放課後の特別教室棟は、いつも薄暗い。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返って、廊下には誰の足音もない。
窓から差し込む西日だけが、リノリウムの床にオレンジ色の長方形を落としている。
唯は風紀委員の巡回報告書を抱えて、特別教室棟の二階を歩いていた。
放課後の見回り。火気の確認、窓の施錠チェック、不良のたまり場になっていないかの巡回。
風紀委員の仕事は地味だが、唯はこの時間が嫌いではなかった。
一人で歩ける。一人で考えられる。誰にも邪魔されない。
——邪魔されない、はずだった。
足音に合わせて、制服のスカートが揺れる。
歩くたびに太腿の裏でスカートの裾が揺れ、ヒップのラインに布地が張り付く。
朝もそうだった。鏡の前で確認する度に、お尻の形がスカートの上からくっきり分かってしまう。
いくら引っ張ってもどうにもならない。育ったのはお尻だけじゃない。胸も。
ブラウスの第一ボタンまでしっかり留めているのに、88センチの膨らみが布地を内側から押し上げて、ボタンの隙間から肌色がちらりと覗く。
最近、体育の着替えの時に——「古手川さんって本当にスタイルいいよね」と言われた。
褒め言葉のつもりだろう。だが唯にとっては、自分の身体が目立っていることの証明でしかない。
(……べつに。こんな身体、望んだわけじゃないのに)
唯は報告書に目を落とした。
三階の施錠確認。異常なし。二階の空き教室チェック。これで残りは——。
特別教室棟の二階。一番奥の教室の前を通り過ぎる。
使われていない教室。机と椅子が壁際に寄せられたまま、埃を被っている。
ドアは施錠されていた。異常なし。
報告書に記入しながら——唯の思考は、別のところにあった。
結城リト。
(……また、考えてる)
唯は小さく舌打ちした。
最近、油断するとあの男のことを考えている自分がいる。
監視対象だから——当然だ。風紀委員として、学園の秩序を乱す可能性のある人物を、常に意識しておくのは当然のことだ。
当然のこと。
なのに——考える内容が、最近おかしい。
結城くんは確かに、顔は整っている。
——いや、顔が整っているかどうかは風紀と関係がない。関係ないのに思い浮かぶ。
あの爽やかな笑顔。少し癖のある髪。制服の上からでも分かる、均整の取れた——。
(やめなさい!)
唯は頭を振った。
報告書のペンを握る指に力が入る。
あの男は危険だ。
複数の女性と関係を持っている——かもしれない——という噂がある。
モモの変化。ヤミさんの目の変化。御門先生の声のトーン。
全部——あの男に繋がっている。
あの男が、女を落とす時——どうするのだろう。
唯の足が止まった。
(……何を考えているの、私は)
あの男が女を「落とす」。
その具体的な手段を——想像してしまった。
笑顔で近づいて。自然な距離感で。
パーソナルスペースに入り込んで——。
たとえば。
突然、手首を掴まれたら——唯ならどうするだろう。
「何をするの!」と叫んで、振り払う。当然だ。風紀委員として。
振り払って——でも、結城くんの指は、きっと強い。握力がある。振り払えないかもしれない。
壁に押し付けられたら。
背中が冷たい壁に当たって、前には結城くんの身体。
顔が近くて——吐息がかかる距離で——。
唯は自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
(ち、違う。これはシミュレーションよ。風紀委員として、危険なシチュエーションを事前に想定しておくのは当然のこと——!)
当然のこと。
当然のことだから、もう少しだけ具体的に想定しておくべきだ。
もし——もし結城くんに胸を触られたら。
この、自分でも持て余しているB88の胸を、あの男の手で——。
掴まれたら。
88センチの膨らみを、大きな手で鷲掴みにされたら。
ブラウスの上から、ボタンの隙間に指を滑り込まされて——。
「っ——」
唯は報告書を落としかけた。
慌てて抱え直す。
心臓が速い。
太腿の奥が——じんわりと、熱い。
(違う違う違う! これは想定であって妄想ではないし破廉恥でもない!)
