fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
極東の地、冬木市。
季節は晩秋を迎え、山間部から吹き下ろす風は肌を刺すような冷たさを帯びていた。
しかし、数台の黒塗りのハイヤーが連なって到着した冬木市郊外の深い森の奥――アインツベルンの古城のエントランスは、かつてないほどの熱気と喧騒に包まれていた。
「……うわぁ。相変わらず、無駄に大きくて陰気なお城ね。冬木の霊脈の要所とはいえ、これじゃあ冷えピタを貼って生活してるようなものじゃない」
遠坂凛が、真っ赤なコートの襟を立てながら、見上げるような石造りの城壁に呆れた溜息をついた。
「文句を言わないの、遠坂。ただで貸してもらえる別荘としては最高級ですわよ。……もっとも、内装の趣味はわたくしたちエーデルフェルトの洋館には遠く及びませんけれど」
ルヴィアゼリッタが、豪奢なファーコートを揺らしながらオーッホッホと笑う。
その傍らで、アイリスフィールは懐かしさなど微塵も感じさせない、ただの「過去の遺物」を見るような穏やかな瞳で城を見上げていた。
「ええ。ここは感情を持たない人形たちが、ただ魔術の探求のためだけに作られた冷たい牢獄でした。……ですが」
アイリスフィールの視線の先。
「わあーっ! すっごくおっきいお城! 雪が降ったら絶対に綺麗だね! ほら、桜も見てみて!」
両手にトランクケースを軽々と持ち上げ、無邪気に城門の周りを駆け回っている桜色の騎士の姿があった。
彼が動くたびに、冬木の冷たい空気がそこだけ陽だまりのように温かくなり、むせ返るような薔薇の香りが森の匂いを上書きしていく。
「ふふっ。はい、アストルフォさん。……本当に、立派なお城ですね」
桜は、アストルフォの隣に並び、彼から発せられる熱に身をすり寄せるようにして微笑んだ。
彼女にとって、この冬木は「生まれ故郷」であるはずなのに、遠くフィンランドで育った彼女の記憶にはほんのわずかしか残っていない。見知らぬ異国の景色に等しかった。だが、隣にこの絶対的な太陽がいるだけで、どんな場所でも最高の愛の巣に変わることを、彼女は痛いほど知っていた。
「さあ、お喋りは後! 中に入って、まずは大掃除よ! いくら魔術結界が張ってあるとはいえ、長年放置されてたんだから埃だらけに決まってるわ!」
冬木の管理者としてのスイッチが入った凛の号令で、ヒロインたち(と、最強の労働力であるアストルフォ)の城内清掃が始まった。
***
アインツベルン城、メインホール。
「ああっ、アストルフォ様! そこのシャンデリアは私たちが拭きますから! 貴方はお休みになっていてください!」
エプロン姿に着替えたセラが、長い柄のついたモップを握りしめながら慌てて叫ぶ。
「平気平気! ボク、高いところ得意だもん!」
アストルフォは、大きな脚立の最上段に軽々と立ち、鼻歌交じりに巨大なクリスタルガラスを磨いていた。
「ちょっと、あんた危ないわよ! もし落ちでもしたら……きゃっ!」
下で脚立を押さえていた凛が、上を見上げた拍子にバランスを崩し、ツルリと滑る大理石の床で足を取られた。
「おっと! 危ない!」
パサッ、と。
上から落ちてきたというよりは、まるで重力を無視したような滑らかな動きで、アストルフォが凛の背後に着地した。
そのまま、彼のがっしりとした両腕が、後ろから凛の細い腰をすっぽりと包み込むように抱き留めた。
「ひゃうっ……!」
凛の肩が、ビクンと大きく跳ねる。
背中から直接伝わってくる、火傷しそうなほどの体温。大掃除で少し汗ばんだ彼の身体から放たれる、むせ返るようなオスのフェロモンが、城の冷たい空気と混ざり合い、凛の鼻腔を容赦なく犯していく。
「凛、大丈夫? 怪我してない?」
頭のすぐ上から、彼の甘い声が降ってくる。
「あ……、うん……っ。平気、だから……っ」
凛は慌てて離れようとしたが、腰に回された腕の力は、優しく、けれど絶対に逃げられないほどの強さで彼女をホールドしていた。
彼の顔が、凛の首筋のすぐ横へと沈み込む。
「……んっ……」
彼の熱い吐息が、凛のうなじの産毛を直接撫でた。
ただそれだけの接触。唐突なスキンシップなどではない。けれど、至近距離で交差する体温と、彼の呼吸のペースが、凛の魔術回路の芯を直接ドロドロに溶かし始めていた。
「凛、お掃除いっぱい頑張ってくれてありがとう。……でも、無理しないでね。凛が怪我したら、ボク、すっごく悲しいから」
「アストルフォ……っ」
凛の青い瞳が、一瞬にして情欲で甘く濁る。
