羽根を開く夜に、はじめてを。〜ひきこもりになった幼馴染を支え続けたら、二年参りの夜に関係が変わった話〜 作:若菜はかり
あの千鶴がひきこもりになっている。
そんな話を耳にしたのは大学四年の春、就職活動のため帰省したときのことだった。
久しぶりに中学時代の旧友たちと会い、酒を飲んだ。昔話に花が咲き、あのころの面々が今どうしているのかを伝え聞く。
まさかそこで彼女の近況を知ることになるとは、まったく思いもよらなかった。
「お、おい待て。それって本当か」
「ああ。というか、なんでお前が知らないんだよ。幼馴染だったんだろ?」
友人は意外そうな顔をした。それに対し、こちらは曖昧に頷くことしかできない。
たしかに俺――野口健斗と上川千鶴は物心ついたころからの付き合いである。家も近所同士で、昔から何かとよく一緒にいた。
ただこの数年間、互いに別の高校に進んでからはまったくの没交渉だった。今もこうして驚いているくらいで、幼馴染なのは事実だとしても大きな顔はできやしない。
「それで原因はなんだったんだ? まさか、イジメ?」
事の発端は千鶴が突然学校に来なくなったことだという。話を聞き、真っ先に浮かんだのがその可能性だった。
しかし、
(あいつに限って、そんなはずがない)
積み重ねてきた経験が即座に否定する。
実際、彼女と同じ高校だった友人も「んなわけあるか」とあっさり否定した。
「イジメられるどころか、大体のクラスメイトと仲良かったぞ。中学と変わらず部活も頑張ってたし。中退なんてことになって、みんな残念がってたくらいなんだから」
「じゃあ、どうして」
俺の追及に、彼は肩をすくめる。
「さあ。俺も詳しくは知らないが、朝起きられなくなる病気とは聞いた。起立性……なんていったか、そんな名前だったような」
なるほど、病気か。
それならある程度は納得できる。
無論まだ疑問は尽きなかったが、宴もたけなわだ。楽しんでいる友人たちの手前、それ以上の質問を重ねることはできなかった。
そしてその晩、俺は夢を見た。
『へぇ。私の身長を越したら好きな子に告白する、ねぇ……それって願掛けか何か?』
俺の向かいの席には少女がひとり。頬杖を突いて、興味深そうに目を細めていた。
十四、五歳ごろの千鶴だ。
一体、どんな話の流れだっただろうか。
ただ場所はおそらく、実家の近くにあるファミレスで間違いなかった。
『別に。ただ、背の低い男だと恋愛の対象として見られないんじゃないかと思って』
『そうかな。でも、健ちゃん。もうクラスの女子のほとんどより身長あるでしょ。どうしてそこで私が基準になるの?』
『いや、それは……』
俺は言葉に詰まった。
――どう答えればいい?
迷いながら向かいの様子を窺うが、千鶴は相変わらず俺をじっと見つめたままだ。
『……多分、少しくらいじゃダメなんだ。その点、千鶴は女子でも一番背が高いだろ。越えれば男として格好がつく』
『ふ~ん。私にはよくわかんないな』
俺の苦しい言い訳に千鶴は首をひねった。
そうして手元のドリンクを一口含み、思いついたようにニヤリと口角を上げる。
『じゃあ、これからも頑張らないとね。聞く限りだとその人も結構身長あるみたいだし、早くしないと成長期終わっちゃうよ?』
千鶴は楽しそうに笑いながら、テーブルの上の呼び出しボタンを押した。
遠くの方でチャイムが鳴る。
それは段々と大きくなり、やがて耳馴染んだ携帯のアラーム音へと変わっていった。
「なんだ、夢か……」
目覚めた俺は若干二日酔いの身体に鞭打って、会社説明会へ向かう準備を整えた。
出発間際、玄関まで見送りに出てくれた母にそれとなく尋ねてみる。
「あのさ、母さん」
「うん?」
「千鶴のやつ、最近どうしてるか知ってる?」
返事はすぐになかった。
しばらくして、母は小さく息を吐く。
その反応だけで十分だった。
「やっぱりそうか。母さんはいつ?」
「結構前ね。何度か言おうとしたんだけど、あの子のことだし、あんたには知られたくないんじゃないかと思って」
革靴を履きながら母の釈明を背中に聞く。
胸の奥でかすかに滲んだ迷い。
