時計塔の石造りの廊下は、常に湿った知識の残り香と、魔術師たちの冷ややかな野心が混ざり合っている。
「――聞いたか? 極東の『根源の皇女』の話」
歩みを止めず、メアリ・レーベンはその声を背中で受けた。
少女という皮を被りながら、その内側では前世から持ち越した異物が、どろりと黒い質量を持って脈動している。
「沙条、だったか。ロードの一人が接触を図ったが、一瞥されただけで自慢の魔術刻印を書き換えられたらしい。呪いでも攻撃でもない。ただ、彼女の歩く道に石ころが転がっていたから、邪魔にならないよう花に変えられた…そんな次元の話だ」
「全知全能、か。吐き気がするな」
魔術師たちの嘲笑混じりの恐怖。
メアリは無表情のまま、資料室の重い扉を引いた。
彼らは何も分かっていない。沙条愛歌という存在が、どれほど残酷なまでに完成されているか。
彼女にとっての世界は、ページを捲るまでもなく結末が記された退屈な絵本に過ぎないということを。
(…愛歌)
その名を脳裏で転がすだけで、メアリの魔術属性【星】が、内側から自身の存在をキリキリと締め上げる。
属性による自己縮退。
外界に一切の情動を漏らさないための、高重力の檻だ。
メアリ・レーベンは、レーベン家三代目の若き当主であり、時計塔でも堅実で無難な星詠みとして通っている。
だが、その仮面の裏側で彼女が抱いているのは、魔術師の探求心などという高尚なものではない。
それは、神にも等しい少女を、自分と同じ泥沼の人間へと引きずり下ろそうとする、冒涜的なまでの執着だ。
(待っていて、愛歌。あなたの王子様は来ない。来るのは、あなたを蹂躙し、あなたをただの女に変える、地獄からの略奪者だけよ)
メアリは手元の羊皮紙に、震える指で「願掛け」の術式を刻んだ。
それは、愛歌を救うための祈りではない。
彼女の全能という特等席を強奪し、その白い首筋に、消えない愛の呪いを刻み込むための宣戦布告だった。
時計塔の冷涼な石造りの廊下で聞いた「根源の皇女」の噂。
それは魔術師たちの間で、畏怖と羨望、そして隠しきれない嫌悪を伴って語られていた。
「沙条愛歌――あの娘は、歩く根源そのものだ」
その言葉が、メアリ・レーベンの「星」の回路を鋭く弾いた。
前世の知識。
画面越しに、文字の羅列として消費していた「推し」の概念。
それが、この世界のどこかに生身の肉体を持って存在している。
(…見に行かなきゃ)
抑えきれない衝動。
メアリは時計塔での地位も研究も放り出し、最小限の荷物と、自身の存在を消し去るための【星】の隠蔽術式だけを携えて、極東の地へ飛んだ。
日本の春は、ロンドンの湿り気を含んだ空気とは違い、どこか浮ついた明るさに満ちていた。
駒沢公園。人混みの中に紛れ、メアリは自身の魔力密度を極限まで「縮退」させていた。
背景に溶け込み、誰の意識にも残らない。
石ころよりも無機質な観測者として、彼女はそこにいた。
そして、その瞬間が訪れる。
「――っ」
視線の先。
陽光に透ける柔らかな髪をなびかせ、一人の少女が歩いていた。
沙条愛歌。
彼女が通るたび、世界が彼女を祝福しているのが見えた。
風は彼女の歩みを妨げず、花は彼女が通り過ぎる瞬間に最も美しく咲き誇り、鳥たちは彼女の頭上で旋律を揃える。
それは魔術ではない。
世界というシステムそのものが、彼女という中心を愛で、守り、跪いているのだ。
(ああ…なんて、残酷なまでに綺麗なの)
メアリの心臓が、痛いほどに跳ねた。
知識として知っていた。
彼女が全能であることも、無垢であることも。
けれど、実際にその「存在の質量」を目の当たりにした瞬間、メアリの内側にあった推しへの憧憬は、ドロリとしたどす黒い独占欲へと変質した。
彼女は、あまりにも完成されすぎている。
誰も彼女に触れられない。
誰も彼女を汚せない。
その完璧な孤独。
その、救いようのない全能。
(…欲しい)
メアリの喉が、乾いた音を立てて鳴った。
愛歌がふと足を止め、空を仰ぐ。
その無防備な首筋。その、まだ誰の体温も知らない白い肌。
あの場所に、私の痕を刻みつけたい。
あの全能の瞳を、屈辱と悦びで濁らせたい。
世界に愛されている彼女から、世界を奪い取り、私だけを見つめるただの人間に変えてしまいたい。
一目惚れ、だった。
それは純粋な恋などではなく、神からその座を簒奪しようとする悪魔の、あるいは獲物を見つけた捕食者の、烈火のごとき執着。
