ロンドンの地下室にあったはずの意識が、爆発的な情報の圧縮を経て、極東の多湿な空気の中へと吐き出された。
メアリ・レーベンが目を開けたとき、そこは駒沢公園のほど近く、人通りの途絶えた夜の路地裏だった。
「…っ、は、あ……っ!」
肺が酸素を拒絶するように喘ぎ、再構成されたばかりの心臓が、鐘のように肋骨を叩く。
根源という純粋な情報の海から、無理やり自身の肉体(ロゴス)を削り出し、この物理世界に再定義する。
それは魔術師の転移などという生易しいものではない。
自身を一度「無」に帰し、強固な執着(エゴ)という鋳型に流し込んで作り直す、神をも恐れぬ受肉の儀式だ。
メアリは震える手で、自身の胸元を確かめた。
メイン32本、サブ16本の魔術回路が、過負荷で熱を帯びている。
だが、その内側には、先ほど根源で掠め取った黄金の輝きが、澱のように重く沈殿していた。
沙条愛歌の全能。その、ほんの一片。
「…成功、した…」
メアリの唇が、歪に吊り上がる。
十五歳の少女の体躯はそのままに、その瞳の奥には、銀河が崩壊した後のような、暗く深い虚無が宿っていた。
メアリは、自身の魔術属性【星】を、今度は索敵のために薄く、広く展開した。
すると、数キロ先。この街のどこかに、あまりにも巨大で、あまりにも欠落した光の塊を感じ取った。
愛歌だ。
彼女の全能という完璧な歯車に、メアリが打ち込んだ楔が食い込んでいる。
先ほど愛歌が感じた違和感ティーカップの冷たさやバラの落花それは、メアリが彼女の根源への接続を、自分の回路を通じて劣化させている証拠だった。
「今のあなたは、もう神様じゃない…ただの、力の使い方も忘れた無力な女の子よ」
メアリは、自身のポケットを弄った。
そこには、前世の記憶から持ち込んだ、この世界には存在しないはずの意匠を施した、質素な銀の指輪が転がっている。
メアリは、ふらつく足取りで路地を出た。
街灯の下、十五歳の少女としての可憐な姿が浮かび上がる。
しかし、その足跡が刻まれるアスファルトは、メアリの放つ重力に耐えかね、微かにひび割れていた。
これから始まるのは、救済ではない。
彼女が愛してやまない最愛を、肉体的にも、魔術的にも、そして性的にも完膚なきまでに蹂躙し、自分なしでは存在できない一個の人間へと造り変える儀式だ。
「さあ、会いに行きましょう。愛歌」
メアリは、歩き出す。
その足取りは、獲物を追い詰める捕食者のそれでありながら、初恋の相手に会う少女のような、甘く残酷な熱を帯びていた。
駒沢公園の並木道。
春の午後の柔らかな光が降り注ぐ中、その場所だけが、切り取られた標本のように静まり返っていた。
ベンチに座る沙条愛歌は、自分の掌を見つめている。
彼女が願っても、足元の水溜まりは鏡にならず、通り過ぎる犬も彼女に媚びを売らない。
世界という精巧な自動機械が、彼女という歯車を拒絶し始めていた。
「…おかしいわ。みんな、どうしちゃったの?」
その呟きが震えた瞬間。
カツン、と硬い靴音が石畳を叩いた。
「それは、あなたが『人間』になりかけているからですよ、愛歌様」
聞き覚えのない、けれど鼓膜にねっとりと絡みつくような声。
愛歌が顔を上げると、そこには自分と同じくらいの年格好の少女が立っていた。
夜の底を溶かし込んだような深い色の瞳。
整った、けれど体温を感じさせない無機質な美貌。
メアリ・レーベンだ。
「…あなた、誰? 私の名前を知っているのね」
愛歌が立ち上がろうとする。
だが、その膝に力が入らない。
万能という杖を奪われた彼女の肉体は、生まれて初めて自重という物理的負荷に喘いでいた。
「メアリ…ただのメアリとお呼びください。あなたの隣に立つために、星の裏側から這い出してきた、ただの人間です」
メアリは一歩、また一歩と距離を詰める。
愛歌は本能的に、全能の行使を試みた。
目の前の不遜な風景を、塵へと変えるための無意識の魔術。
しかし。
「――無駄ですよ。あなたの根源へのパスは、今、私が『差し押さえ』ています」
メアリの手が、愛歌の白く細い喉元に伸びる。
愛歌は避けようとした。
だが、メアリが放つ【星】の重圧――自身の存在を縮退させ、周囲の因果を歪める高密度な魔力――が、愛歌の自由を奪っていた。
触れられた。
熱い。
神聖不可侵だったはずの肌に、他者の指先が食い込む。
「ひ…っ、あ…」
愛歌の口から、無垢な悲鳴が漏れる。
メアリはそのまま、愛歌をベンチへと押し戻し、その耳元で愛おしげに囁いた。