頭の中で全力で否定した。
だが身体は——正直だった。
ブラウスの下で、乳首がきゅっと硬くなっている。
ブラジャーの布地に擦れて——ぴりっとした刺激が走る。
(やめて……)
唯は唇を噛んだ。
自分の身体が裏切っている。想像しただけで。あの男のことを想像しただけで。
もし——もし、お尻を叩かれたら。
スカートの上から、ぱんっと平手で。
あの男に、風紀委員として正しくあろうとしている自分のお尻を——。
(やめなさいってば!!)
唯は壁に背中を預けて、深呼吸した。
顔が真っ赤になっているのが、触れなくても分かった。
(私は……何を……)
誰にも言えない。
風紀委員の古手川唯が、放課後の廊下で、結城リトに身体を触られる想像をして——身体が反応していたなんて。
唯は報告書を胸に押し付けた。
高鳴る心臓を——報告書で隠すように。
(あり得ない。絶対にあり得ない。私があんな男に——)
唯は呼吸を整えて、歩き始めた。
特別教室棟から本校舎に戻る渡り廊下。
今の妄想——いや、シミュレーションは忘れよう。
忘れる。完全に。全部。
渡り廊下を抜ける。
本校舎の一階、理科室のある廊下に出た。
足が——止まった。
廊下の向こうから、誰かが歩いてくる。
金色のロングヘア。黒のスカートスーツ。白いブラウス。
ティアーユ先生だった。
ティアーユ先生は、少し急いでいるように見えた。
歩幅がいつもより大きい。あのおっとりした先生にしては、珍しく足が速い。
「ティアーユ先生」
唯が声をかけると、ティアーユ先生はびくっと身体を震わせた。
「あ——こ、古手川さん……」
声が——少し上ずっている。
「こんなところで、どうしたの?」
ティアーユ先生が唯を見た。
緑色の目が——僅かに潤んでいる。
汗——なのだろう。額にも、うっすらと汗が滲んでいた。
唯は一瞬だけ、ティアーユ先生の身体を視界に捉えた。
スーツの上からでも分かる——Iカップの膨らみ。ジャケットのボタンが弾けそうに張っている。
スカートは膝上丈で、黒いストッキングに包まれた長い脚が伸びている。
いつも通り——のはずだが。
ティアーユ先生の膝が、微かに内股になっていた。
太腿をきゅっと閉じるように。
(……?)
「風紀活動です。放課後の巡回で」
唯は報告書を見せた。
「そうなの……お疲れ様……」
ティアーユ先生の声が、妙に途切れ途切れだった。
語尾の息が——荒い。
唯は、風紀委員としての使命感と、教師への敬意との間で一瞬だけ迷い——そして、口を開いた。
「先生、最近——結城くんのことで、何かありませんでしたか?」
聞いてしまった。
直球すぎたかもしれない。でも唯は遠回しが苦手だ。
ティアーユ先生の身体が——びくっと震えた。
明確に。
隠しようがないほど明確に。
「ゆ——結城、くん?」
声が裏返った。
甘い顔に——動揺の色が走った。
右手が、無意識にスカートの裾を掴んでいる。
唯の中で、警報が鳴った。
「ええ。結城くんは——その、困り者というか……風紀委員としても、目をつけざるを得ない生徒なんです」
ティアーユ先生の反応が——異常だったから。
リトの名前を出しただけで、ここまで動揺する理由が——。
「結城くんの行動で、先生が何か困っていることがあれば——風紀委員として対応しますから」
ティアーユ先生が——一瞬、唯の目を見た。
その目に浮かんでいたものを、唯は読み取ろうとした。
恐怖? 不安? それとも——。
ティアーユ先生は視線を逸らした。
そして——微笑んだ。
「結城くんは……真面目で、いい生徒よ」
声が——震えていた。
微笑みのはずなのに、声が震えている。
「授業の質問にもよく来てくれるし……熱心な子だと思うわ」
リトを——褒めている。
