鳩野チヒロは、水尾ハルイチの胸に抱かれる度に目眩がするほどの幸福感に包まれる。
今日一度目の決着が付き、彼の筋肉質な身体が、暖かく、柔らかく、彼女を包み込む。愛する人の温度に包まれる感覚は、何にも代え難い充実感を与えてくれる。
しかし、そんなとき……そんなときだからこそ、チヒロはひどく怯えてしまうのだ。
「自分が、彼の彼女で、いいのだろうか?」と。
ハルイチがチヒロを疎んでる素振りをしたことなど今まで一度も無いし、これからもそれは変わらないだろうと信じている。
勿体ないほどに……と思ってしまうのも、良くないか。と思いつつも、しかし、生来の性格がチヒロの心にそんな隙間風を吹かせる。
あるいは、一種の甘えなのかも知れない。チヒロは自覚することはないが、もしかしたら。もしかしたら……。
「みず、みずおくん。はるいちくん。好き。大好き」
だから、結ばれた後の幸福の波が収まると、決まってチヒロは彼の胸に埋もれ、そんな言葉を囁く。自らの言葉で、自らの心の中に明かりを灯すように。
字面は甘いが、声はどこか切ない。
――ああ、泣いてしまいそうだ。幸せで、不安で、情けなさで。
「うん。おれも、好きやよ」
それを受け止めるハルイチの言葉は極めてシンプルだ。しかし、そこには紛れもない本心が籠っていることを、チヒロは理解していた。
愛を受け止めてくれた悦び。
愛してくれていると告げられる悦び。
じんわりとした熱が、身体の境界を踏み越えて彼女自身の内側へと広がってゆく。
「好きや、ちひろ」
だが、今日に限ってハルイチはそんな追い討ちを放ってきたうえ、ちょっと苦しいくらいに抱きしめる。
熱の波紋が重なって、乱反射する。
それは改めてチヒロのこころを溶かしてしまうには十分だった。身体の奥のところがギュッと引き締まり、彼の抱擁が緩むと共に頭がフワフワになる。
「じゃあ、その証明が欲しい。です」
チヒロは夢見るように言葉を紡ぐ。
……きっと、明日、彼女はこの甘ったるい戯言に、後悔してのたうち回る。
「痕を、つけて……欲しい」
だがこの瞬間は、見上げた視線が、見下ろした視線と絡み合う。
◇◇◇◇
「あれ? 茂風美(もぶみ)ちゃん、首元に虫刺されあるよ?」
時は数時間巻き戻る。
キャンパスから続くたらたらと長い下り坂を下りながら、チヒロは友人の首筋に赤い斑点を見つけた。
こんな時期に虫が? とチヒロが思った次の瞬間に、その正体に思い至り、指摘された茂風美とチヒロは同時に顔を赤くした。
「そ、そそそそやね! アハハハハハ! あいつ殺す!」
それは紛れもなくキスマークだった。殺意を向けられた彼女の彼氏・模武夫(もぶお)の冥福を祈りながら、察しの悪い自分にチヒロは軽い自己嫌悪に陥る。
輝かしいのか、黒歴史なのか、判断のつかないふつうの高校生活を終え、チヒロは地元の大学へ無事進学を果たしていた。
バンド活動は……まあその話はよしておこう。
ふつう。ふつうだ。
チヒロは、ふつうの大学生活で、二度目のハロウィンシーズンを迎えていた。
「ところで! はとっちはこの後どうするん?」
「ん……ちょっと今日は水尾くんのとこに……」
照れ隠しなのかモブミは話題を急展開させてそう問うと、チヒロはそう恥ずかしそうに返す。
「ほん……ほーん?」
モブミは一転してニヤけた顔になり、ぎょるりとチヒロの顔を覗き込む。どうなってるの関節。こわい。
「なにするん?」
「え、いや、ご飯食べたりサブスク見たり……」
「はとっちご飯とか作るんや」
「や……いつも作ってくれまして……」
「ハ?」
「ヒェ……」
友人の口からダンダダンと放たれる言葉に圧倒され、チヒロは言わなくていいことまで口走る。
「はとっち……カレを逃がさないようにしなね」
それは、言われなくても。と思った。
◇◇◇
しばらく後。
時間は夕飯時を迎え、チヒロは買い物袋を片手にアパートの一室の前に立っていた。
そして、意を決した様子で彼女は扉を開ける。すると、人の気配を含んだ、ふわりと漂う暖気。
「た、ただい……おじゃましまーす」
不意に現れた自意識アニマルに邪魔され、今日も「ただいま」と言えなかったチヒロは妙に卑屈な姿勢で玄関を通った。
「あ、お帰り。夕飯もうすぐできるで」
そして、なんでもないように「お帰り」と言い放ったのは、彼女の彼氏……交際相手的な意味で……でありハルイチだった。
こ、こいつは~~~! と自分の情けなさを彼氏への謎の攻撃性へ変換し……それは照れ隠しだなと自己完結する。
なお「これに気付けるようになったのは成長じゃない?」と先日某女性ギタリストに話したところ、手にしていた雑誌で頭を真上から殴られた。まあまあ本気の威力で。
閑話休題。ハルイチはお兄さんの店を手伝い、すっかり料理が上手くなっていた。当然のようにいつも料理を作るので、チヒロはもはや自分が作ろうとすることを放棄していた。
この先、料理の腕でかなうビジョンが浮かばない。
……あれ?
