fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
冬木市、遠坂邸。
静寂に包まれた洋館の自室で、遠坂家次期当主である遠坂凛は、上質な革製のトランクケースに荷物を詰め込みながら、ふうっと深い溜息を吐き出していた。
「……ようやく、片付いたわね。本当に、手間ばかりかけさせてくれるんだから」
凛の赤いコートが、ハンガーに掛けられて出番を待っている。
第三次聖杯戦争で大聖杯が奪取され、本来起こるはずだった第四次・第五次聖杯戦争が消滅したこの世界線。しかし、その余波として世界各地で勃発した『亜種聖杯戦争』の煽りを受け、冬木の霊脈を預かる管理者(セカンドオーナー)としての仕事は、多忙を極めていた。
その激務と事後処理に追われ、本来ならとうに時計塔へ留学しているはずだった彼女の出発は、今日この日まで大幅に遅れ込んでいたのだ。
(でも、これでやっとロンドンへ行ける。……向こうには、あの子もいるしね)
凛は荷造りの手を止め、机の引き出しの奥に大切にしまってある一枚の写真に目を落とした。
そこに写っているのは、金髪の縦ロールの令嬢(ルヴィア)の隣で、少しはにかむように微笑む、美しい黒髪の少女――妹の桜(現在はエーデルフェルトの養女)の姿だった。
大聖杯の喪失により、魔術への執着を失いかけた間桐家。その結果、蟲蔵の悲劇は起こらず、桜は遠縁である名門エーデルフェルト家に引き取られることになった。
離れ離れになってしまったけれど、彼女が義姉であるルヴィアと共に、誇り高く、健やかに(そしてなぜか苛烈なプロレス技の使い手として)育っていることは、凛にとって何よりの救いだった。
「ルヴィアのヤツは底意地が悪くて腹立たしいけど……桜のことだけは、本当に大切に妹として扱ってくれてる。……ロンドンに着いたら、まずはあの子の顔を見に行ってあげないとね。……べ、別に、寂しかったわけじゃないけどさ」
凛が、誰もいない部屋で一人、ツンデレの極みのような独り言を呟いた、その時だった。
「――呼ッ!!」
ズドォォォォンッ!!
突如、遠坂邸の一階から、家屋の土台そのものを揺るがすような、凄まじい踏み込みの轟音が響き渡った。
「きゃあっ!? な、なにっ、地震!?」
凛が体勢を崩しかけた直後、自室のドアが静かに開き、一人の初老の紳士が姿を現した。
「……凛よ。荷造りは済んだかな。宇宙の真理(タオ)は常に流転している。出発の刻限を遅らせることは、武術家の……いや、魔術師の恥辱と知れ」
三つ揃えの最高級のスーツを完璧に着こなし、優雅な髭を蓄えた男。
しかし、その男――遠坂家当主であり、凛の父親である遠坂時臣は、なぜか両足を深く沈み込ませた『馬歩(八極拳の基本姿勢)』の構えをとり、両手でゆったりと太極図を描くような謎の動作を繰り返していた。
「お、お父様……。その、家の中で『震脚』を踏むのはやめてって、いつも言ってるじゃないですか……っ。床板が抜けます!」
凛は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
第四次聖杯戦争が起きなかったこの世界線において、生き延びた遠坂時臣。彼は魔術の探求を続ける中で、何をどう間違えたのか『魔術と東洋武術の融合による、宇宙との同一化』という完全に明後日の方向へと突き進んでしまっていたのだ。
今や彼は、時計塔の魔術師でありながら、中国拳法の奥義を極め、自ら新しい武術の開祖(グランドマスター)を名乗るという、奇行の極みのような状態に陥っている。
「ふっ。我が娘ながら未熟だな、凛。床板ごときを気にしていては、根源には至れん。……それはさておき、だ」
時臣はゆったりとした動作で構えを解き(その動きだけで周囲の空気が渦を巻いた)、懐から分厚い封筒を取り出して凛へと差し出した。
「お前が向かうロンドンの時計塔……そして、エーデルフェルトの別邸について。我が遠坂の諜報網(および拳法家ネットワーク)が、極めて不可解な情報をもたらしてな」
「不可解な情報? ルヴィアたちがどうかしたの?」
凛が封筒を受け取り、中の書類に目を通す。
そこには、ここ数日のロンドンにおける魔力動向と、エーデルフェルト家の資金の動き、そして現代魔術科(ライネス)の不自然な隠蔽工作の記録が記されていた。
「……何これ。エーデルフェルトが、ロンドン郊外に巨大な結界工房(別荘)を急造してる? しかも、青崎青子と結託して特許を申請……? あのルヴィアが、他の魔術師と組むなんて……」
凛の顔つきが、徐々に険しい魔術師のものへと変わっていく。
「それだけではない。最も不可解なのは……桜の魔力波形だ」
時臣が、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「桜の……?」
凛は書類の最後のページ、ロンドンに滞在する桜の魔術波形の観測データに目を落とした。
その瞬間、凛の背筋に、ゾクッとするような、未知の悪寒――いや、ひどく甘く、火傷しそうなほどの『熱』が走った。
(な、なに……このデータ……!?)
