朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
メアリが目を覚ますと、隣にはまだ微かな寝息を立てる沙条愛歌がいた。
かつての彼女なら、朝日よりも早く目覚め、世界を自分の望む最高の一日に書き換えていたはずだ。
けれど今の彼女は、メアリが与えた肉体の疲労と、左手の指輪が放つ微かな重圧に縛られ、泥のような安眠を貪っている。
「…おはよう、愛歌」
メアリがその白い肩に指を這わせると、愛歌の睫毛が震えた。
ゆっくりと開かれた瞳には、全知の輝きではなく、寝起きの朦朧とした、どこか無防備な熱が宿っている。
「…ん…メアリ。…重いの、体が」
愛歌はそう言いながら、拒絶する代わりにメアリの胸元に顔を埋めた。
かつての彼女なら、重力さえも自分の意志で制御していただろう。
だが、今の彼女はその不自由さを、メアリに愛されている証拠として享受している。
「それが人間よ。…今日は何を食べたい?」
「メアリが作ったものなら、何でも。…毒が入っていても、きっと美味しいわ」
愛歌の口から零れる、甘く壊れた言葉。
二人の食事は、もはや「完璧な奇跡」ではない。
メアリが不器用に焼いたトーストや、少し煮えすぎた紅茶。
だが、愛歌はそれを、かつて根源から引き出したどんな美酒よりも愛おしげに口にする。
昼下がり、二人はリビングのソファで本を読んでいた。
愛歌の左手は、常にメアリの指と絡められている。指輪が放つ「星」の魔力が、愛歌の根源への接続を適度に濁らせ、彼女をこの地上の、このソファの上に繋ぎ止めている。
「ねえ、メアリ。時々、怖くなるの」
愛歌がふと、メアリの耳元で囁く。
「この指輪が外れて、私がまた『何でもできる私』に戻っちゃったら…あなたは、私を置いてどこかへ行っちゃうのかしら?」
それは、かつての根源の皇女が口にすることなどあり得なかった、矮小で切実な、恋する乙女の不安。
メアリはその愛おしい劣化を噛み締めるように、愛歌の頬を撫でた。
「外さないわよ、絶対に。もし壊れたら、私の指を切り落としてでも、あなたの指に縫い付けてあげる」
「…ふふ、嬉しい。…愛してるわ、私の略奪者さん」
愛歌は満足そうに微笑み、メアリの膝に頭を預けた。
二人の日常に、華やかな奇跡はない。
あるのは、メアリが用意した狭い世界と、そこで窒息しそうなほどの愛を与えられる、一人の少女の姿だけだ。
外の世界では、依然として魔術師たちが根源の皇女を追い求めているかもしれない。
だが、ここにいるのは、ただのメアリという名の星に囚われた、名もなき惑星(おんな)だった。
二人の日常において、月が天頂に達する夜は「調整」の時間。
愛歌の薬指に嵌められた銀の指輪は、彼女の強大すぎる根源への接続を常に濾過し続けているため、定期的にメアリの魔力で直接上書きしなければ、その出力に耐えきれず焼き切れてしまう。
それは救済という名の、二度目の、そして永続的な蹂躙だった。
寝室のシーツは、愛歌の体温とメアリの魔力の残滓で常に重く湿っている。
メアリは愛歌を仰向けに倒し、その細い左手を高く掲げた。
月光に透ける銀の指輪は、内側に封じられた縮退した星の重力で、時折チリチリと不吉な音を立てている。
「…あ、っ…メアリ、早く…身体が、浮いちゃうの…」
愛歌の瞳が潤み、苦しげに胸を波打たせる。
メンテナンスを怠れば、彼女の魂は再び根源という空へと吸い上げられ、一人の少女という輪郭を失ってしまう。
彼女が今、このベッドの上に留まっていられるのは、メアリが与える不自由という名の重りがあるからだ。
「いい子ね、愛歌。…私が、もっと重くしてあげる」
メアリは自身の魔術回路、メイン32本とサブ16本を全開にした。
指先から溢れ出すのは、泥のように粘り着く、暗く濃密な「星」の魔力。
それを、愛歌の指輪へと、そして指輪を通じて彼女の全身の毛細血管へと流し込んでいく。
「ひ…あ、ああああぁっ!?」
愛歌の背中が大きくしなり、指先がシーツを掻きむしる。
全能を誇ったはずの魔術回路が、メアリの暴力的なまでの情念に侵食され、一節ごとに劣化と固定を繰り返していく。
それは神経を直接灼かれるような劇痛と、魂がメアリの色に塗り潰される甘美な絶望。
「痛い? …でも、これであなたは私のものよ。この痛みが、あなたの生きている証」
メアリは愛歌の太腿に深く指を食い込ませ、自身の存在をこれでもかと刻みつけた。
魔術的な蹂躙は、やがて肉体的な交わりへと溶けていく。
愛歌は、かつて王子様に求めた清らかな救いなど微塵もない、メアリのどろりとした欲望に貫かれ、白目を剥いて悦びに震えた。
