fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドンの地下深くに広がる、廃棄魔術工房。
疑似的な星空が輝いていた最深部の広間は、今はただ、激しい崩落から生き延びた静寂と、冷たい埃の匂いに包まれていた。
「……っ、ひぐっ……、うぁぁぁん……っ」
冷たい石畳の上に敷かれたアストルフォの上着に包まれ、オルガマリー・アニムスフィアは、銀色の髪を散らしながら、子供のようにしゃくり上げて泣いていた。
彼女の小さな心の中で、何かが完全に崩れ去っていた。聖杯戦争に見切りをつけ、カルデア設立という巨大な計画へと舵を切った父・マリスビリー。彼にとって、自分はもう不要なパーツでしかなかったのだという絶望。
そして、そんな彼女の命を、文字通りその身を挺して守り抜いてくれた、目の前の桜色の騎士の無条件の優しさ。
「……オルガマリー。もう大丈夫? 痛いところ、ない?」
傍らに片膝をついたアストルフォが、彼女の泥で汚れた前髪を優しく払いながら、紫水晶の瞳で覗き込んでくる。
その、どこまでも純粋で、愛おしげな視線。
「あ……アストルフォ……っ」
オルガマリーは、涙でぐちゃぐちゃになった顔で彼を見つめ返した。
今まで、天体科の次期当主として「誰にも甘えてはならない」と教え込まれてきた。けれど今、彼女は自分から彼の広い胸板へとすり寄り、その服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめていた。
「痛くなんか……ないわ。でも……お父様は、もう、私のことなんて……っ」
「そっか。……じゃあ、もうそんな冷たいお家に帰らなくていいよ」
アストルフォは極上の、太陽のような笑顔を浮かべ、彼女の小さな頭を優しく撫でた。
「これからは、ボクがキミのお兄ちゃんだ! ボクのお家に来ればいいよ。みんないっぱいいっぱい、キミのこと可愛がってくれるから!」
「……ええ。わかったわ、この馬鹿……っ。私、もう……お父様のことなんて、どうでもよくなっちゃったじゃない……っ」
涙目で彼を睨みつけながらも、その声は完全に彼に心を開き切った、年相応の無防備な響きだった。
彼女は自らアストルフォの首に小さな腕を回し、彼の桜色の髪に顔を埋めて、その絶対的な安心感と温もりを胸いっぱいに吸い込んだ。
自分を縛り付けていた血統の呪縛は、彼がもたらした途方もない優しさと肯定感によって、完全に溶かされてしまったのだ。
「さあ、帰ろっか! ボクたちの新しいお家に!」
アストルフォは彼女の泥だらけの頬に、兄としての親愛を込めた優しいキスをちゅっと落とすと、立ち上がり、彼女の小さな身体をふわりとお姫様抱っこで抱き上げた。
***
数時間後。
時計塔、現代魔術科(ノーリッジ)。エルメロイ教室の執務室。
「……これは、一体どういう状況だ。説明しろ、ライネス」
ロード・エルメロイⅡ世は、胃薬の瓶を握りしめたまま、目の前の信じられない光景に絶望の声を上げていた。
執務室のデスクの上には、彼が回収を命じた『星図礼装』が無造作に置かれている。
そこまではいい。問題は、その横に立つアストルフォの腕の中に、天体科(アニムスフィア)の令嬢であるオルガマリーが、顔を赤くして、まるで親鳥にすがりつく雛鳥のようにぴたりとくっついていることだ。
迷宮の埃で泥だらけになった彼女は、アストルフォの上着にすっぽりと包まれ、彼の手を絶対に離そうとしない。
「あははははっ!! 傑作だね、本当に!」
ソファに深々と腰掛けていた次期当主、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、腹を抱えて爆笑していた。
「まさか、天体科の令嬢殿までお持ち帰りしてくるとはね! 私が彼に『お掃除』を頼んだら、ついでに親に見捨てられた迷子のお姫様まで保護してきたというわけか!」
「わ、笑うなっ……! エルメロイの……っ」
オルガマリーはライネスを睨みつけようとしたが、アストルフォが彼女の頭をぽんぽんと撫でると、「ひゃんっ……!」と可愛らしい声を上げて彼の背中に隠れてしまった。
その完全に「強がりな令嬢の鎧を脱ぎ捨てた」姿は、かつて孤高を気取っていた彼女を知る者からすれば、完全に異常事態だった。
「ボク、お宝ちゃんと持ってきたよ! それと、この子も今日からボクの妹だからね!」
アストルフォが満面の笑みで宣言する。
「……頭が痛い。マリスビリーが見限ったとはいえ、アニムスフィアの令嬢を誘拐したと天体科の連中が知れば、時計塔はひっくり返るぞ……」
Ⅱ世が呻き声を上げる。
「案ずるな兄上。……オルガマリー・アニムスフィア。君は地下迷宮の防衛機構に襲われ、絶体絶命の危機に陥っていた。そこを、通りすがった『現代魔術科の使い魔(アストルフォ)』が偶然救出した。父親に見捨てられ、帰る場所を失った君を、我々エルメロイ派が『人道的な観点から保護』した。……という筋書きでどうだね?」
ライネスが、蠱惑的な笑みを浮かべて提案する。