紙に記録された魔力波形の波を視覚化しただけで、凛の魔術回路が異常な反応を示したのだ。
それは、かつての桜が持っていた、静かで透き通るような波形ではなかった。
圧倒的な、規格外の密度を持った『別の魔力(オスの熱)』に完全に上書きされ、それに寄り添うように、ドロドロに溶け合い、甘く脈打っている波形。
魔術師の契約や洗脳などではない。これは、一人の女が、心の底から一人の男に依存し、骨の髄まで愛され尽くして、ただ快楽と幸福に溺れている状態を示す、究極に『淫らな波形』だった。
「……っ!! あ、あつ……っ」
凛は思わず書類を落としそうになり、顔を真っ赤にして呼吸を乱した。
データを見ただけで、自身の身体の奥、子宮の最も深い部分が、共鳴するように甘く疼いたのだ。
「分かったか、凛。……桜の魔力は、完全に正体不明の強大な存在(おそらく英霊クラス)に『呑み込まれて』いる。しかも、抵抗の痕跡はゼロだ」
時臣が、再び静かに拳を握り込み、気を練りながら言った。
「恐らく、ルヴィアゼリッタも、蒼崎青子も、そして現代魔術科の次期当主(ライネス)も……すべて、その『中心にいる男』の熱に当てられ、理性を失い、巨大な巣(ハーレム)を形成していると推測される」
「は、ハーレム……ッ!? あの、桜が……!? ルヴィアや、蒼崎青子が……一人の男に……ッ!?」
凛の明晰な頭脳が、その信じられない事態を理解するのを拒絶しかけた。
あんなにも誇り高く、他者に屈することなどあり得ない女たちが、雁首揃えて一人の男に骨抜きにされている?
しかも、自分の大切な妹である桜までが、あんな……見ただけで腰が抜けそうになるほど、甘くトロトロの波形になるまで、夜な夜なめちゃくちゃに愛されているというのか。
「……あの、馬鹿ルヴィア……ッ!!」
凛の青い瞳に、怒りの炎と、そして自分でも自覚のない『未知の熱への強烈な好奇心』がメラメラと燃え上がった。
「桜を、どこの馬の骨ともわからない男の毒牙にかけるなんて……っ! 絶対に許さない! 私がロンドンに乗り込んで、そのふざけた愛の巣ごと、全部叩き潰してやるんだから……ッ!」
凛はトランクケースを乱暴に引っ掴み、赤いコートを翻した。
「行くぞ、凛。……宇宙の真理(タオ)は、常に汝と共にある」
時臣が、最後になぜか見事な片足立ちの構え(金鶏独立)を決めて見送る。
「お父様はもう黙ってて!! あああもう、頭が痛い!! 待ってなさいよロンドン!!」
凛は時臣の奇行を完全に無視し、顔を茹でタコのように真っ赤にしながら、冬木の屋敷を文字通り嵐のように飛び出していった。
妹を救うという大義名分。そして、時計塔の常識を覆す異常事態の解明。
しかし、彼女はまだ微塵も気づいていなかった。
遠隔のデータを見ただけで身体の奥を疼かせてしまった自分が、あのアストルフォという圧倒的な熱の塊と、完全に理性を手放して彼を愛するヒロインたち(共犯者たち)の『底なし沼』の前に直面した時。
どれほど脆く、そして誰よりも深く、その熱に溶かされていくことになるのかを――。