fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
地中海に面した、南欧のどこかにある名もなき港町。
潮の香りと、照りつける強い陽射し。石畳の路地には陽気な人々の喧騒が響き、海風が色鮮やかな洗濯物を揺らしている。
その海沿いにある古びたオープンテラスのカフェで、一人の女性が気怠げに冷えたビールグラスを傾けていた。
艶やかな長い栗色の髪に、どこまでも深い青を湛えた瞳。シンプルな白いシャツにジーンズというラフな装いだが、彼女の周囲だけが、まるで世界の法則から切り離されているかのような、異質で圧倒的な存在感を放っている。
足元には、使い込まれた年季の入ったトランクが一つ。
蒼崎青子。
世界に五人しか存在しない『魔法使い』の一人であり、気の向くままに世界をさすらう根無し草。
「……はぁ。どこの魔術協会(連中)も、似たような馬鹿ばっかりね」
青子はグラスの結露を指で弾きながら、一人ごちた。
先ほどまで、彼女の『第五魔法』に目をつけた面倒な魔術師の追手どもを、路地裏で文字通り「蹴散らして」きたばかりだった。息一つ乱れてはいないが、終わりのない放浪と、常に何者かに狙われる日常に、ふと拭い去れない疲労感が肩にのしかかることがある。
「魔法使いなんて、なるもんじゃないわね、全く」
誰に言うでもなくぼやき、残りのビールを煽ろうとした、その時だった。
――ゴォォォォォンッ!!
突如として、太陽の光を遮る巨大な影がテラス席のすぐ横の広場に舞い降りた。
巻き起こる突風。パラソルがひっくり返り、周囲の客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、青子だけは眉一つ動かさず、ただ静かにグラスをテーブルに置いた。
「……今度は、どこのどいつ? 派手な登場じゃないの」
土埃が晴れた先に見えたのは、鷲の上半身と馬の下半身を持つ巨大な幻獣。そして、その背に跨る、場違いなほどに美しい桜色の髪をした騎士だった。
「わわっ! ごめんごめん、ヒポグリフ! ちょっと急降下しすぎたね! あーあ、みんな驚いて逃げちゃった……」
頭を掻きながら幻獣から飛び降りたのは、アストルフォだった。
彼は周囲の惨状(ひっくり返ったテーブルや椅子)を見て「あちゃー」という顔をした後、唯一逃げずに席に座ったまま、自分をジッと睨みつけている青子の存在に気がついた。
「あ、ごめんね! キミ、怪我はない? びっくりさせちゃったよね!」
一切の警戒心も敵意もない、底抜けに明るい声。
青子は目を細めた。彼女の魔術眼は、目の前にいる存在が人間ではなく、膨大な魔力によって編まれた上位の神秘――『英霊(サーヴァント)』であることを即座に見抜いていた。
「……野良の英霊? 冗談でしょ。聖杯戦争でもないのに、マスターも連れずにこんな真昼間から堂々と受肉して歩き回ってるなんて。あんた、何者?」
「えっ? ああ、ボクはアストルフォ! ライダーのクラスだよ! キミ、魔術師なんだね。なんか、すっごく強そうな気配がする!」
アストルフォは青子の険しい視線など全く意に介さず、ズカズカと彼女のテーブルに近づき、勝手に空いていた向かいの椅子に腰を下ろした。
「勝手に座らないでくれる? あんたのそのデカい鳥馬のせいで、私の静かな休憩時間が台無しになったんだけど」
「鳥馬じゃないよ、ヒポグリフ! 幻獣なんだから! ……それにしてもキミ、すっごく綺麗な青い目をしてるね。まるで、どこまでも続く空みたいだ」
「はぁ?」
青子は思わず毒気を抜かれたように息を吐いた。
普通、魔術世界に生きる者が蒼崎青子を前にすれば、その圧倒的な力に畏怖するか、あるいは野心をむき出しにして襲いかかってくるかのどちらかだ。しかし、目の前の桜色の騎士は、青子から発せられる危険な魔力(プレッシャー)を完全に無視し、ただ「綺麗な目だ」と、純度百パーセントの好意で笑いかけてきたのだ。
「あんた……頭のネジ、何本か飛んでるんじゃないの?」
「よく言われる! ボク、『理性蒸発』しちゃってるからね!」
「……あっそ。で、その理性のない英霊様が、こんなところで何をしてるわけ? 世界征服の準備?」
青子が皮肉たっぷりに尋ねると、アストルフォはテーブルに身を乗り出し、満面の笑みで答えた。
「ううん! 観光!!」
「…………は?」