彼の言葉の奥にある、底なしの愛情と肯定感。それに触れるたび、遠坂の当主としての張り詰めた糸がちぎれ、ただ彼にすべてを委ねたいという『女』の本能が子宮の奥底でトクトクと脈打ってしまうのだ。
「……ずるい、わよ……っ。こんなところで、そんな甘い声……っ。みんな、見てるのに……っ」
凛は顔を真っ赤にしながら、自ら彼の広い胸板に背中を深く預け、その熱にすがりつくように息を吐き出した。
「あらあら。お掃除の途中ですのに、随分と熱心なことで」
少し離れた場所で窓を拭いていたルヴィアが、呆れたように、しかしひどく艶めかしい笑みを向ける。
アイリスフィールや青子たちも、その光景を横目で見ながら、自らの身体の奥に燻る甘い疼きを持て余すように、小さく息を漏らしていた。
冷たく無機質だったアインツベルンの城は、彼らが足を踏み入れたその瞬間から、逃げ場のない濃厚な愛とフェロモンの香りで満たされ、極上の『熱帯』へと完全に作り変えられていたのだった。
***
数時間後。
城の清掃が一段落し、一行は夕食の準備に取り掛かることになった。
「よし、お城はピッカピカになったね! 次はご飯だ! 冬木の街に買い出しに行こう!」
アストルフォの提案で、冬木の地理に明るい凛と、日本をほとんど知らない桜、そして荷物持ち(という名のエスコート役)としてアストルフォの三人が、冬木市の中心街(新都)へと向かうことになった。
(もちろん、他のヒロインたちは「抜け駆けは許しませんわよ」と釘を刺しつつ、長旅の疲れを癒やすために城のお風呂へ向かっている)。
冬木市、新都の大型スーパーマーケット。
夕方の買い物客で賑わう店内は、日常の活気に溢れていた。
「へえー! 日本のスーパーってすっごく品揃えがいいね! 見たことないお魚や、お野菜がいっぱいだ!」
アストルフォは、カートを押しながら、目を輝かせて陳列棚を覗き込んでいる。
「これだけの人数分の食料となると、相当な量になるわね。……桜、あんた、日本の食材とかわかる?」
凛が、少しだけ気を遣うように隣を歩く妹に尋ねた。
「いえ……。エーデルフェルトの館では、専属のシェフが洋食を用意してくれていましたから。こういう庶民的な……いえ、日本の市場に来るのは、おそらく生まれて初めてですね…」
桜は、少しだけ居心地が悪そうに、自分の黒髪をいじった。
生まれ故郷でありながら、完全なアウェー。周囲の日本語の喧騒も、彼女にとっては異国情緒すら感じさせるものだった。
その、微かな不安を帯びた桜の様子を、アストルフォは見逃さなかった。
「桜!」
「ひゃっ……!」
野菜コーナーの影。一般客の視線が届かない死角に入った瞬間、アストルフォの大きな手が、桜の白い手をきゅっと握りしめた。
スーパーの空調で少し冷えていた桜の指先に、彼の火傷しそうなほどの圧倒的な体温が直接流れ込んでくる。
「ア、アストルフォ、さん……っ。街中、ですよ……っ」
桜は顔を赤くして周囲を見回すが、アストルフォはニコニコと笑いながら、恋人繋ぎにした彼女の手を自らのコートのポケットの中へと引き入れた。
「だって、桜の手、少し冷たかったから。……フユキの街、桜のお姉ちゃんがいっぱい守ってきた場所なんでしょ? 一緒に、ゆっくり見て回ろうね」
「あ……っ」
視線が、至近距離で深く絡み合う。
スーパー特有の無機質な蛍光灯の下だというのに、彼の紫の瞳に見つめられた瞬間、桜の周囲だけが、むせ返るような甘い熱と、彼だけが放つ強烈なオスの匂いに包み込まれた。
ポケットの中で絡み合う指先。彼の太い指が、桜の繊細な手のひらをゆっくりと、愛撫するように撫で回す。
「あぁっ……っ。アストルフォさんの、熱……っ。ポケットの中で、そんなに指を……動かされたら……っ」
桜の呼吸が、急速に荒く、熱を帯びたものに変わる。
日常の風景の中で、自分たちだけが極限の情欲を共有しているという背徳感。それが、桜のエーデルフェルト令嬢としての理性をドロドロに溶かし、ただ彼を求める淫らな雌としての本能を強烈に刺激していた。
「……ちょっと、あんたたち。ネギを選ぶだけで何フェロモン撒き散らしてるのよ」
少し離れた豆腐コーナーから戻ってきた凛が、真っ赤な顔で二人を睨みつけた。
「凛もこっちおいでよ! ボクのもう片方のポケット、空いてるよ!」
「バッ……! 日本のスーパーでそんなことしたら、絶対に誰かに見られるでしょ! 万が一、知り合いにでも会ったらどうするのよ!」
凛が小声で抗議した、まさにその直後だった。
「あれぇ? その真っ赤なコートと、黒髪のツインテール……。もしかして、遠坂さん!?」
「げっ……!?」
凛の背中が、氷を当てられたように強張った。
