fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
冷たく薄暗い地下の小部屋。
アストルフォの紫水晶の瞳が間近に迫り、彼が心配そうにオルガマリー・アニムスフィアの小さな頭を撫でようとした、まさにそのコンマ数秒前だった。
ズズンッ……!! ギギギギギ……ッ!!
突如として、地下迷宮全体を揺るがすような激しい地鳴りが響き渡った。
「きゃあっ!?」
オルガマリーが悲鳴を上げ、思わずアストルフォの服の裾を強く握りしめる。
「わわっ! なんだなんだ!?」
二人が身を寄せていた小部屋の壁面に、不気味な赤い魔力回路(ルーン)が幾重にも走り始めた。
「……っ、しまった! さっきのゴーレムの破壊がトリガーになって、迷宮の最終自爆機構(トラップ)が起動したのよ! この階層ごと、完全に崩落する気だわ!」
天体科の令嬢としての明晰な頭脳が、最悪の事態を瞬時に弾き出した。
天井からパラパラと土砂が落ち、足元の石畳が亀裂を上げて崩れ始める。
「ええっ!? ボク、お掃除頼まれただけなのに、自爆なんて聞いてないよー!」
アストルフォは文句を言いながらも、全く慌てた様子は見せず、オルガマリーの小さな身体を力強く抱き寄せた。
「お、オルガマリー、しっかりボクにしがみついててね!」
「ちょっと、貴方、どうする気……っ、きゃあぁぁぁッ!!」
アストルフォは彼女を片腕でしっかりと抱きかかえたまま、黄金の馬上槍(トラップ・オブ・アルガリア)を虚空から引き抜き、崩れ落ちてくる巨大な瓦礫の雨の中へと、一切の躊躇なく飛び出していった。
「そりゃそりゃそりゃーッ!!」
轟音と土煙の中、アストルフォの馬上槍が風車のように回転し、二人を押し潰そうとする数トンの岩塊を次々と粉砕していく。
「ひぃぃっ……! 死ぬ、死ぬわ……っ!」
オルガマリーは目をきつく閉じ、彼の上着越しにその頼もしい背中にしがみつくことしかできなかった。
しかし、彼女の耳に届くのは岩の砕ける音ばかりで、彼女自身の身体には、石の欠片一つたりとも当たっていなかった。
彼が、その身を挺して、すべての致命的な衝撃から小さな彼女を完璧に守り抜いているのだ。
「見えた! あそこの光ってるところだ!」
アストルフォの明るい声が響く。
ドガァァァンッ!!
最後の一際巨大な扉を馬上槍で強引に叩き割ると、二人は崩落する回廊から間一髪で脱出し、巨大な空間へと転がり込んだ。
背後で、これまで通ってきた迷宮が完全に土砂に埋もれ、轟音と共に崩れ落ちる。
「……ふぅ。危なかったぁ。ごめんね、オルガマリー。ちょっと乱暴だった?」
アストルフォが、腕の中のオルガマリーを優しく床に下ろした。
「はぁっ……はぁっ……」
オルガマリーは息も絶え絶えに目を開け、周囲を見渡した。
そこは、廃棄された地下迷宮の最深部とは思えないほど、神秘的で美しい空間だった。
ドーム状の天井には、魔力によって無数の星々が輝き、プラネタリウムのように疑似的な夜空を形成している。そして、その中央の祭壇には、淡い青色の光を放つ古びた羊皮紙の束――オルガマリーが探し求めていた『星図礼装』が、静かに安置されていた。
「これ……私が、ずっと探していた……っ。お父様に、認めてもらうための……っ」
オルガマリーはふらつく足で祭壇に歩み寄り、その礼装にそっと触れた。
間違いない。天体科にとって至高の価値を持つ、失われた神秘だ。ダンジョンの攻略は、完全に達成されたのだ。
「やったね、オルガマリー! キミのお宝、無事に見つかったよ!」
アストルフォが、無邪気な笑顔でパチパチと拍手をする。
その底抜けに明るい声に、オルガマリーは振り返った。
「あ……貴方が、手伝ってくれたから……。私は、一人じゃ、何も……っ」
そこまで言いかけて、オルガマリーの金色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
「アストルフォ……貴方、その腕……っ!」
アストルフォの左腕。彼女を崩落から庇い続けていたその腕の袖が大きく裂け、そこから生々しい鮮血がツーッと滴り落ち、地下の石畳を赤く染めていた。
瓦礫の雨を完全に防ぎきったわけではなかったのだ。彼女に傷一つ負わせないために、彼は自らの肉体を盾にして、落下してくる岩の破片を素肌で受け止めていた。
「え? ああ、これ? ちょっと掠り傷しちゃったみたい。でも平気だよ、ボク英霊だからすぐ治るし!」
アストルフォは気にする素振りも見せず、へらっと笑った。
その笑顔が。
オルガマリーの心に長年張り巡らされていた、分厚い氷の壁を、音を立てて完全に粉砕した。
「……っ、平気なわけないでしょ……っ! 馬鹿なの!? なんで、なんでそこまでして、私なんかを……っ!」
オルガマリーは星図礼装を放り出し、アストルフォの元へと駆け寄った。
彼女は震える小さな両手で彼の血まみれの腕をそっと支え、その傷口から滴る生温かい血の感触に、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
「私なんて、お父様に見捨てられた、ただの出来損ないのパーツなのに……っ! 聖杯戦争に見切りをつけて、新しい計画を進めるお父様にとって、私なんてもう用済みで……だからこんな無茶な調査に、護衛もつけずに放り込まれたのに……っ!」
