※この作品はR-18です。

fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ   作:鰻天ぷら

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遠坂凛編⑦

ロンドンの空を覆う、重く冷たい灰色の雲。

魔術協会の総本山たる時計塔の廊下には、今日も冷徹な緊張感と、魔術師たちの陰謀の匂いが立ち込めていた。

 

カツン、カツン、と。

大理石の床を叩く、凛としたヒールの音が響き渡る。

 

「……遠坂だ。極東のセカンドオーナーが、いよいよ時計塔に合流したらしいぞ」

「エーデルフェルトの別邸に単身で乗り込んだと聞いたが……無傷で帰還したのか。流石は『赤い悪魔』だな」

 

廊下ですれ違う魔術師たちが、畏怖と好奇の視線を向ける中、遠坂凛は一切の隙を見せない完璧な笑みを浮かべて歩を進めていた。

赤いコートを羽織り、背筋をピンと伸ばし、黒髪を揺らして歩くその姿は、冬木で「完璧な優等生」として振る舞っていた頃と何一つ変わらない。むしろ、魔術師としての格と威厳は以前よりも増しているようにすら見えた。

 

周囲の学生や講師たちは、その圧倒的なオーラに道を譲り、彼女が「敵対派閥の罠を単独で突破し、見事に時計塔へ凱旋した」のだと完全に信じ込んでいた。

 

しかし。

 

(……っ、あ……っ。歩くたびに、下着が擦れて……っ、腰の奥が、じんじんして……っ)

 

完璧な鉄面皮の下で、遠坂凛の思考は、全く別の、ひどく甘く淫らな熱によってドロドロに溶かされていた。

 

昨夜、エーデルフェルト邸の温室で、そしてその後リビングと巨大なベッドで、彼女が『彼』から何を与えられ、自分がどんな声を上げて鳴いたのか。

思い出すだけで、彼女の身体の最も奥深い場所――魔術回路の根源が、カッと熱を持ち、彼を求めてトクトクと甘い疼きを上げてしまう。

 

(あんなの、反則じゃない……っ。私の冷え切った心を、あんな、太陽みたいな熱で……あんなに、何回も、何回も……っ)

 

凛は、コートの下に隠されたタートルネックの襟元を、悟られないように微かに引き上げた。

雪のように白かったはずの首筋や鎖骨、胸元から太ももに至るまで、彼女の素肌には、アストルフォが執拗に刻み込んだ真っ赤な『所有印(キスマーク)』が、隙間もないほどに咲き乱れている。

 

彼のがっしりとした胸板の感触。耳元で「凛、大好きだよ」と囁かれた時の、脳髄が白く焼き切れるような快感。

誇り高き遠坂の令嬢は、たった数日で、彼なしでは生きていけないほどに完全に骨抜きにされ、骨の髄まで『アストルフォの女』へと作り変えられてしまっていた。

 

だが、彼女は魔術師だ。

ルヴィアや桜、ライネスたちと「共犯関係」を結んだ以上、時計塔の保守派を欺き、彼らの愛の城(ハーレム)の安全を守るための防波堤として、完璧に立ち回らなければならない。

彼女が今、無理をしてでも時計塔に登校してきたのは、自らが「健在」であることを示し、エーデルフェルトへの余計な詮索を完全に遮断するためだった。

 

「……ふぅ」

 

凛は現代魔術科の執務室の前で立ち止まり、一つ深呼吸をして、限界まで高まっている情欲(熱)を丹田の奥へと押し込めた。

 

ガチャリ、と重厚な扉を開ける。

 

「遠坂凛、ただいま時計塔に合流いたしました。……ロード・エルメロイⅡ世」

 

執務デスクの奥で、山積みの書類(と胃薬)に囲まれていたロード・エルメロイⅡ世が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……遠坂か」

「ええ。先日ご報告いただいた『エーデルフェルトの不審な動き』についてですが、私が直接査察に入り、ルヴィアゼリッタおよび私の妹(桜)と協議を行いました。結果として、あれは彼女たちの個人的な魔術特許の研究施設であり、時計塔の霊脈を脅かすような陰謀の類は一切存在しないことを、遠坂の次期当主として保証いたします」

 

凛は、ライネスたちと綿密に打ち合わせた「完璧な虚偽報告」を、一切の淀みなく、堂々と言い放った。

「はぐれ英霊の洗脳」などという与太話を信じる者は少なく、遠坂という確固たる名門の保証があれば、保守派もおいそれと手出しはできなくなる。

 

「……そうか。ならば、法政科もこれ以上の追求はしないだろう。ご苦労だったな」

 

Ⅱ世は短くそう答え、再び書類に目を落とそうとした。

 

(……よし、完璧。これで、アストルフォも桜たちも、安全に……)

 

凛が密かに安堵し、踵を返そうとした、その時。

 

