fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドン、ヒースロー空港。
どんよりと垂れ込めた分厚い灰色の雲と、肌を刺すような冷たい霧雨。それが、遠坂家次期当主・遠坂凛を出迎えた最初の景色だった。
「……相変わらず、陰気な街ね。冬木の気候が恋しくなるわ」
凛は赤いコートの襟を立て、大きなトランクケースを片手に、予約してあった黒いロンドンタクシーへと乗り込んだ。
向かう先は、時計塔のあるブルームズベリー地区から少し離れた、閑静な住宅街にあるフラット(アパートメント)。ルヴィアのような無駄に巨大な洋館を借りる趣味はない。魔術師の工房として最低限の防衛結界が張れ、かつ敵対派閥(今回はエーデルフェルト)に悟られにくい、実用性重視の隠れ家だ。
タクシーの車窓から流れる古いレンガ造りの街並みを眺めながら、凛の脳裏には、出発前に冬木で見た『あのデータ』が何度もフラッシュバックしていた。
(桜の魔力波形……。あんな、ドロドロに溶けきったような、だらしなくて甘い波形……っ)
思い出すだけで、彼女自身の魔術回路が微かに熱を持ち、下腹部の奥がツンと疼く。
エーデルフェルトの誇り高き令嬢として育てられたはずの妹が、一人の男に心も身体も完全に明け渡し、極上の快楽に溺れきっている証拠。
「お父様は『宇宙の真理(タオ)』とか言って誤魔化してたけど……あの馬鹿ルヴィア! 妹の管理もまともにできないなんて、どういうことよ! 私が直々に乗り込んで、そのふざけた『愛の巣』の主ごと、木っ端微塵に粉砕してやるんだから……ッ!」
凛はタクシーの中で一人、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
***
数時間後。
フラットに荷物を放り込み、最低限の探知結界を張り終えた凛は、休む間もなくロンドンの街へと飛び出していた。
目的は二つ。一つは、時計塔へ赴き、法政科のロード・エルメロイⅡ世から直接状況を問いただすこと。そしてもう一つは、ルヴィアたちが潜伏しているという郊外の別邸の『敵情視察』だ。
「まずは、その別邸の周辺を探って……ん?」
時計塔へ向かう道すがら、石畳の広場を通り抜けようとした凛の足が、ふと止まった。
冷たい霧雨が降るロンドンの街角。行き交う人々が皆、黒や灰色のコートで身を縮めている中で、ただ一人、あり得ないほど周囲から浮いている存在がいたからだ。
「……なによ、あいつ。こんな寒空の下で、随分と軽装じゃない」
視線の先には、桜色の髪を三つ編みにした、中性的な顔立ちの青年がいた。
彼は両手に、紙袋いっぱいの焼き菓子や花束(おそらく誰かへのプレゼントだろう)を抱え、ニコニコと底抜けに明るい笑顔を浮かべながら、広場の鳩にパン屑を投げていた。
魔術師ではない。しかし、一般人でもない。
凛の極めて優秀な魔術回路が、彼から発せられる『異常なまでの魔力密度』を微かに感じ取っていた。
(……サーヴァント? いや、こんな白昼堂々と、しかもあんな阿呆みたいな顔で鳩と遊んでる英霊なんているわけ……)
凛が怪訝な顔で彼を観察しようと、数歩前に踏み出した、その時だった。
「きゃっ!」
広場の濡れた石畳に足を取られ、ヒールが滑った。
バランスを崩し、冷たい地面へと投げ出されそうになる凛。魔術で姿勢を制御しようとしたが、長旅の疲労のせいか、一瞬反応が遅れた。
――しかし、転倒の衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「おっと! 危ない危ない!」
「え……っ?」
どんっ、と。
凛の身体は、冷たい石畳ではなく、途方もなく温かい、がっしりとした『何かの壁』に受け止められていた。
「大丈夫? 怪我してない?」
頭上から降ってきた、陽気で甘い声。
見上げると、そこには先ほどまで数メートル先にいたはずの、あの桜色の髪の青年がいた。彼は片手に荷物を抱えたまま、もう片方の腕で、凛の細い腰をしっかりと、かつひどく優しく抱き留めていたのだ。
「な……っ」
凛は言葉を失った。
彼がどうやって一瞬で距離を詰めたのか、そんな魔術的な考察は、次の瞬間に彼女の脳髄から完全に吹き飛んでしまったからだ。
――熱い。
ロンドンの冷たい霧雨に濡れていたはずの彼女の身体に、彼のがっしりとした腕と胸板から、火傷しそうなほどの『圧倒的な体温』が直接流れ込んでくる。
そして、鼻腔を容赦なく犯してくる、むせ返るような薔薇の香りと、濃密なオスのフェロモン。
(……っ!? なに、この熱……っ、この匂い……っ!!)