振り返った先、精肉コーナーの前に立っていたのは、虎柄のシャツを着た、竹刀袋を背負った女性――冬木の特異点こと、藤村大河その人だった。
「やっぱり遠坂さんじゃない! ロンドンに留学してるって聞いてたけど、帰ってきてたの!? ……って、そっちのピンク髪のすっごいイケメンの外国人と、黒髪の超絶美人さんは誰!? ま、まさか、遠坂さんの彼氏!?」
藤村大河の遠慮のない大声が、スーパーの通路に響き渡る。
「ち、違うわよ藤村先生! これは、その、時計塔の……ただの、知り合いで……っ!」
凛が必死に誤魔化そうとするが、彼女の顔の赤さと、アストルフォのポケットから桜の手が繋がれたまま出てきたのを見て、藤村の目がキラーンと光った。
「やあやあ! ボクはアストルフォ! 凛と桜の彼氏だよ! 冬木の街、すっごくいいところだね!」
アストルフォは、凛の弁解など完全に無視して、屈託のない極上の笑顔で爆弾発言を投下した。
「か、彼氏ぃぃぃっ!? しかも、二人まとめて!? 遠坂さん、ロンドンでそんな破廉恥なことになってたのォォッ!?」
「ああもうっ! 違う、違わないけどっ……! あんたは余計なこと言わないのっ!」
パニックに陥る凛と、目を回す藤村。
そして、その光景を見て、桜はクスリと、どこまでも艶やかに、そして幸福そうに笑い声を漏らした。
「ふふっ……。お姉ちゃん、本当にこの街の皆さんに愛されてるんですね。……アストルフォさん、私、この街のこと、少し好きになれそう……」
冬木の日常に、突突として舞い降りた規格外の熱と愛情の嵐。
それは、凛が守ってきた平穏な街の景色を、さらに甘く、賑やかなものへと塗り替えていく最高のスパイスだった。
***
その日の夜。
アインツベルン城の、かつては魔術の儀式にしか使われなかった冷たい巨大なダイニングホールは、圧倒的な熱気と、極上の料理の匂いに包まれていた。
「さあさあ、お待たせいたしました! 日本の冬と言えば、やっぱり『すき焼き』ですわよね!」
ルヴィアとバゼットが、湯気を上げる巨大な鉄鍋をいくつもテーブルに並べる。
「ふふっ、お肉は最高級の和牛をたっぷり買い込みましたから。皆様、遠慮なく召し上がってくださいね」
桜が、手際よく卵を溶きながら、ヒロインたちに小鉢を配っていく。
「わあーっ! すっごくいい匂い! お肉がキラキラしてる!」
アストルフォは、目を輝かせながら箸を握りしめていた。
「ほら、うちの騎士殿。一番美味しいところをよそってあげるから、口開けなさい」
青子が、大きな肉を一枚、アストルフォの口へと運ぶ。
「あーん! ……んんっ! すっごく柔らかくて、甘くて美味しい!」
「ず、ずるいですわ蒼崎先生! 次はわたくしが……っ!」
「いいえ、私があの方に……っ」
広大なテーブルを囲む、世界最高峰の美女たち(と、彼にすっかり懐いている幼き令嬢)。
かつては他者を蹴落とすことしか知らなかった冷徹な魔術師やホムンクルスたちが、今やただ一人の男を中心に、笑顔で鍋をつつき合い、彼の口に料理を運ぶ権利を巡って和気藹々と(そしてひどく色っぽく)争っている。
一方、まだ十一歳のオルガマリーは、大人の情欲の渦には加わらず、大好きなお兄ちゃんにすき焼きを取り分けてもらって、子供らしく幸せそうに頬張っていた。
「……本当に、信じられない光景ね」
凛は、少し離れた席でその様子を見つめながら、小さくグラスを揺らした。
「そうですか? 私は、これが世界で一番正しい景色のように思えますけれど」
隣に座ったアイリスフィールが、グラスを合わせながら微笑む。
「あの方がいるだけで、この氷の城が、こんなにも温かくて、甘い匂いに満ちた『お家』になったのですから。……私、今なら、あの冷たかったアインツベルンの歴史さえも、許せるような気がしますわ」
アイリスフィールの赤い瞳は、アストルフォを見つめる情欲と、家族への果てしない愛に満ちていた。
「……そうね。私も、悪くないと思ってるわ。この、狂ったみたいに幸せな時間が、ずっと続けばいいって」
夕食後、満腹になったアストルフォが、ソファーでリーゼリットとセラを両腕に抱えたまま微睡み始める。
それを見た凛や桜、ルヴィアたちも、次々と彼のもとへと集まり、その圧倒的な熱と甘い匂いに包まれるようにして、折り重なるように身を寄せ合った。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く、アインツベルンの夜。
冬木の霊脈の頂点に立つ冷たい城は、今夜、彼らが織りなす極限まで濃密で、むせ返るような愛の熱量によって、世界で最も甘く、幸せな場所として完全に生まれ変わったのだった――。