け散り、彼女は子供のように声を上げて、彼の大胸筋にしがみついて泣きじゃくった。
父に捨てられた絶望の底で、彼女はついに、自分を無条件で全肯定してくれる『絶対的な居場所』を見つけたのだ。
この日、アニムスフィアの令嬢は一度死に、彼の妹分として生まれ変わった。
そして、この無邪気な依存と憧憬が、数年後、彼を「一人のオス」として狂おしいほどに渇望する『極上の雌(妻)』への成長へと繋がっていくことを、今はまだ誰も知らない――。