「待て、遠坂」

 

低く、鋭い声が、凛の背中を呼び止めた。

 

「……何でしょうか、ロード」

 

凛は振り返り、完璧なポーカーフェイスを維持する。

 

Ⅱ世はデスクから立ち上がり、ゆっくりと凛の元へと歩み寄ってきた。

そして、彼女から数歩離れた位置で立ち止まり、その鋭い観察眼で、彼女の全身を上から下まで、じっくりと舐め回すように観察し始めたのだ。

 

「っ……な、なによ。人の顔をジロジロと……」

「……」

 

Ⅱ世の視線は、魔術師としてのそれではなく、数々の「犠牲者(ヒロイン)」を見届けてきた絶望的な保護者のそれだった。

彼は気づいていた。

一見、完璧な遠坂の令嬢に見える彼女の、ほんの僅かな『綻び』に。

 

まず、歩き方だ。

極東で武術の真理を極めようとする父親(時臣)の影響か、彼女の歩法は本来、重心のブレない完璧なものだったはずだ。しかし今の彼女は、太ももの内側や腰の奥に『ひどく甘い疲労』を抱え込んでいるように、ほんの数ミリだが、歩幅が擦れるように狭くなっている。

 

次に、視線。

以前の彼女の瞳には、常に気を張ったような鋭い闘気が宿っていた。だが今の彼女の青い瞳の奥には、無理に押し隠そうとしても隠しきれない、水気を帯びた『蕩けるような女の艶』が、マグマのように燻っている。

 

そして、決定的なのは――『匂い』だ。

ロンドンの冷たい雨の匂いでも、彼女自身が好む上品な香水の匂いでもない。

彼女のコートの襟元、髪の毛の先から、むせ返るような薔薇の香りと、あの規格外の騎士(アストルフォ)特有の、魔術師の理性を直接溶かす『オスのフェロモン』が、濃厚に漂ってきているのだ。

 

(……終わったな。あの『赤い悪魔』すらも、たった一晩で……)

 

Ⅱ世は、確信した。

彼女は敵地を制圧してきたのではない。自らその甘い毒沼の最も深い場所まで沈み込み、骨の髄までしゃぶり尽くされ、喜んで向こう側(ハーレム)の手駒に成り下がって帰ってきたのだと。

 

「……遠坂」

 

Ⅱ世は、深く、深く、胃を押さえながら溜息を吐いた。

 

「はい」

「……お前のその、タートルネックの襟。……もう少し、上まで引き上げておけ。端から、赤い痕が微かに見えているぞ」

 

「……ッ!!」

 

凛の肩が、ビクンッ!と大きく跳ねた。

彼女は慌てて首元を手で押さえ、顔を爆発しそうなほど真っ赤に染め上げた。

完璧だった優等生の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

 

「あ、あ、あの……っ! これは、その……! 虫に、そう、ロンドンの変な虫に刺されただけで……っ!」

「……そうか。随分と激しく、何度も刺してくる『執拗で熱い虫』だったようだな。……それと、お前の中から溢れ出しているその甘ったるい匂い、時計塔の連中には魔術でごまかせても、私の鼻は誤魔化せんぞ」

 

Ⅱ世のトドメの一撃に、凛はもう言い訳すらできず、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。

 

「うぅぅ……っ。わ、私の……私のバカ……っ。完璧に、隠せてたはずなのに……っ」

 

時計塔の誰もが恐れた令嬢が、今はただ、愛する男に激しく抱かれた痕跡を指摘されて、羞恥と情欲で頭から湯気を上げるだけの、隙だらけの『ただの女の子』になり果てていた。

 

「……もういい。お前が向こう(義妹たち)の味方についたのなら、もはや私に止められる道理はない。……せいぜい、夜の生活で魔力を搾り取られすぎて、時計塔の講義に遅刻しないことだな」

 

Ⅱ世は背を向け、胃薬の瓶を手に取りながら、完全に疲労困憊した声で告げた。

 

「……っ。言われなくても……わかってるわよっ。私は、絶対に手綱を握って……あいつを、私のペースに……っ」

 

しゃがみ込んだまま、顔を真っ赤にしてツンデレの極みのような負け惜しみを呟く凛。

 

しかし、彼女自身が一番よくわかっていた。

今夜、エーデルフェルト邸に帰り、アストルフォのあの笑顔と熱い腕の中に迎えられた瞬間、自分の手綱など一瞬で溶け去り、また彼にすがって、あの甘い声で啼かされてしまうことを。

 

時計塔における「遠坂凛の無事」のアピールは、ある意味で完璧に成功した。

しかし、彼女が完全に『アストルフォの所有物』に成り下がっている事実だけは、この苦労人の君主にだけ、深く、絶望的に刻み込まれたのだった。

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