それを無理矢理振り切るように、俺は「いってきます」と言って家を出た。
うららかな日差しの下を歩く。
近頃は四季も名ばかりとなってきたから、こんなにも心地いい春の陽気は貴重だ。
だが、俺の心はちっとも晴れなかった。思い浮かぶのはいつか見た千鶴の横顔ばかり。
あいつは今どうしているのだろう。
こうして季節が移ろいでいることを、ちゃんと感じられているのか。
赤信号に立ち止まり、俺はスマホを手に取った。今日は帰宅が遅くなるかもしれないと母にメッセージを送る。
そうしてようやく、俺は自分の中で踏ん切りがついたような気になった。
***
予定を済ませ、最寄り駅まで帰り着くころには日が傾き始めていた。
実家へと向かう道すがら、既視感のある制服姿を何度も見かけるようになる。
そういえば近くにある母校もそろそろ下校時間だったはず。そう思ううちに、自然とかつての記憶が脳裏に蘇ってきた。
『はぁ~。三年間なんて、終わってみれば案外あっという間だったね』
中学の卒業式、その前日。
二人並んで帰り道を歩いていると、千鶴が感慨深そうにそう言った。
『そりゃあ、千鶴は充実してたからな。満ち足りてると時間は短く感じるもんさ』
『えぇ~。何、その言い方』
不満そうに唇を尖らせた千鶴が視界の端に映る。
当時の彼女は、成長期が遅かった俺よりもまだいくらか背が高かった。
『そういう健ちゃんだって頑張ってたじゃん。ほら、最後の大会。念願のレギュラーにも選ばれてたし』
『はっ、あんなのはお情けだよ。元々出るはずだった後輩が怪我したのもある』
『けど、運も実力の内だって』
『その実力が抜群なヤツに言われちまうと、慰めにもならないんだが』
『ああ、もう』
捻くれた根性のまま、のらりくらり。
聞いていて不愉快だっただろう。だが千鶴は怒りもせず、困ったように眉を下げるだけ。
そんな姿にほんの少しだけ罪悪感が湧く。
『……高校』
『うん?』
『いや、その……高校行っても、お前はバレーボール続けるんだよなって』
『そりゃあね。おかげで推薦が通ったんだし、当然』
弱小野球部でもがいていた誰かさんとは違い、千鶴は我が校の絶対的エースだった。
進学先も当然のように強豪校。
そんな相手に愚問もいいところだ。
ただそれは承知の上で、彼女が新天地に飛び立つ前に言っておきたいことがあった。
『もう耳にタコができるくらい言われたとは思うけど……が、頑張れよ』
『おお?』
意外そうな反応が返ってくるが、あえて無視して続ける。
『練習も厳しいだろうし、なにより寮生活になるんだろ? 今までと全然違って大変だと思う。けど――』
『何? もしかして心配してくれてる?』
『え、いや、違っ……!』
『あ、照れた』
にんまりとした笑みとともに顔を覗き込まれ、頬がかあっと熱くなる。
とっさにそっぽを向いたが後の祭り。
くすくすと可笑しそうな笑い声に、思春期のプライドがゴリゴリと削られる音がした。
『ふふっ。でも、ありがとう。そうやって苦労するところまで考えてくれるの、家族以外じゃ健ちゃんくらいだよ』
俺がおずおずと視線を戻すと、彼女の方も些か照れ臭そうにはにかんでいた。
そのまま会話が数秒途切れる。
『――健ちゃんも、頑張れ』
涼やかな千鶴の声が耳朶を撫でた。
『やりたいことがわからないってボヤいてたけどさ。私と違って勉強もできるんだし、きっと大丈夫。すぐに見つかるよ』
『そうかな』
『そうだよ。だから、夢ができたら教えて。私も健ちゃんを応援したい』
制服のスカートを翻し、千鶴は俺の前に立った。
何の屈託もない、真心からの言葉。
同い年なのにあまりに眩しい。俺は直視できないながらも、辛うじて首を縦に振った。
『……おう。わかった』
『本当だよ。嘘つかないでね。約束』
そうして俺たちは指切りをした。
驚くほどに細くて、少し冷たい指先。
気づけば思った以上の近さで見つめ合っていて、心臓が大きく飛び跳ねる。
長い睫毛。くりっとした焦げ茶色の瞳。
スポーツ少女らしいショートカットで、まだあどけなさの残る面立ちではある。
だが、俺は知っていた。彼女がこの一年で急に女っぽくなり、他の男子どもから良くない目で見られるようになった事実を。