視線が、至近距離で交差する。
彼のアメジストのような紫の瞳が、凛を真っ直ぐに見つめ下ろしていた。
その瞳には、一切の打算も、邪念もない。ただ純粋に、「目の前で転びそうになった女の子を助けた」という、底抜けの優しさと、強烈な『肯定』の光だけが満ちていた。
「キミ、すっごく綺麗な赤いコート着てるね! 黒い髪もツヤツヤしてて、すっごく可愛い! ロンドンの街にはあんまりいないタイプのお姫様だ!」
「ひゃっ……!? は、お姫様……っ!?」
唐突な、一切の衒いのない誉め言葉。
冬木で「完璧な優等生」の仮面を被り、誰にも甘えることなく生きてきた凛にとって、そんな風にストレートに(しかも至近距離で抱きしめられながら)容姿を褒められることなど、人生で一度もなかった。
ドクンッ!! と。
凛の心臓が、恐怖とは全く別の理由で激しく跳ねた。
彼女の身体の奥深く、子宮の底に、冬木で見たあの『桜のドロドロの波形』と同じ、甘く熱い火種がポッと灯ったのを、彼女自身が明確に感じ取ってしまったのだ。
(だ、だめ……っ! なによ、この男……触られているだけで、足の力が、抜けて……っ)
「あ、あの……っ! 離しなさいよっ! 私は、一人で立てるわ!」
凛は顔を茹でタコのように真っ赤にしながら、彼のがっしりとした胸板をドンッと押し返した。
しかし、彼の腕は微動だにせず、むしろ「危ないから、しっかり立ってね!」と、さらに凛の腰をぐっと引き寄せたのだ。
「んんっ……!!」
素肌に直接触れられているわけではない。コート越しの接触のはずなのに、彼の指先の熱が、服の繊維を貫通して直接神経を撫で回してくるような、異常な感覚。
「ボクはアストルフォ! キミの名前は?」
アストルフォが、極上の笑顔で首を傾げる。
「ア、アストルフォ……? 私は……っ、と、遠坂よ。遠坂凛……っ! もう、本当に離してってば!!」
凛はついに強引に身をよじって彼の腕から逃れると、真っ赤な顔のまま、彼から数歩距離を取った。
「トオサカ・リン! リンかあ、すっごくいい名前だね! リン、これからどこ行くの? ボク、ここら辺の道、けっこう詳しいから案内してあげるよ!」
全く気にした様子のないアストルフォが、人懐っこい犬のように身を乗り出してくる。
(……な、なんなのよこの男……っ。魔力量は異常だし、熱も匂いもおかしいし……でも、なんだか……すごく、安心するっていうか……)
凛の直感は、彼が極めて危険な存在(理性を溶かすという意味で)であると警鐘を鳴らしていた。しかし同時に、彼女の『女』としての本能が、あの圧倒的な熱と腕の中に、もう一度飛び込みたいと甘く疼いてしまっている。
「け、結構よっ! 私は時計塔に急ぎの用があるの! 貴方みたいな、チャラチャラした……ピンク髪のお節介男に構ってる暇なんてないわ!」
凛は精一杯の強がり(ツンデレ)をぶつけると、逃げるように踵を返し、足早にその場を立ち去った。
「あーあ、行っちゃった。でも、リン、すっごく可愛かったなぁ。……ん? トオサカ、リン……? どっかで聞いたことあるような……まあいっか!」
アストルフォは首を傾げた後、再び陽気に鳩にパン屑を投げ始めた。
***
「はぁっ……はぁっ……っ」
時計塔、現代魔術科。
ロード・エルメロイⅡ世の執務室の前に辿り着いた凛は、壁に手をつき、荒い息を吐いていた。
ここまで走ってきたせいだけではない。あの広場で出会った男の体温と甘い匂いが、いつまで経っても自分の身体から抜けないのだ。
(くそっ……! ロンドンに着いて早々、変な男にペースを乱されるなんて……! 私としたことが……っ)
凛は両手で自らの熱い頬をバシッと叩き、気合を入れ直すと、執務室の重厚なドアを勢いよく開け放った。
「ロード・エルメロイⅡ世!! 遠坂凛、ただいま到着しました! ……って、どうしたのよその顔」
凛が声を張り上げた視線の先。