「怖いでしょう? 痛いでしょう? それが生きているということです。王子様に守られるお姫様ではなく、私に侵され、私に縋らなければ息もできない…そんな、惨めで愛おしい一人の女の子に、今から作り変えてあげます」
メアリの魔術回路が、愛歌の身体へと逆流を開始する。
魔術的な劣化。
純粋な根源の光を、メアリの濁った執着で蹂躙し、塗り潰していく。
愛歌の瞳が、恐怖と、そして初めて受ける強烈な個の重圧に、激しく揺れ動いた。
「や…めて、離して…っ!」
「いいえ。離しません。あなたが私をペットではなく、対等な恋人として認識するまで。あるいは、その意志さえ失って、私という重力から逃れられなくなるまで」
メアリは、抵抗する愛歌の手首を、折れんばかりの力で掴み上げた。
これこそが、メアリが夢にまで見た光景。
全能を剥がされ、ただの弱々しい少女として、自分の下で震えている最愛。
蹂躙の儀式は、まだ始まったばかりだった。
駒沢公園の喧騒から、概念的に切り離された異界。
メアリが自身の属性【星】を用いて構築した、外部からの観測を一切拒絶する縮退した小宇宙(シェルター)へと、愛歌は引きずり込まれた。
そこは光さえも歪む、メアリの執念だけで塗り固められた密室。
冷たい床に投げ出された愛歌は、激しく咳き込んだ。
今まで彼女を全能たらしめていた世界の理との接続が、メアリという黒い重力によって完全に遮断されている。
「…あ、っ…はあ…身体が、重い…何、これ…」
愛歌が震える指で自分の胸元を掴む。
心臓がうるさいほどに脈打ち、皮膚からは脂汗が滲む。
かつては呼吸するように奇跡を紡いでいた彼女の魔術回路に、メアリのドロリとした「星」の魔力が逆流し、強制的に上書きを繰り返していた。
「それは肉体という檻の重さですよ、愛歌様」
メアリは、抵抗する気力さえ奪われた愛歌の上に、容赦なく圧し掛かった。
十五歳の少女同士の、あまりにも歪な密着。
「魔術的に、あなたを劣化させました。今のあなたは、根源に繋がった皇女ではない。私という飼い主に喉元を掴まれ、怯えるだけの、ただの無力なメスです」
「やめ…離して…お、王子様が…!」
愛歌が虚空に助けを求める。だが、彼女が呼ぶ王子さえも、この縮退した空間には届かない。
メアリは愛歌の顎を強引に掴み、自分を直視させた。
「王子様なんて来ない。あなたを救うのは私だけ。あなたを壊すのも私だけ」
メアリの手が、愛歌の衣服にかけられる。
神聖な儀礼服のごとき純白が、メアリの荒々しい指先によって無惨に暴かれていく。
露わになった、透き通るような白い肌。
そこへ、メアリは自身の魔力を直接流し込み、蹂躙を開始した。
「ひ…あ、あああぁっ!?」
愛歌の口から、理性を剥ぎ取られた悲鳴が上がる。
それは快楽などではない。
自身の魂の奥深くまで、メアリという他人の執着が土足で踏み込み、かき乱し、自分の色で塗り潰していく恐怖。
全能ゆえに誰にも触れられなかった彼女の個が、メアリという暴力的な愛によって、泥沼へと引きずり落とされていく。
「…感じますか? 私の熱、私の重さ。これが人間との接触です。あなたが今まで見下してきた、取るに足らないはずの者の毒が、あなたの奥まで満たされていく感覚はどうですか?」
メアリは、愛歌の首筋に深く、歯を立てた。
消えない痕。神の肉体に刻まれる、人間の独占欲の証。
愛歌の瞳から、全知の色が消えていく。
代わりに宿るのは、圧倒的な力への屈服と、メアリという存在を刻み込まれたことによる、言語化不能な倒錯した絶望。
「あ…ああ…メアリ、メアリ…」
自分の名を呼ぶ愛歌の声を聞きながら、メアリは恍惚とした表情で彼女を侵し続けた。
手段は選ばない。
彼女が根源という空っぽの空に帰る前に、その魂に「メアリ・レーベン」という重力(のろい)を永遠に縛り付けるために。
星の属性がもたらす高重力の檻の中で、沙条愛歌という概念は、メアリ・レーベンという肉体によって徹底的に暴かれていった。
逃げ場のない密室。
メアリは愛歌の細い手首を頭上で組み伏せ、その白い肌に、容赦なく自身の熱を押し付ける。
「あ、っ…やだ、熱い…何、これ…体が、変なの…っ!」
愛歌の喉から漏れるのは、かつての全能者らしい清冽な響きではない。
ただの、熱に浮かされた十五歳の少女の、湿った喘ぎだ。
メアリは愛歌の耳朶を深く食み、魔術回路を伝って、泥のような情念を直接彼女の胎内へと流し込む。
それは魔術的なレイプであり、同時に魂を塗りつぶす個の侵食だった。
「感じなさい、愛歌。これがあなたが今まで見下してきた、汚らわしい人間の交わりです。根源の光なんかじゃない…ドロドロとした、逃れられない肉の重さよ」