「あ…ああ、メアリ…もっと、重く…私を、離さないで…っ!」
「離さないわ。あなたが死んでも、その魂を私の重力圏から逃がさない」
メアリは愛歌の耳元で呪いのような愛を囁き、彼女の奥深くに、自身の全存在を叩きつけた。
指輪の鳴動が止まる。
重力は安定し、愛歌の肉体は再び、メアリの手の中でしか形を保てない一個の女へと再定義された。
翌朝、愛歌はメアリの腕の中で、指輪が刻んだ痣のような赤い痕を愛おしげに眺めながら、満足そうに微睡むのだ。
月が天窓から冷ややかに差し込む書斎。愛歌が深い眠りについた後、メアリ・レーベンは一人、魔術書を開くこともなく闇を見つめていた。
彼女の脳裏には、前世の記憶が鮮明な断片となって浮かんでいる。
「…滑稽よね、本当に」
メアリは自嘲気味に呟き、自身の掌を見つめた。
そこには愛歌を蹂躙し、その肌を汚した熱がまだ残っている。
前世の私は、ただの観測者だった。
画面の向こう、あるいは紙の上の文字として、沙条愛歌という完成された悲劇を眺めていた。
彼女は全能で、無垢で、それゆえに誰の手も届かない孤独な怪物だった。
王子様に恋い焦がれ、世界をその恋の生贄に捧げようとした少女。
「救いたいなんて、そんな綺麗な言葉で飾るつもりはないわ」
私が欲しかったのは、神様でも、全能の皇女でも、ましてや誰かのために世界を滅ぼす聖女でもない。
ただの、私と同じ地平に立つ、泥まみれの女としての沙条愛歌だ。
彼女が王子様を想って微笑むたび、私の内側の「星」は嫉妬で爆発しそうになった。
彼女が全能である限り、彼女は誰の所有物にもなれない。
誰とも対等になれない。
だから、壊した。
彼女の全能という翼を捥ぎ取り、根源という高みから引き摺り下ろし、私という重力(エゴ)の中に閉じ込めた。
(…ごめんなさいね、愛歌)
心の中で、何度目かも分からない謝罪を繰り返す。
けれど、後悔は微塵もない。
あの日、彼女の純白の肌に私の痕を刻み、彼女が恐怖と悦びで声を枯らした瞬間、私は初めて生を実感した。
神を汚し、人間へと貶める背徳感。
それこそが、前世から持ち越したこの歪な執着の、唯一の報酬だ。
「あなたはもう、王子様のものじゃない。…私の、汚れた指輪に繋がれた一人の女の子」
愛歌が全能を失い、私の不器用な愛に縋り付くたび、私は自身の魂が黒く染まっていくのを感じる。
それでいい。
彼女が一人で地獄へ行くのなら、私がその地獄を書き換えて、二人だけの密室にしてあげる。
(…愛してるわ、愛歌。あなたの全能を奪った私を、どうか永遠に呪いながら、愛して)
メアリは静かに立ち上がり、愛歌の待つ寝室へと戻る。
そこには、彼女が創り上げた、世界で最も狭くて、最も重たい幸福が待っている。
「…ふふ、そうね。もし、今のこの『均衡』が崩れて、彼女が私の指先をすり抜けて神様に戻ろうとするなら…」
メアリは、寝室の窓から見える夜空を見上げた。
そこには自身の属性である【星】が、冷たく、けれど確かな質量を持って瞬いている。
「もう一度、あの暗い海に潜るだけ。今度は彼女の力を掠め取るなんてケチな真似はしない。…世界そのものの理を、私の『願掛け』で塗り潰して、五つか六つ目かの『魔法』をこの手に掴んでみせるわ」
愛歌を対等な恋人として繋ぎ止めるためだけに、根源へと至り、魔法使いへと至る。
それは、かつての魔術師たちが追い求めた真理への道とは似て非なる、あまりにも私欲に満ちた、あまりにも純粋な略奪の旅路。
「王子様になれないなら、世界を書き換える魔法使いになればいい。…そうすれば、愛歌。あなたはまた、私の腕の中で『ただの女の子』として泣いてくれるでしょう?」
メアリの手の中で、銀の指輪が共鳴するように光る。
彼女にとって、根源はゴールではない。愛歌という唯一無二の獲物を、永遠に自分の重力圏に留めておくための、ただの手段に過ぎないのだ。
愛歌がふと目を覚まし、メアリの背中を見つめる。
その全能に近い直感が、メアリが今、自分を繋ぎ止めるために世界を壊す覚悟を決めたことを察知する。
「…メアリ。…また、怖いことを考えているのね」
愛歌が背後から抱きつき、メアリの首筋に冷たい唇を寄せた。
「いいわよ、何度でも潜って。何度でも私を捕まえて。…あなたが魔法使いになっても、私が神様に戻っても…私たちはきっと、この地獄みたいな恋人ごっこをやめられないんだから」
二人の笑い声が、静かな駒沢の夜に溶けていく。
それは、前世の知識を武器に、愛という名の呪いで神を堕とした、一人の転生者の勝利宣言だった。