そこには、執務デスクに突っ伏し、傍らに胃薬の空き瓶の山を築いて、完全に死んだ魚のような目をしている時計塔の君主(ロード)の姿があった。
「……遅いぞ、遠坂。冬木で何をしていた……いや、もういい。どうせお前の父親(時臣)が、また訳のわからない拳法の修行に巻き込んでいたのだろう」
Ⅱ世は幽鬼のような声で呟き、のろのろと上体を起こした。
「そ、それは言わない約束でしょ。……それより、単刀直入に聞くわ。ルヴィアと、私の妹の桜はどこ? エーデルフェルトが郊外に得体の知れない結界工房を築いて、法政科までもがそれを黙認しているって聞いたわよ」
凛がズカズカとデスクに歩み寄り、両手をついて身を乗り出す。
「おまけに、桜の魔力波形が異常だった。何らかの強大な英霊か魔術師に、精神も肉体も完全に支配されているような……! いったい、このロンドンで何が起きているの!」
凛の悲痛な、しかし怒りに満ちた問いかけに。
Ⅱ世は深々と、これまでの人生で最も重い溜息を吐き出した。
「……支配、か。それは半分正解で、半分間違っているな。彼女たちは支配されているのではない。自ら進んで、その男の毒沼に全身まで浸かりに行っているのだ。……ルヴィアゼリッタも、桜も、バゼットも……そして、私の義妹(ライネス)までもがな」
「は……? ライネスまで? そんな馬鹿な。彼女たちが一人の男に、自分から……?」
凛は耳を疑った。
「ああ。その男は、圧倒的な物理の強さと、常識を完全に無視した無限の肯定感、そして……魔術師の理性を根こそぎ焼き尽くす、異常な『熱』を持っている。彼女たちは、その男が構築した甘い檻の中で、一切の誇りを捨てて、夜な夜な完全に骨抜きにされているというわけだ」
「な……ななな……っ」
凛の顔が、怒りと羞恥で真っ赤に染まった。
「あり得ないわ! その男、いったい何者なのよ! どこにいるの!? 私が今すぐそこに行って、跡形もなく焼き払ってやるわ!!」
激昂する凛。
しかし、彼女の脳裏に、ふと先ほどの広場での出来事が過ぎった。
(異常な熱……? 無限の肯定感……? まさか……)
凛は、ごくりと唾を飲み込み、震える声で尋ねた。
「ね、ねえ。その男って……もしかして、ピンク色の髪を三つ編みにしてて……頭のネジが外れたみたいにヘラヘラ笑ってて……鳩に餌をやるのが似合うような、信じられないくらい熱い体温を持った男……だったり、しないわよね?」
その言葉を聞いた瞬間。
Ⅱ世の動きが、ピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、心底憐れむような、そして絶望しきった瞳で凛を見つめ返した。
「……なんだ、遠坂。お前、もう接触したのか」
「え……?」
「それが、すべての元凶だ。時計塔の魔術師たちの理性を溶かし、世界最高の女たちを全員ただの恋するメスに変えてしまった、絶対的な特異点。……『シャルルマーニュ十二勇士が一人、アストルフォ』だよ」
「……っ!!」
Ⅱ世の口から告げられた、残酷すぎる真実(オチ)。
凛は、先ほど彼に抱きしめられた腰の感触と、あの火傷しそうなほどの熱、そして自分自身の身体が甘く疼いてしまった事実を思い出し、そのままフラフラと後退りして、壁にズルズルと崩れ落ちた。
「嘘、でしょ……。私が……あの妹をたぶらかした憎き敵に……一瞬で、助けられて、顔を真っ赤にして、逃げ帰ってきたっていうの……っ!?」
完璧な遠坂の令嬢としてのプライドが、音を立てて崩れ去っていく。
同時に、あの圧倒的な熱と匂いが、彼女の脳髄の奥で「もう一度、あそこへ帰りたい」と、強烈な依存のフラグを立ててしまっていた。
ロンドンに降り立った「赤い悪魔」。
しかし彼女は、戦いを始める前からすでに、アストルフォという極上の底なし沼に片足を突っ込み、その理性を溶かされるカウントダウンを無自覚に開始してしまっていたのだった――