当の本人はもちろん気づいていなかっただろう。その証拠に、俺に向かって小首を傾げる姿はあまりにも無防備だった。
『あっ、そうだ。あとは告白がどうなったかの報告もね。くれぐれもお忘れなく』
『うるさいな。余計なお世話だ』
結んだ指を解いてしまえば、俺たちはまた元通り。からかうような千鶴の目つきに、負けじと不愛想に言い返す。
こんな風に時折一緒になる帰り道が、成長しても変わらぬ二人の接点だった。
それもこの日が最後。とはいえ、その気になればいつでも会えると軽く考えていた。
まさか翌日から今日に至るまで、一度たりとも顔を合わせなくなるなんて。
(それがこんなきっかけで会いに来ることになるとはな。わかんないもんだ)
たとえ久方ぶりだとしても、足はきちんと通い慣れた道筋を覚えていた。
見えてきた家の雰囲気も昔のまま。何もかもが懐かしく感じられる。
「あとはあいつが顔を見せてくれるといいが」
俺は一抹の不安を抱えつつ、インターホンに手を伸ばした。
***
結果から言えば、俺は千鶴に会えなかった。
しかし、完全な門前払いというわけでもない。彼女の母親が在宅で、急な訪問に驚きながらも家にあげてくれたのだ。
リビングでお茶をいただきながら、できるだけ詳しい経緯を聞いた。
起立性調整障害という病気のこと。
通信制に編入して卒業はしたものの、体調が安定せず就職が決まらなかったこと。
そのうち自室にひきこもるようになったのも、対人恐怖を併発したからだという。
正直に言って、どれも俺の知っている千鶴からは想像もつかない話だった。と同時に、俺が訪れたことを知った彼女がどんな反応を示すのか、嫌でもわかってしまう。
(これじゃ多分、会ってくれないだろうな)
暗い予感がしながらも、俺は一縷の望みにかけて頭を下げた。
「……ごめんなさい。あの子、やっぱり無理みたい」
二階へ取り次ぎに行ってくれた母親は、すぐに戻ってきた。
答えはやはり予想通り。
俺は礼を言い、席を立つ。
決して無理強いはしない。ただ気持ちの変化を信じ、連絡先を記したメモを預けた。
家を出た直後、振り返ると二階の窓のカーテンがわずかに揺れたような気がした。
記憶違いでなければ、そこは彼女の部屋。
後ろ髪を引かれる心地で家路に就く。
その晩も、翌日も、連絡はなかった。
そして、帰省最後の夜。
ほとんど諦めていた風呂上がりに、スマートフォンが通知音を鳴らした。
『久しぶり。こないだはごめん』
『一度話してみたい。健ちゃんさえよければ』
たったそれだけのメッセージ。
俺は慌てて部屋を出て、階段を駆け下りた。
「父さん、今夜ちょっと車借りる!」
そうして半ばひったくるようにキーを受け取り、「暗いから気をつけろよ」という注意も聞き流して父の愛車に飛び乗る。
出発の直前、
『せっかくだし、ドライブにでも行こう』
と、メッセージを送った。
返事を待つ余裕もなく、車を走らせた。
決して飛ばしたわけではなかったが、千鶴の家にはものの二、三分で着いた。
到着したと伝えて待つ。
五分が経ち、一〇分が経った。
やがて二〇分が過ぎようかというころ、玄関ドアが開き、人影が姿を見せた。
千鶴だった。
髪が腰あたりまで伸びていて、おずおずと俯き加減なのは彼女らしくなかった。
けれども、間違いない。
「よお、久しぶり」
車を降りて声をかける。
すると、千鶴の肩はびくりと跳ねた。
揺れた前髪の間から青白い顔が覗き、一度合った視線もすぐに逸らされてしまう。
まるで怯えきった小動物のよう。後ずさる彼女との距離はますます開いていく一方だ。
そんな様子を玄関の奥から千鶴の両親が見守っていた。何か言いたそうにしていたが、目で合図をして待ってもらう。
返事があったのは、その直後。
「……ひ、久しぶり。健ちゃん」
蚊の鳴くような声だった。
らしくない。やっぱり、そう思う。
それでも昔のままに呼んでくれたことは素直に嬉しかった。
「行こうぜ」
一歩進み出て、千鶴を改めて誘う。
今度はあまり時間を置くことなく、彼女は頷いてくれた。