「……っ。貴女、私を……現代魔術科の政治の駒にする気?」
「君の冷酷な父親の道具でいるよりは、マシな扱いを約束するよ。……それに、君はもう、その男の温もりなしでは夜も眠れないほど、心細いのだろう?」
ライネスの青い瞳が、悪戯っぽく、けれど不思議と温かい光を帯びて細められる。
「安心したまえ。これからは、私たちが君の『家族』だ。天体科の重圧は適当にいなしつつ、思う存分、彼の腕の中で子供らしく甘えればいい。……ようこそ、私たちのイカれた、けれど温かい陣営へ」
オルガマリーは、ライネスから漂う自分と同じ「アストルフォの匂い」と、その言葉の裏にある奇妙な連帯感に、小さく、けれど確かな安堵の息を吐いた。
「……ええ。わかったわ。天体科には、勝手にすればいい。私は、私の意志で……ここに来たんだから」
オルガマリーは、アストルフォの服の裾をぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にして上目遣いで彼を見た。
「アストルフォ……私を、早く貴方の……『お家』に、連れて行って……っ。もう、疲れちゃったの……っ」
「うん! 任せて!」
アストルフォは、オルガマリーを再びいとも軽々と抱き上げた。
「じゃあね、ライネス! 義兄さん! ボクたち、帰るね!」
呆然とするⅡ世と、楽しげに手を振るライネスを残し、アストルフォはオルガマリーを抱いたまま、窓からロンドンの空へとヒポグリフに乗って飛び立っていった。
***
ロンドン郊外、エーデルフェルト別邸。
夕暮れの陽光が差し込むエントランスの重厚な扉が開くと、そこには、帰還を待ちわびていた極上の美女たちがズラリと並んでいた。
「おかえりなさい、アストルフォ。……あら? 随分とまた、可愛らしい迷子を拾ってきましたのね」
ルヴィアゼリッタが扇子を広げ、アストルフォの腕の中に収まる、泥だらけの銀髪の少女を見て目を丸くする。
「ただいまー! 紹介するね、オルガマリーだよ! ボクの新しい妹!」
アストルフォがオルガマリーをそっと床に下ろす。
しかし、彼女の足は疲労で震え、自立することができずに彼にしがみついてしまった。
「あ、あの……私は、オルガマリー・アニムスフィア……っ」
オルガマリーは、目の前に並ぶ蒼崎青子、間桐桜、バゼット、フィオレ、レティシアの圧倒的な美しさと魔力に圧倒され、言葉を詰まらせた。
「ふふっ。そんなに怯えなくても大丈夫よ。こんなに泥だらけになって……独りぼっちで、怖かったわね」
青子が、タバコを消して歩み寄り、子供をあやすような優しい笑顔でオルガマリーの頭を撫でた。
「ええ。アストルフォ様、また困っている子を助けてこられたのですね。……偉いですよ」
レティシアが、聖女のような慈愛の笑みでアストルフォに微笑む。
「オルガマリーちゃん。……お疲れ様でした。もう、痛いことも怖いこともありませんからね」
桜が、柔らかな足取りで近づき、緊張で強張るオルガマリーの冷たい小さな手を、優しく両手で包み込んだ。
「あ……っ」
その手の温かさと、彼女たち全員から向けられる「保護者」としての底知れぬ無償の愛に、オルガマリーは思わず息を呑み、瞳を潤ませた。
時計塔の陰謀など、この館の中では何の価値もない。ここにあるのは、一人の規格外の騎士を中心とした、異常なまでに温かく、そして絶対的な肯定に満ちた『家族』の絆だけなのだ。
「さあ、まずは温かいお風呂に入りましょう? 瓦礫の埃と泥で、可愛いお顔が真っ黒ですわよ」
ルヴィアが悪戯っぽく笑い、オルガマリーの小さな肩に手を回す。
「ボクも一緒に入るー!! オルガマリーの背中、ボクが流してあげる!」
アストルフォが無邪気に飛びついてきて、オルガマリーを背後からむぎゅっと抱きしめる。
「ひゃッ!! アストルフォッ、だめ、皆さんの前で……っ!」
顔から火が出そうなほど赤面するオルガマリーが悲鳴を上げた、その瞬間。
「却下よ!!」
「駄目ですっ、アストルフォ! 彼女はまだ小さな女の子なんですから!」
青子とバゼットが即座にアストルフォの襟首を掴み、ズルズルと後ろへ引きずっていった。
「ええーっ!? なんでー! 妹の背中流すの、普通でしょー!」
「普通じゃありません! 全く、貴方は相変わらずデリカシーというものが……っ」
大騒ぎになるエントランス。
その、まるで本物の兄や姉たちのようなドタバタ劇を見て、オルガマリーの唇から、張り詰めていた空気が抜けるように、ふわりと自然な笑みがこぼれた。
(……温かい。これが……家族……)
孤高の天体科の令嬢は、時計塔の冷たい重圧と父からの見捨てられという絶望から完全に解放され、この世で最も温かく、賑やかな「愛の城」の住人として、彼らの輪の中へと溶け込んでいった。
今はまだ、温かく見守られる「守られるべき妹」。
けれど、いつか自分が立派なレディに成長した暁には――必ず、誰よりも美しくなって、あの無邪気なお兄ちゃんの隣に『女(妻)』として立ってみせる。
そんな甘く、果てしなく永い未来への初恋の誓いを胸に秘めながら――。