「ボクね、ちょっと前に大きな戦いがあってさ。色々あって現界し続けられるようになったから、今はヒポグリフと一緒に世界中を見て回ってるんだ! 風の吹くまま、気の向くままにね!」
英霊が、観光。
そのあまりにも規格外で、常識外れな答えに、青子は数秒間ポカンとし……やがて、堪えきれなくなったように肩を揺らして笑い出した。
「ふふっ……あははははっ! 何それ、あんた最高ね! 過去の英雄のくせに、マスターも放ったらかしで世界旅行!? あははっ、お腹痛い……っ!」
「えへへ、笑ってくれた! キミ、笑った顔の方がずっと綺麗だよ!」
「っ……調子のいいこと言うじゃない、あんた」
青子は目元に浮かんだ涙を拭いながら、アストルフォを改めてまじまじと見つめた。
狂い咲くような明るさと、一切の裏表がない真っ直ぐな瞳。彼には、魔術師特有の泥ぐさい執着も、英霊としての重苦しい使命感も存在しない。
「あんた、本当に自由なのね」
青子の口から、ふとそんな言葉がこぼれ落ちた。
それは、魔法使いという巨大な運命を背負い、どれだけ世界をさすらっても本当の意味での『自由』を得られない彼女自身の、微かな羨望が混じった本音だったかもしれない。
その微細な声色の変化を、アストルフォの野生の勘(直感)は見逃さなかった。
彼はテーブルの上に置かれていた青子の手に、自分の手をふわりと重ねた。
「……!」
「キミは、自由じゃないの?」
突然のスキンシップ。
普段の青子なら、魔力の一撃で相手を十メートルは吹き飛ばしているところだ。しかし、彼女は手を振り払うことができなかった。
アストルフォの手から伝わってくるのは、いやらしい下心でも、魔術的な探りでもない。ただ純粋な、彼女という存在の「深淵」に触れようとする、無垢な熱だった。
「……私はね、こういう星の下に生まれついちゃったから。世界中どこに行っても、面倒ごとの方が私を追いかけてくるのよ。あんたみたいに、ただ景色を楽しんで飛んでいられるような、気楽な身分じゃないの」
自嘲するように目を伏せた青子。
その横顔は、最強の魔法使いとしての威厳よりも、果てのない旅路に疲れた、一人の女性の脆さを微かに覗かせていた。
アストルフォは、重ねた青子の手を、きゅっと優しく握り込んだ。
「ねえ、キミの名前、教えてよ」
「……蒼崎青子」
「青子! そっか、だから青いんだね!」
アストルフォはさらに身を乗り出した。地中海の強い日差しに照らされた彼の顔が、青子のすぐ目の前まで迫る。
彼から漂う、花のように甘く、それでいてどこか猛禽類のような野生味を帯びた香りが、青子の鼻腔をくすぐった。
「青子。キミがどれだけ重たい荷物を背負ってるのか、ボクにはわかんない。魔術のこととか、難しい理屈は全部苦手だからね」
アストルフォの声のトーンが、先ほどまでの無邪気な少年から、突如として低い『オス』の響きを帯びた。
真っ直ぐに見つめてくる紫水晶の瞳に、青子は不覚にも心臓がドクン、と大きく跳ねるのを感じた。
「でも、ボクにはわかるよ。キミのその綺麗な青い目が、本当はもっと色んな楽しいことを見たいって、叫んでるってこと」
「……あんた、ねぇ。初対面の女に向かって、随分と踏み込んでくるじゃない」
青子は強がって口角を上げたが、顔が微かに熱を帯び始めているのを自覚していた。
誰も、蒼崎青子にこんな風に真正面から踏み込んではこない。皆、彼女の『肩書き』を見る。けれど、この奇妙な英霊は、肩書きなど一切無視して、青子という一人の女の『孤独』のど真ん中に、土足で、けれど信じられないほど優しく踏み込んできたのだ。
「ボクはライダーだからね。キミが重たい荷物で立ち止まりそうになってるなら、ボクが一緒に背負って、空まで連れて行ってあげる。……ボクと一緒に、世界中を『観光』してみない?」
アストルフォの顔がさらに近づき、彼から吐き出された熱い吐息が、青子の唇を微かに掠めた。
唇と唇が触れ合うまで、あと数センチ。
真昼のオープンテラス。周囲にはまだ遠巻きに様子を伺う人々の目があるというのに、青子の周囲の空気だけが、じっとりと濃密な熱を孕み始めていた。
「……ふふっ。馬鹿ね。魔法使いをナンパするなんて、世界中探してもあんたくらいなもんよ、アストルフォ」
「えへへ。で、返事は?」
二人の視線が、至近距離で火花を散らすように絡み合う。
孤独な旅を続ける最強の魔法使いと、自由を愛する天真爛漫な騎士。
交わるはずのなかった二つの軌跡が、南欧の太陽の下で、今、甘く危険な化学反応を起こし始めていた――。