***
落ち着いて話せる場所を探すうち、辿り着いたのは郊外の道の駅だった。
駐車場の片隅、オレンジ色の街灯の下に車を滑り込ませる。
道中の千鶴は一切口を利かなかった。
俺もまた同じ。彼女の方から切り出すまで、無理に話すつもりはない。
「……ご、ごめんね。ずっと言わなくて」
すっかり春とはいえ、夜はまだ冷える。
自販機で買ってきたホットココアを手渡すと、千鶴はやっと口を開いてくれた。
「謝んなよ。こっちこそ悪い。ついこないだまで気にもしてなくて。どうせ元気にやってるもんだと、勝手に思い込んでた」
「うん、ごめん……」
「だから謝んなって」
弱々しく謝罪を繰り返す千鶴に、俺はシートにもたれて気楽なポーズをとってみせた。
しかし内心、愕然としたのは事実だ。
昔から控えめではあったものの、決して卑屈ではなかった。そんな彼女が、どうしてここまで変わってしまったのか。
俺にはとても想像できなかった。
だから、つい余計なことまで聞いてしまう。
「いきなり会いに来て、迷惑だっただろ」
「そ、そんなこと……ないよ、全然」
別に千鶴を困らせたかったわけじゃない。
なのに口にしてしまったのは、彼女の今の状況が自分の手に負えるのか、少なからず不安になり始めていたからだろう。
そうしてまた二人とも黙り込む。
その空隙を埋めるようにカーステレオから流れる音楽に、ふと千鶴が顔を上げた。
「……この曲、懐かしい」
「ああ。これ、父さんの車だからな。昔のCDをこうやってかけっぱなしにしてるんだ」
まだ小学校にも上がらなかったころ、父は俺たちをよく遊びに連れていってくれた。
そのとき車内でよく流れていたのが、この今では二昔も前のヒットソング。
繊細でありつつも力強い。
その女性歌手の歌声に身を預けるように、千鶴は未開封のココア缶を胸に抱く。
「……何年か会わないうちに健ちゃんはすっかり大人になっちゃったね。背も伸びたし、こうやって車の運転もできるようになった」
「外面はな。でも、中身はいうほど成長しちゃいねえよ」
「そう? そうやって言えちゃうところなんか、もう既に大人だよ。それにひきかえ、私はずっと子どものまま……」
カシュリ、という音が歌声に溶けた。
ココアを一口飲み、呻くように千鶴は呟く。
「他の人はみんな前に進んでるのにね。私だけは部屋にこもったまま、何もできてない。もう体調もだいぶ良くなって、人並みにできるはずなのに。本当、バカみたい」
「千鶴……」
足元を虚ろに見つめる千鶴の横顔は怖いくらいに無表情だった。悲しんでいるようで、憤ってもいるような。うまく読み取れない。
そうして、じきに気づく。
彼女は半ば、自分を諦めているのだと。
「まだ何とかなるって」
「そうかな……」
「そうだよ」
我ながら無責任な言い方だとは思った。
けれど、千鶴はこうして俺と会ってくれたのだ。その一点の事実に賭けてみたい。
わずかに上がった彼女の目線。そこに割り込むように身を乗り出して、俺は続ける。
「千鶴だって本当は何とかしたいと思ってるんじゃないのか? だから俺に連絡をくれた。無視することだってできたのに、わざわざ。……それって結構、勇気も必要だったよな」
ぎこちない速度で千鶴はこちらを向いた。
俺を映し出した焦げ茶の瞳がじわりと潤み、たちまち雫が目尻に浮かぶ。
「この数年間、お前がどんな気持ちで過ごしてきたのか、正直全部はわからない。でも多分、すごく苦しかったとは思うんだ。じゃなきゃ、今そんな顔してるはずがないだろ?」
「……う、うん」
千鶴が小さく頷く。
その拍子に涙が零れ、シートに染み込んだ。一滴では収まらず、何滴も落ちていく。
「千鶴は真面目で根性あるし、きっと何とかしようって頑張ったんだよな。これでも幼馴染なんだから、そのくらいわかる」
「うっ、うう……ん、あぁ……っ」
千鶴はもう顔を上げていられなくなっていた。何度も何度もしゃくりあげ、上着の両袖で涙をしきりに拭う。
小さく震える肩は今にも崩れ落ちてしまいそう。それを支えるように両手を添えると、俺はほとんど無意識に彼女を抱き寄せた。
「お疲れさん、千鶴。よく頑張った。だからもういいんだ。誰かに頼りたいのなら、俺を頼れ。できる限り力になってやる」