泣きじゃくる十一歳の少女。
誰にも見せなかった、彼女の魂の奥底からの悲鳴だった。
時計塔の誰もが、アニムスフィアの看板だけを見て彼女を利用しようとした。そして実の父でさえ、彼女を切り捨てた。誰も、「オルガマリー」という一人の寂しい子供の心に寄り添おうとはしなかった。
「出来損ないじゃないって、さっきも言ったでしょ?」
アストルフォの右手が、血で汚れるのも構わずに、オルガマリーの銀色の髪を優しく、ひどく愛おしそうに撫でた。
「ボクは、キミが『オルガマリー』だから守ったんだよ。……小さな女の子が泣いてたら、助けるのがお兄ちゃんの役目だからね」
「アストル、フォ……っ」
「それにさ」
アストルフォは、困ったように笑いながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「ボク、キミみたいな一生懸命で強がりな女の子、すっごく大好きなんだ。……ほっとけないっていうか、いっぱいいっぱい、頭なでなでしてヨシヨシってしてあげたくなるんだよね」
「……っ!!」
オルガマリーの小さな心臓が、激しく打ち鳴らされた。
好き。大好き。
そんな言葉を、こんなにも純粋に、一切の打算もなくぶつけられたのは、生まれて初めてだった。
冷え切っていた彼女の心の奥底に、太陽のような温かい光が差し込み、父に捨てられたという絶望の闇を完全に吹き飛ばしていく。
「……ば、ばか。本当に、大馬鹿よ、貴方は……っ」
オルガマリーは涙を拭うのも忘れ、震える小さな手でアストルフォの左腕の傷口に触れた。
「動かないで。……治癒のルーンと、魔力供給よ。……貴方、私を庇って魔力を消耗しているはずだから」
オルガマリーは顔を真っ赤にしながら、必死に魔術回路を回し始めた。
彼女の小さな手から、純粋な魔力と、隠しきれない「彼への絶対的な信頼」が、アストルフォの身体へと流れ込んでいく。
「オルガマリー……すっごく温かいよ。キミの魔力、星みたいにキラキラしてる」
「……当たり前でしょ。天体科の魔術を舐めないでよね」
強がりながらも、オルガマリーは彼の手を離そうとはしなかった。
むしろ、彼女は無意識のうちにアストルフォのがっしりとした胸板へとすり寄り、彼から発せられる途方もない安心感を、全身で貪るように感じ取っていた。
「ねえ、オルガマリー」
アストルフォの大きな手が、彼女の背中を優しくトントンと叩く。
「キミ、もうお父さんに認められなくてもいいんじゃない? そんな冷たいお家に帰らなくても……ボクのところにおいでよ」
「……え?」
オルガマリーの金色の瞳が揺れる。
「ボクのお家にはね、青子やルヴィア、サクラ、バゼットにライネス……それにフィオレやレティシアっていう、すっごく可愛くて優しいお姫様がいっぱいいるんだ」
アストルフォは、星空の天井を見上げながら、満面の笑みで語り始めた。
「みんな、最初はキミみたいに一人で難しい顔して、震えてた。でもね、今はみんないっしょにお風呂入ったり、同じベッドで寝たりして、すっごく仲良しなんだよ! 誰もキミのこと、出来損ないなんて言わない。みんなで、キミのこと『新しい家族』として、いっぱいいっぱい可愛がってあげるから!」
「……っ」
それは、時計塔の常識からすれば、完全に規格外の提案だった。
現代魔術科の次期当主(ライネス)や、封印指定の執行者(バゼット)までが、彼のもとで一つの『家族』として暮らしているという異常事態。
しかし、実の父に捨てられ、帰る場所を失っていた今のオルガマリーにとって、その言葉は「どんな魔術的防壁よりも温かく、絶対的な救済」だった。
もう、振り向いてくれない父のために、一人で冷たい迷宮を歩く必要はないのだ。
「……本当に、非常識極まりないわね。貴方も、その女たちも……」
オルガマリーは、彼の大胸筋に小さな額を押し付けた。
「でも……。もし、私がそのお家に行ったら……。貴方は、私のお兄ちゃんに……なってくれるの?」
「うん! ボクがキミの、世界で一番かっこいいお兄ちゃんになってあげる!」
アストルフォの紫水晶の瞳が、一切の曇りのない、純度百パーセントの優しさでオルガマリーを真っ直ぐに見つめ返す。
「キミが寂しい時は、キミが笑顔になるまで、いっぱいいっぱい頭を撫でてあげる。……キミの悲しいこと、全部ボクが吹き飛ばしてあげるよ」
「……っ、うわああぁぁん……っ!!」
疑似的な星空が輝く地下の最深部。
冷徹で孤独だった十一歳の令嬢の最後の意地が完全にへし折れ、彼女はついに、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
彼女の瞳の端に映る『星図礼装』は、もはやどうでもよかった。
マリスビリー・アニムスフィアの命令でもなく、血統の義務でもない。オルガマリー・アニムスフィアは、生まれて初めて「自分の意志」で、彼という絶対的な光のそばで生きることを選択したのだ。
今はまだ、温かい家族に守られる「小さな妹」でいい。
けれど、いつか自分が立派な大人になった時――この絶対的なお兄ちゃんの隣に立つにふさわしい、極上の『一人の女(妻)』になってみせる。
そんな果てしなく永く、そして狂おしいほどに甘い未来への誓いが、泣きじゃくる少女の胸の奥底で、密かに、しかし強烈な熱を帯びて芽生え始めていたのだった――。