「今日は鮭のホイル焼きやで」
何かに気付きそうになったと同時に、ハルイチはそう言ってフライパンの蓋を開いた。
更に数時間後。チヒロが持参したアルコールを入れ、二人はほろよい気分でテレビを見ながら寄り添っていた。
お互い最近飲めるようになった上に、さほど強くはないため、甘めで度数の低いものを選んでいた。なんか? 料理に合わせて? お酒を変えるらしい? という都市伝説を聞いたことがあるがチヒロにはよくわからない。
「でな、兄ちゃん、ムニエル試作するときに白ワイン入れたら飛んだアルコールで酔っぱらってもうて」
「本当にお兄さんの店は何料理なの……? なんかこの前はタコス出してなかった?」
なんだかんだ続いているのはすごいのだが。
ハルイチの作った鮭のホイル焼きと近くのパン屋で買ってきた二日目のバゲットの相性は最高で、それを詰め込んだお腹も落ち着いた。
『そこでドン! なんだか世知辛い!』
地上波に切り替えていたテレビから笑い声のSEが響く。
数秒、無言の時が流れる。
この時間がただ気まずい時間じゃ無くなったことが、彼と気持ちを通じ合わせてから一番の収穫だったかもしれない。
「ちひろ」
「うん」
目線を交わして、二人はそういうことになった。
◇◇◇◇
時は戻る。
二人は薄闇の中で向き合っていた。
「恥っず……」
壁を背にしてベッドに座らされ、ゆるく脚を閉じた状態でチヒロはハルイチに向かい合う。
既に全て見せ合ったことがある仲とはいえ、こうしげしげと眺められるような状態は恥ずかしいに決まっている。目も慣れて、割と互いの姿が良く見える。
なお、痕をつけて欲しいと言われたし。と奇妙な真面目さでハルイチは向き合い、そこにはあまり嗜虐の趣は無い。
暖房モードのエアコンが、かたかたと音を立てる。
ハルイチはベッドの下に膝立ちになったままチヒロの脚に手をかけ、まずふくらはぎに顔を寄せた。
塊感のある筋肉は、呼吸ごとにわずかに脈動し、何か別の生き物のように感じられる。
その”さら”な場所に、まずキスを一つ。やんわりとした刺激。
不意なところへの愛撫に、チヒロはじわじわと羞恥を覚える。
そして、そのまま脚を押し開き、ハルイチは股座に身体を割り入れる。
ちょっ、やめ……いや、やめさせないけど。
チヒロは内心焦って一瞬彼を押し留めようとするが、自分の望んだことを実行しようとしているのだと思い直して、止めるのを止めた。
形のいいハルイチの唇がチヒロの真っ白な内腿に触れ、遅れてシャープな痛みが彼女を襲った。
ちう とささやかな音が彼女の耳に届く。様子を窺うように上目遣いでハルイチはチヒロを見る。
な、なんかえっちだな
ちょっとおっさんくさい様子でチヒロはそう思った。
そして吸引が終わり、去り際に舌先で赤みを帯びた凸部をハルイチは一瞬だけ触れた。
「ンっ……」
湿った声がチヒロの喉から漏れる。
二人が密着して生じた暗がりで見えやしないが、その中で患部がじんわりと熱を持っていた。
チヒロはその微妙な質感に、昂ぶりを感じる。
「……もっとやろか」
そして、当然ながら、ハルイチも十分以上に気が昂っていた。
チヒロの鳩尾を舌先で撫で、その下のしなやかな腹筋の根本を探る。最近、うたうたいのために少し鍛えたのだと言う。
そして、ひと刺しするように、キス。
ベッドに這い上がり、逃げみちを塞ぐように背中へ回した腕で、ビクっと弾むチヒロの身体を抑える。
その緊張が緩んだとき、ずっしりと来る感覚がハルイチは好きだった。
次には乳房の付け根を唇でなぞり、鎖骨の下、柔らかな丘の裾に口付けをする。
ここは、ギリで服で隠れるか。
そううっすら考えるチヒロに更にすり寄り、覆いかぶさるような形で首筋に唇を這わす。お互いの呼吸が全部聞こえる距離だ。
「あえ……あ、そこは流石に……目立つから……駄目……」
「バンドエイド貼ればええやん?」
「そこに絆創膏貼るのコレ隠すヒトしかしなくない!?」
そうかもしれない。
そうかもしれないが、
「だから、するんや」
ちひろが、”おれの”だって証しに。
そう言うかのように、仰け反るチヒロの首元にハルイチは口付けをした。
ちゅう と、はっきりと吸引する音がチヒロの耳に響く。それはまるで彼女の欲を咎めるような音に聞こえた。
そして掻き抱く力が増すと、ハルイチの胸板でチヒロの胸が柔らかく潰される。彼女のそれは特別大きいわけではないが、しっかりと存在を主張する程度にはある。女性の象徴であるそこを、ハルイチも嫌いなわけがない。
そして口づけされたところから、鈍い熱が湧き上がり、それは心臓に至って切なく疼く。
ああ、と、喉に詰まったような声をチヒロは上げた。
嬌声。というやつだ。それを、唄わされている。
その事実が、更に彼女に昂りをもたらしていく。
「ううーー……ハルイチくん……好き。大好き」
「おれも、ちひろ、好きや。大好きや」
とろ と、触ってもいないのに秘所から蜜が溢れた。
「ちひろ、えっちやな」
「~~~ッッッ!」
思わずチヒロはハルイチの背中をボカスカ殴る。
「もう一周してええ?」
「え?」
そう言って、ハルイチはチヒロの体の前後ろを反転させた。
明日の朝は、遅くなりそうだ。
おわり