「け、けど……いいの? 私は……」
「遠慮すんな。俺とお前の仲だろ?」
「あぁ、健ちゃん……う、うぅ……っ」
腕の中でとうとう泣き崩れた幼馴染は、縋るように俺にしがみついてきた。
嗚咽の中、幾度も繰り返す。
助けて、と。
俺はその願いに応えてやりたいと思った。
***
それからのおよそ半年間は、実に目まぐるしく日々が過ぎていった。
就職活動に卒業論文の執筆と、大学最後の一年はただでさえ忙しい。そこに幼馴染のサポートまで加われば、時間がいくらあっても足りないのは自明のことだ。
経過も決して順調とは言えなかった。
かつてバリバリの体育会系だった千鶴は、数年のひきこもり生活ですっかり打たれ弱くなっていた。少し意見がぶつかるだけで数日連絡が途絶えるのはざらだったし、気持ちの浮き沈みにも時折振り回された。
さらに思わぬ壁となったのが、彼女の両親だった。
俺は千鶴の問題が心理面にもあると考え、専門家に診てもらうよう彼らに勧めた。だがなかなか了承してもらえず、やっとカウンセラーと繋がったと思ったら、今度は千鶴との相性が最悪。ちょうど就活が不調続きだったのもあり、これはもう終わったとさえ思った。
そんな行き詰まりの中で、思いがけないところから状況は動く。
きっかけは心理学科の教授に相談を持ちかけたことだ。たまたま俺の地元に教え子が勤める病院があると教えてもらい、千鶴を転院させる運びとなった。
結果的にはこれが功を奏した。
次の担当者はひきこもり当事者に理解があり、とても親身になってくれたのだ。のみならず、行政の支援事業にも繋げてもらえた。
助けの手は身内からも差し伸べられた。
「千鶴ちゃん。うちで良ければ、試しに住み込みで働いてみない?」
そう言ってくれたのは、地元の隣町で事業を営む千鶴の叔母。どうやら以前から姪っ子のことを気にかけていたらしい。
俺は素直に嬉しかった。現実的な出口がようやく見えた気がしたからだ。
ただ、肝心の千鶴本人が尻込みしていた。
無理もないだろう。血縁者が面倒を見てくれるとはいえ、今まで働くどころか、まともに外にも出られなかったのだから。
それでも最終的に、彼女は挑戦することを選んでくれた。
通院によって精神的に前向きになったおかげでもある。あるいは両親に付き添われて外出するようになり、少しずつ体力がついてきたのも大きかったはずだ。
そうして数度の職場体験を経て、千鶴の引っ越しと本格的な社会復帰が決まった。
時期は年が明けて間もなく。
いつしか時は過ぎ、嵐のように慌ただしかった一年が間もなく終わろうとしている。
珍しく千鶴の方から連絡があったのは、そんな年の瀬も押し迫ったある日のことだった。
「あ、お疲れ。今って大丈夫?」
「おう。どうした? 何か変わったことか?」
苦戦していた就職も何とか決まり、卒業論文も完成の目途が立った。場合によっては一人きりの年越しも覚悟していたのだが、今年はどうやら無事里帰りできそうである。
そんな折だったので、俺は久しぶりに落ち着いた気分で電話に出ることができた。
気のせいか、千鶴の声は上擦っていた。
少なくとも悪い知らせではないようだ。
「……隣町の神社に二年参りに行きたい?」
「うん。少し距離があるし、健ちゃんに車を出してもらえないかなと思って」
お願いがあると言われたので何かと思えば、拍子抜けするほど簡単な依頼だった。
だが、わからないでもない。
年末年始という時期でもあるし、なにより千鶴は来年から新たな一歩を踏み出すのだ。ご利益のほどはどうあれ、神頼みもしておくに越したことはないだろう。
「わかった。いいぞ。連れて行ってやる」
「本当? ありがとう。……あと、健ちゃんならわかってくれてると思うけど」
「ああ。まだ人が多いところは苦手なんだろ? 大丈夫。気分が悪くなったりしたら、俺が助ける」
「ごめんね、迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃねえよ。むしろ、そうやって自分から外に出ようとしてくれて、こっちとしても嬉しいんだから」
