放課後の校舎は、まだ部活動の喧騒が残っている。
古手川唯は腕章を正し、廊下を歩いていた。
白いブラウスの上から「風紀委員」の文字が光る。
ヒールの低いローファーが、磨かれたリノリウムの床を規則正しく叩く。
スカートの裾が太腿の上で揺れるたびに、すれ違う男子生徒の視線が一瞬だけ下がるのを、唯は感じ取っていた。
──見ないでほしい。
胸元のリボンを整える仕草で、さりげなく腕を交差させて胸の膨らみを隠す。
この制服はどうにも身体のラインが出すぎる。
特に胸と、お尻。
自分では地味に着こなしているつもりなのに、鏡を見ればスカートの下で丸く張ったヒップラインが否応なく主張している。
(……まったく、なんでこんな体型に生まれたのかしら)
唯はため息をひとつ吐いて、東棟の階段を上がった。
*
三階の渡り廊下に差しかかった時、女子の囁き声が耳に入った。
「──ねえ、結城くんってさ」
「あー、ヤリチンリトでしょ?」
「そうそう。またなんかあったらしいよ」
唯の足が止まる。
背筋に冷たいものが走った。
結城リト。
同学年の男子生徒。
唯が風紀委員として最も警戒している人物。
一見すると、爽やかで人当たりの良い好青年だ。
笑顔は柔らかく、誰に対しても分け隔てなく接する。
転入してきた宇宙人の少女──ララ・サタリン・デビルークの婚約者という、突飛な肩書きを持ちながらも、不思議と学園に馴染んでいる。
だが、彼の周囲には常に女の影がある。
「結城くんって何人と付き合ってるの?」
「付き合ってるっていうか……もう、そういうレベルじゃないって話」
「えっ、マジ? じゃあ本当にヤッてるってこと?」
「ララちゃんだけじゃないらしいよ。モモちゃんとか、ナナちゃんとか──」
「ええっ……姉妹全員?」
「ヤバくない? しかもあいつ、めっちゃ上手いらしいよ」
唯の拳が、スカートの布地を握りしめた。
──最低。
あの男は最低だ。
婚約者がいながら他の女に手を出す。しかも複数。
それも相手の弱みにつけ込むような、卑劣なやり方で。
噂は以前から耳にしていた。
最初は「まさか」と思った。
あの爽やかな笑顔の裏に、そんな下劣な本性が隠れているなんて。
だが噂は消えるどころか、日を追うごとに具体性を増していく。
誰と。どこで。どうやって。
聞きたくもない詳細が、まるで汚水のように唯の耳に流れ込んでくる。
「先輩が言ってたんだけどさ、結城くんってキスがめちゃくちゃ上手いらしくて──」
「キス?」
「うん。なんか、一回されたら頭真っ白になるくらい──」
唯は足を踏み出した。
このまま聞いていたら、風紀委員として注意しなければならなくなる。
そう──注意しなければならないから、離れるのだ。
聞きたくないから、ではない。
断じて。
だが。
唯の脳裏に、一瞬だけ像が浮かんだ。
廊下の角で、壁に押し付けられた女子生徒。
その顔は見えない。
見えないけれど、相手の男の顔だけがはっきりと──。
結城リトが、その女子の唇に自分の唇を重ねている。
柔らかく、でも逃がさないように。
片手が腰に回り、もう片方の手が顎を持ち上げて──。
「──っ」
唯は首を振った。
頬が熱い。
心臓が跳ねている。
(な、何を考えてるの私は……!)