メアリの指が、愛歌の聖域を無慈悲に抉り、侵していく。
神聖不可侵だったはずの場所が、他者の指先によって無惨にかき乱され、愛歌の口からは、抗えない快楽と絶望が混ざり合った、甲高い悲鳴が上がった。
「ひ…あ、あああぁっ!? あ…いや、メアリ、メアリ…っ!」
愛歌の瞳が、快楽のあまり白濁し、大きく見開かれる。
全知である彼女の脳内に、情報の濁流ではなく、強烈な肉の震えが叩き込まれる。
指先が触れるたび、その場所がメアリの色に染まっていく。
愛歌の背中が弓なりにしなり、爪がメアリの肩に深く食い込む。
「そう、もっと刻みなさい。あなたの初めての痛みも、初めての屈辱も、初めての…悦びも。全部、私という人間が与えたものよ」
メアリは、抵抗を止めてがっくりと力を失った愛歌の足を開かせ、その最も柔らかな場所へ、自らの欲望を、執着を、呪いにも似た愛を、深く、深く、突き立てた。
愛歌の意識が、強烈なショックで真っ白に弾ける。
今まで彼女を支えていた全能という自負が、メアリという個体に貫かれ、粉々に砕け散る音が聞こえた。
蹂躙されるたびに、愛歌の内側に「メアリ」という消えない重力が定着していく。
それは彼女を、根源という空っぽの空から引き摺り下ろし、この泥沼の地上に繋ぎ止めるための、あまりにも残酷で、あまりにも狂おしい受肉の儀式だった。
「…あ…ああ、メアリ…私を、壊して…っ」
蹂躙の果て。
全能の皇女は、メアリの腕の中で、ただの、メアリを求めずにはいられない女へと造り替えられていた。
嵐のような蹂躙が止み、縮退していた空間の重圧がゆっくりと解けていく。
メアリは、自身の魔術回路を通じて「差し押さえ」ていた根源へのパスを、少しずつ、けれど確実に愛歌へと戻していった。
全能の力が、持ち主の元へ還流する。
しかし、戻っていくその力は、もはや純白ではない。
メアリ・レーベンという個の執着にまみれ、彼女の体温と情欲を媒介にしなければ引き出せない、ひどく歪んだ人間の力へと変質していた。
床に横たわる愛歌は、放心したまま虚空を見つめていた。
焦点の定まらない瞳、小刻みに震える指先。
彼女の内側を蹂躙した熱の余韻が、全能を取り戻しつつある彼女の脳を、今なお麻痺させている。
メアリは、自身の乱れた衣服を整えることもせず、跪いて愛歌の細い手を取った。
その掌に、そっと口づける。
「…ごめんなさい、愛歌」
その声は、先ほどまでの捕食者のものではなかった。
震える、ひどく脆い、一人の少女としての謝罪。
「こんな方法でしか、あなたを人間に引き摺り下ろせなかった。…神様で、お姫様で、王子様を待つだけのあなたなんて、私は欲しくなかったから」
愛歌の指先が、ぴくりと跳ねた。
彼女の全知が戻り、今メアリが何をしたのか、自分が何をされたのかを理解し始める。
殺意か、それとも慈悲による書き換えか。愛歌がその全能を振るおうとした、その瞬間。
メアリは、用意していた銀の指輪を取り出し、愛歌の左手薬指へと滑らせた。
「…愛しています。私の、たった一人の恋人」
冷たい金属の感触が、愛歌の肌に触れる。
その指輪には、メアリの属性【星】による極小の「重力」が封じられていた。
それは愛歌が根源へ帰ろうとするたび、彼女をこの地上へと、メアリの隣へと引き戻すための錨。
「私を殺してもいい。ペットに変えてもいいわ。…でも、この指輪を嵌めたあなたは、もう二度と『独りの神様』には戻れない。私の愛を知ってしまった、ただの女の子なのよ」
メアリは、愛歌の薬指を愛おしげに噛んだ。
愛歌の瞳に、ようやく光が戻る。
そこにあるのは、怒りでも、憎しみでもない。
自分の全能を凌駕するほどの狂った愛に触れ、生まれて初めて自分を一人の女として定義されたことへの、抗いがたい戦慄と悦び。
「…ねえ、メアリ。…ひどい人」
愛歌が、掠れた声で呟く。
彼女の全能は戻った。その気になれば、メアリを瞬時に消滅させることもできるだろう。
けれど、愛歌の左手は、メアリの手を拒絶するように振り払うことはなかった。
「…王子様より、ずっと乱暴で…ずっと、あったかいのね」
愛歌の顔に、いつもの聖母のような微笑みではない、どこか壊れた、艶やかな笑みが浮かぶ。
メアリは確信した。
自分は成功したのだ。
この全能の怪物を、自分なしでは生きていけない人間へと、共犯者へと堕とすことに。
「さあ、行きましょう。愛歌。…私たちの、地獄のような幸せな日常へ」
メアリは愛歌を抱き上げ、二人だけの聖域を後にした。
指輪に刻まれた星の重力は、二人の魂を永久に結びつけ、二度と離すことはない。