「…待っていて、愛歌」
メアリは、自身の左手を見つめた。
まだ何もないその薬指に、いつか、自分の存在を証明する重力の枷を嵌めてやる。
全能の皇女を、地上の泥沼へと引きずり落とすためのカウントダウンが、その日、静かに始まったのだ。
日本での出会いを後経て、メアリはロンドン郊外にあるレーベン家の隠れ家へと戻った。
そこは、三代目という浅い歴史しか持たない家門が、唯一「星」に近づくために築いた、音も光も届かない地下の底。
儀式の準備は整っている。
床に描かれた術式は、天体を模しているが、その中心は外ではなく内を向いていた。
メアリは衣服を脱ぎ捨て、冷たい石畳の上に横たわった。
十五歳の少女の身体は、魔術師として完成されつつあるが、その本質は「星」そのものだ。
「…属性、星。概念定義、固定」
喉の奥から絞り出す声が、地下室の空気を震わせる。
メイン32本、サブ16本の魔術回路が一斉に励起し、青白い熱を帯びた。
レーベン家の家門魔術【願掛け】が、メアリ自身の存在を標的としてロックする。
「私は私を、無限の点へと圧縮する」
通常の魔術師が「根源」を目指す際、彼らは外宇宙へ、あるいは世界の裏側へと意識を飛ばす。
だが、メアリの戦略は逆だ。
沙条愛歌という全能に見つからず、その力を掠め取るには、世界から消えるしかない。
(縮退を開始…!)
心臓の鼓動が、重力崩壊の前兆のように重く、遅くなる。
【星】の属性が、メアリの肉体と精神の境界を曖昧にし、自身の内側に存在する虚数空間へと沈み込ませていく。
それは、自らをブラックホールへと変える自殺行為に等しい。
「…っ、が…あ…!」
骨が軋み、細胞一つひとつが、数万倍の重力に晒されるような激痛。
失敗すれば、彼女はこのまま自分自身の重さに耐えきれず、時空の裂け目となって消滅するだろう。
だが、その苦痛さえも、愛歌への執着という「願掛け」が燃料に変えていく。
(足りない…もっと、もっと深く。彼女の足元、その根源の底まで潜らなきゃ…!)
意識が遠のく中、メアリは視た。
内側に広がる暗黒の宇宙。その中心に、針の先ほども小さな、しかし目も眩むような光の特異点を。
あれが、沙条愛歌が繋がっている、根源の一部。
メアリの意識は、もはや人間の形を留めていなかった。
それは鋭利な錐(きり)となり、世界という膜を内側から食い破る。
「…捕まえた」
虚空の中で、メアリは笑った。
このまま潜行を続け、愛歌の全能の座に指をかける。
その後で、彼女をこの暗闇の中へと引きずり込み、何もかもを奪い去ってやる。
意識が完全に縮退し、メアリの肉体は地下室から物理的に消失した。
後に残ったのは、彼女が最後に残した執念の残響だけだった。
肉体という枷を脱ぎ捨て、自身の存在を一点へと縮退させたメアリの意識は、常世の理が通用しない、光さえ凍りつく虚無の深淵へと滑り落ちた。
そこは、あらゆる事象の始まりであり、終わりである「根源」。
通常、魔術師がここに触れれば、その矮小な魂は瞬時に情報の大濁流に呑まれ、個としての輪郭を失い霧散する。
だが、メアリには【星】の重力があった。
内側に閉じこもり、他者を受け入れず、ただ一つの執着――「沙条愛歌」という太陽だけを追い求める孤独な引力が、彼女の個を辛うじて繋ぎ止めている。
根源の海。
その中心に、あまりにも巨大で、あまりにも美しい「黄金の奔流」が見えた。
それが沙条愛歌という個体が持つ、根源への直通回路。
彼女が願えば星は巡り、彼女が囁けば死者すら蘇る。
その全能の源泉。
(…見つけた)
メアリという「黒い星」が、その奔流の端に音もなく寄り添う。
愛歌本人は、まだ気づかない。
彼女にとって根源は自分の庭も同然であり、そこに毒が紛れ込むなど想像だにしていないからだ。
メアリは、家門の魔術【願掛け】を、全存在を賭して発動させた。
狙うのは破壊ではない。「一時的な差し押さえ」だ。
「…私の名はメアリ。私は星。私は、あなたの所有権を『定義』する」
メアリの意識が、愛歌のパスに鋭利な楔(くさび)を打ち込む。
それは魔術的な劣化。
万能という純白のドレスに、一滴の黒いインクを落とすような行為。
愛歌が根源から引き出すはずの奇跡の出力を、メアリの回路(メイン32本・サブ16本)を通してバイパスさせ、その流量を極限まで絞り込む。
(あ…ああっ…!)