「……うん。ありがと」
俺たちは互いの近況報告をしてから電話を切った。そのままカレンダーアプリを起動し、間近に迫った一月一日に予定を打ち込む。
千鶴とは近年では考えられないほど密に連絡を取り合っていた。ただ、会うのは夏休みに帰省したときが最後。以降も就活のために帰りはしたものの、顔は見ていない。
元気にしているだろうか。
――いや、きっと大丈夫だ。
今では自信を持ってそう思える。
見違えるような彼女に会えるのが、俺は今から待ち遠しくてたまらなかった。
***
「……それで。何がどうしてこうなった」
今からほんの一時間前、年が明けた。
新年あけましておめでとう――なんて、そんな呑気なことを言っている場合ではない。
間接照明のみ灯る薄暗い一室で、俺はキングサイズのベッドに腰かけていた。
まとっているのは肌触りのいい白のバスローブ。それ以外には何も身に着けていない。
室内に仄かにアロマが香り、先ほどから打ちつける雨にも似た水音が続いていた。
それは俺の背後から聞こえる。
千鶴がシャワーを浴びている音だった。
「おまたせ」
水音がやみ、軽い足音とともに彼女が戻ってきた。ベッドを回り込み、俺の隣に座る。
その姿を追う視線の端に、ガラス張りのバスルームが映り込んできた。
使用直後の水滴が、照明を受けて鈍く光る。ずっと見ないようにしていたのに、色濃く残る生々しさが意識を引き戻そうとした。
「ふふっ、見ないようにしてくれたんだ。こういうときでも健ちゃんは紳士だね」
平気そうなふりをして、少し照れが入り混じった声。視線を戻すと、俺と同じバスローブ姿の千鶴が赤らんだ頬を手で仰いでいた。
「じゃあ何だよ、俺に見て欲しかったのか?」
「そういうわけじゃないけど……でも、健ちゃんならいいのかも。どうせこのあと、もっとすごいことだってするんだし」
「……あ、あのなぁ」
自分では嫌味を言ったつもりだったのだが、思ってもみない角度で返される。
今夜はなんだか万事この調子だ。
想定の一歩先を千鶴が踏み越えてくる。
年越し前、家まで迎えに行ったときだって、約四か月ぶりの彼女の姿にまず驚かされた。
流石に体調面も考慮し着物というわけにはいかなかったが、黒のニットに赤のロングスカート、丈長の白いコートという出で立ち。セミロングにまで短くした黒髪とも相まって、すっかり大人の女性という雰囲気だった。
ただ、いつもと違ったのはそれだけではない。今日は人前なのにくっついてくるというか、やけに距離感が近かったのだ。
最初は大勢の人の中に久しぶりに出向くので緊張しているだけだと思った。あるいは年末年始のおめでたい空気に当てられ、いつもより高揚しているのかもしれない、と。
実際懸念した通り、千鶴は人酔いした。
ちょうど参拝を終え、駐車場まで戻る人混みの中。はぐれないようにと掴んでいた俺の手首を、彼女は弱々しく引っ張った。
『……ごめん。ちょっと無理かも』
すっかり青ざめた顔に、慌てて近くの土産物屋に駆け込んだ。事情を話して休ませてもらい、体調が落ち着くのを待つ。
幸い大事には至らなかったものの、長居は諦めてすぐ帰宅することにした。
その道中。
渋滞に引っかかり、じりじりしていると助手席からまた手を引っ張られた。
『気分が悪いのか?』
『……うん』
ちらりと横を見れば、俯く千鶴。
『了解。もうちょっと我慢してくれるか? たしか、この先にコンビニがあったはず……』
『曲がって、そこ』
『へ?』
考えを巡らせていると、意外な指示に素っ頓狂な声が出た。
『休憩できるところ、私知ってるから』
『でも』
『いいから、ね?』
遅まきながら言い訳をさせてもらえば、混雑する夜道での運転にまだ不慣れだったことはある。その上、同行者が体調不良を訴えれば多少は焦りもするものだ。
とはいえ、このときの俺は幼馴染の言葉に疑いもせず従ってしまった。
本来は俺がリードする側だったはずなのに。気がつけば千鶴に流され、押し切られ、いつしかこんな――ラブホテルなんて場所に一緒に足を踏み入れている。
(もしかして、最初からこれが狙いだった、とか……?)