ありえない。
あんな男の、あんな行為を、想像するなんて。
風紀委員として許されない。人として許されない。
唯は自分の頬を両手で叩いた。
ぱちん、と小気味よい音が廊下に響く。
「……よし」
気を取り直す。
そう、今の私の仕事は風紀の巡回。
あの男の噂に振り回されている場合じゃない。
唯は背筋を伸ばし、歩みを再開した。
ローファーの音が、再び規則正しいリズムを刻む。
*
──結城リトの「ヤリチン」という評判が、いつ頃から広まったのか。
唯の記憶を辿れば、それは半年ほど前に遡る。
最初は些細な変化だった。
ララが結城くんの隣で、以前にも増して幸せそうに笑うようになった。
それ自体は微笑ましいことだと、唯も思っていた。
婚約者同士なのだから、仲が良いのは当然だ。
だが、おかしなことに気づいた。
ララだけじゃない。
結城くんの周りにいる女子が、一人、また一人と──変わっていく。
モモ。
あの腹黒いお嬢様が、結城くんの前でだけ妙に素直になった。
「リトさんには気をつけた方がいいですわ」──そう他の女子に忠告していた本人が、今では結城くんの隣で頬を染めている。
ヤミさん。
あの無口で近寄りがたい元暗殺者が、結城くんと一緒にたい焼きを食べている時だけ、ほんの僅かに目元が緩む。
唯はそれに気づいた。
他の誰も気づかないような、微かな変化に。
御門先生。
保健室の妖艶な美人教師。
最近、結城くんが保健室から出てくる頻度が増えた。
それだけなら気にしない。
だが先生が結城くんの名前を口にする時、一瞬だけ声のトーンが変わるのを、唯の耳は捉えていた。
ナナ。
「あんなスケベ男、姉上に近づけるわけにはいかないだろ!」と激怒していたあの子が、最近おとなしい。
結城くんの近くにいる時、あの生意気な態度が消えて、視線を伏せている。
──全員が、変わっている。
結城リトという男を中心に、まるで花びらが開くように、一人ずつ。
その変化は美しいとすら言えた。
堕ちたヒロインたちは不幸そうには見えない。
むしろ以前より生き生きとしていて、肌が綺麗になって、笑顔が増えて──。
(……っ)
それが、唯にとって最も苛立たしいことだった。
なぜ。
なぜあんな男に堕ちて、幸せそうなの。
おかしいでしょう。間違っているでしょう。
あの男は最低のヤリチンで、女を弄んでいるだけで、誰のことも本気で愛してなんかいなくて──。
なのに。
彼女たちの顔を見ると、そう言い切れない自分がいる。
唯は唇を噛んだ。
*
西棟の角を曲がった時、唯の身体がびくりと跳ねた。
廊下の奥──夕陽が差し込む窓際に、結城リトが立っていた。
制服のシャツを少しだけ着崩して、窓枠に寄りかかっている。
西日が逆光になって、輪郭だけが金色に縁取られている。
風が吹いて、前髪が揺れた。
──嫌な男。
唯はそう思った。
思ったのに、足が動かない。
結城リトが、誰かと話している。
女子生徒だ。
距離が近い。
あの男特有の、相手のパーソナルスペースに自然と入り込む距離感。
女子生徒が頬を染めて俯いている。
唯の胸の奥で、何かがぎゅっと絞られた。
(──また、だ)
またあの男が、誰かを──。
注意しなければ。
風紀委員として。
そう、これは義務だ。
唯は一歩を踏み出そうとした。
その瞬間、結城リトが顔を上げた。
視線が交差する。
あの、爽やかな笑顔。
だが唯には分かる。
あの笑顔の奥に、計算があることを。
女の弱いところを見抜く、鷹のような目があることを。
「あ、古手川」
結城リトが軽く手を挙げた。
まるで何でもないことのように。
唯の心臓が、ドクンと跳ねた。
大きく。不規則に。
「──結城くん」
声が震えなかったことだけが、唯のささやかな勝利だった。
唯は顎を上げ、腕を組んだ。
胸の膨らみが腕の上に乗って、形が強調されてしまうのは分かっている。
分かっているけれど、これは威嚇のポーズなのだから仕方がない。
「放課後の廊下で女子生徒と密着するのは、風紀違反よ」
冷たく、鋭く。
完璧な風紀委員の口調。
結城リトは、困ったように頭をかいた。
「いや、ちょっと相談に乗ってただけで──」
「相談?」
唯の眉が吊り上がる。
「あなたの"相談"がどういうものか、私は知っているわ」
知っている。
噂で。
噂、だけで。
実際に見たことは、ない。
見たいわけでも、ない。
──ない、はず。
結城リトの唇が、小さく弧を描いた。
困り顔から、ほんの少しだけ──挑むような。
唯の背筋を、電流のようなものが走った。
「古手川は厳しいな」
その声は、穏やかで。
でも、どこか──唯の奥に届く、妙な重さがあった。
「厳しいんじゃないわ。当然のことを言っているだけよ」
唯は踵を返した。
これ以上この男と向き合っていると、何かが──何かが、まずい。
背中に視線を感じる。
結城リトの視線。
背中から、腰に、そしてスカートの下のヒップラインに──。
(見てるでしょう、この……っ!)
唯は歩幅を広げた。
スカートが太腿に張り付く。
心臓が、まだ暴れている。
──あの男は、危険だ。
それだけは、はっきりと分かる。
彼女たちが堕ちた理由を、唯は頭では理解できない。
だが身体が──この身体が、ほんの僅かに反応してしまったことが。
唯は廊下の角を曲がり、壁に背中を預けた。
ブラウス越しに、心臓の鼓動が手のひらに伝わる。
「……最低」
呟いた言葉が、結城リトに向けたものなのか。
それとも、頬を紅潮させている自分に向けたものなのか。
古手川唯には、まだ分からなかった。
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