概念的な接触。
愛歌の全能という肌に、メアリの執着という指が触れる。
本来なら触れることさえ許されない神性に、泥に塗れた人間の欲望を叩きつける悦楽。
メアリは根源の海で、愛歌の接続を無理やり自らの内側へと引き込み、蹂躙した。
全知を曇らせる。
無垢を汚す。
彼女を支える万能という背骨を、一時的にメアリの手に移し替える。
その瞬間、黄金の奔流が微かに濁った。
全能の少女が、生まれて初めて「自分の思い通りにならない空白」を感じた瞬間だ。
「…これで、第一段階(フェーズ・ワン)」
メアリは、奪い取った全能の余韻を自身の内側に閉じ込め、再び現実世界へと浮上を開始する。
次に目を覚ます場所は、ロンドンの地下室ではない。
彼女が今、無理やり書き換えた因果の道の先。
日本の、沙条愛歌が住む街の、目と鼻の先。
駒沢にある沙条邸。
そこは、世界で最も平穏で、同時に最も完成された箱庭だった。
朝の光が差し込むリビング。
沙条愛歌は、鼻歌を歌いながらティーカップに手を伸ばす。
彼女が望めば、茶葉は最高級の香りを放ち、お湯は一分の狂いもなく適温になる。
それが根源と直結した彼女にとっての当然の日常だ。
だが、その瞬間。
「…あら?」
愛歌が首を傾げた。
指先が触れたティーカップの縁。
そこにあるはずの心地よい温もりが、ほんのわずかに、氷のように冷たく感じられたのだ。
彼女の全能が、世界を肯定することを拒否した。
いや、違う。
彼女が世界に命じる命令権の一部が、見えない何かに「差し押さえ」られている。
欠落する万能
愛歌は、ふわりと庭のバラに視線をやった。
彼女が願えば、季節外れの百合だって咲き誇るはずの庭。
しかし、彼女の視線が触れた一輪のバラの蕾が、開くことなくポロリと地に落ちた。
「ふふ、おかしいわね。昨日までは、みんな私を大好きだったのに」
彼女の口調は穏やかだが、その瞳には、生まれて初めての戸惑いが浮かんでいた。
全知である彼女は、この世界のすべてを知っている。
だが、今の違和感は知っていることの外側からやってきた。
それは、彼女の足元——根源という深淵の底から、誰かが彼女のドレスの裾を強く、執拗に引っ張っているような、不快で、それでいて熱を帯びた誰かの意志。
愛歌は無造作に空中に手を伸ばし、空間を書き換えようと試みた。
かつてのように、世界を自分の思い通りの絵本に塗り替えようとする魔術的な身振り。
しかし。
「――っ」
指先が、見えない楔に弾かれた。
彼女の全能という回路の中に、異物が混じっている。
それは、彼女の神聖な接続を、泥にまみれた人間の欲望で上書きし、劣化させる行為。
魔術的に、概念的に。
沙条愛歌という完璧な円の中に、メアリ・レーベンという執着が無理やり割り込んでいた。
「誰かしら…私を、こんなに欲しがっているのは」
愛歌の頬に、微かな赤みが差す。
それは喜びではない。全能を脅かされることへの恐怖でもない。
ただ、自分を神として崇めるのではなく、一個の獲物として蹂躙しようとする未知の熱量に対する、生理的な震え。
「…王子様じゃないみたい。もっと、ずっと、暗くて重たい…星の光」
愛歌は、窓の外を眺めた。
駒沢の街角。
人混みの中に、昨日までは存在しなかったはずの暗い重力が、確かにそこにある。