そう勘ぐってしまうほど出来過ぎていた。
しかし、それをなし得る当の本人は肩を縮こまらせ、見るからに緊張している。とても計算づくで企みを仕込めるとは思えない。
「千鶴?」
ベッドの上にあった俺の手に、千鶴のしっとりとした手のひらが重なった。
呼びかけると、身を乗り出した彼女と視線が絡む。潤んだ瞳は常になく熱を帯びていた。
「私ね、健ちゃんにずっと恩返しがしたかったんだ。私のこと、助けてくれたお礼」
訥々と呟きだった。
紡がれる言葉に裏表はない。ただ俺への深い感謝と親愛に満ち溢れていた。
だからこそ、余計にわからなくなる。
今こうして二人、キスでもしてしまいそうなほどの距離にいることが。
いけないとわかっているのに、ぷるんと色づく唇から目が離せなくなっていた。
「……やめてくれ」
絞り出した声はひどく掠れていた。
湧き起こったのは、胸を掻きむしりたくなるほどの切なさとそれに劣らぬ罪悪感。
(俺は一体、今何を期待した?)
こうしてラブホテルに引っ張り込んでまで千鶴がしたかった恩返し。いくら俺でもすっとぼけていられるわけがない。
「もう十分だよ、その気持ちだけで。千鶴が元気になって、もう一度生きる希望を見つけてくれたんだ。それだけで俺は――」
そこまで口走ったところで、俺のカサついた唇はふわりとした何かに包みこまれた。同時に花のように甘く、それでいて馴れ親しんだ匂いが鼻腔に満ちる。
すぐ目の前には、瞼を閉じた幼馴染の顔。
千鶴に唇を奪われたのだ――と。
そこで俺はようやく気がついた。
「……健ちゃん、何か勘違いしてる。私は感謝してる相手だからって、それだけで身体を許すような女じゃないよ」
数秒ほどの口づけの後、鼻頭を突き合わせながら千鶴は囁いた。
吐息が顔にかかる。その温かさに、頭の芯がジンと痺れていく。
「私はあのときの健ちゃんの気持ちに答えてあげたいだけ。今さらなのはわかってるけど、きっと伝えないと後悔しちゃうから」
そう言って抱き着いてきた千鶴は、俺の耳元にそっと顔を寄せる。
「好きだよ、健ちゃん。言えなかったけど、本当は私もずっとずっと好きでした」
「……っ」
その瞬間、脳が震えた。
全身が総毛立った。
この言葉を俺はどれだけ欲しただろう。
幾年月を重ねた想いが成就し、俺の頭の中では盛大にファンファーレが響く。
「……というか、気づいてたのかよ」
「うん?」
「いや、その……俺がお前のこと、好きだったってこと」
気を抜けば頬が緩みそうになる。それを必死に取り繕いながら尋ねると、一瞬目を丸くした千鶴はぷっと軽く吹き出した。
「逆に気づかれてないと思った? 『私の身長を越したら好きな子に告白する』なんて、遠回しな告白としか思えなかったんだけど」
「……まあ、今考えるとそうだけどさ」
当時の俺はきっと今よりもピュアで、少なからず間抜けだったのだと思う。
そうでなければあんなこと言わなかった。
とはいえ、我ながら同情できなくもない。
同世代の女子の中でも一際輝いていた千鶴と、卑小極まりなかった自分自身。
互いを冷静に比較して、せめて身長くらい追い越せば――なんて希望を抱いた。
その言葉が結局は戒めとなり、告白できなかったのではあるけれど。
「それで?」
「え?」
「返事。健ちゃんの気持ちはわかってるけど、まだ言葉で伝えてもらってない」
もう身長だって逆転しちゃったんだし。
そう言った千鶴は期待を込めた眼差しで、今では俺を下から見上げてくる。
その細い肩を俺は自然と抱き寄せていた。
千鶴の柔らかくて温かな抱き心地に、腹の奥底から熱が上がってくる。頭も幸福感でふわふわして、洒落た言葉なんてとても出てきそうになかった。
それでも、伝えなければ。
ただずっと胸の奥に秘めていた素直な思いを、彼女の耳元で俺はそっと打ち明けた。