モモと同じだ。あの時と同じだ。
リトの名前を口にする時だけ、声が——変わる。
だがモモの時は、声が「甘く」なっていた。
ティアーユ先生の声は——「甘い」のとは少し違う。
それは——。
震えていた。恐怖でも不安でもない。
もっと切迫した、生々しい何かで——震えていた。
「困っていることは——ないわ。大丈夫」
ティアーユ先生がそう言った。
「大丈夫」という言葉が——あまりに必死だった。
自分に言い聞かせているように聞こえた。
「あの——ごめんなさい、古手川さん。わたし、ちょっと急いでいて——」
「急いで? これから何かあるんですか?」
風紀委員の癖だ。引っかかったら聞く。確認する。
ティアーユ先生の口が——開きかけた。
「あ——えっと、その……待って、もらってるから……」
「待って? 誰かと約束が?」
「っ——」
ティアーユ先生が言葉を詰まらせた。
目が泳いでいる。金色の睫毛が小刻みに震えている。
「ち、違うの……約束っていうか……でも、遅れると……」
「遅れると?」
唯の問いかけに——ティアーユ先生の頬が、ぱっと赤くなった。
紅潮。明らかな紅潮。
耳の先まで赤い。
「お……」
声が——零れかけた。
唇が動いた。ほんの一瞬、形を作った。
「お」の次に続くはずだった音を——ティアーユ先生は飲み込んだ。
口を片手で覆って、目を逸らした。
(今……何を言いかけたの?)
唯は見逃さなかった。
「お」で始まる単語。「遅れると」の続き。
遅れると——何?
叱られる? 怒られる?
それとも——。
ティアーユ先生の太腿が、きゅっと閉じ直された。
スカートの裾を掴む指が、白くなるほど力が入っている。
額に浮かんだ汗が——こめかみを伝って流れていく。
ティアーユ先生が——無理やり笑顔を作った。
「な、なんでもないの……実験器具の……片付けが残っていて……遅くなると、その……管理上よくないから……」
嘘だ。
実験器具の片付けで、こんなに頬を赤らめる人間がいるだろうか。
実験器具の片付けで、太腿をきゅっと閉じて、額に汗をかく人間がいるだろうか。
「ほ、本当にごめんなさい、行かないと……」
ティアーユ先生の声が——最後の方は、ほとんど懇願するような声だった。
焦っている。焦点の合わない目。呼吸が浅い。
何か——何かに急き立てられている。
「先生——」
唯が呼び止めようとした時には、ティアーユ先生はもう背中を向けていた。
ほとんど小走りに——廊下の奥へ。
その後ろ姿を、唯は見つめていた。
スーツのスカートが——歩くたびに太腿にまとわりつく。
内股気味の歩き方。きゅっと閉じた膝。
汗ばんだ額。震えていた声。裏返った「お」の音。
リトの名前に対する——過剰な反応。
(「遅れると」——何?)
ティアーユ先生の唇が作りかけた形を、唯は反芻した。
「お」。
お叱り? お説教? それなら赤面する理由がない。
もっと——もっと別の何かだ。
あの顔は、怖がっている顔じゃなかった。
あれは——。
(……期待、している?)
その発想が浮かんだ瞬間、唯は自分で自分の思考にぞっとした。
そして——ティアーユ先生が向かった先は。
特別教室棟の方だった。
唯がたった今巡回してきた——あの棟。
唯は廊下に一人残された。
(……先生、何を急いでいるの?)
特別教室棟には、放課後は誰もいないはずだ。
唯がさっき確認した。異常なし——と書いた。
なのにティアーユ先生は、そこに向かっている。
急いで。汗をかいて。内股で。声を震わせて。
偶然だ。きっと。
忘れ物を取りに行くのかもしれない。準備の確認かもしれない。
(……でも、あの様子は——)
唯は唇を噛んだ。
モモが変わった。
ヤミさんの目が変わった。
御門先生の空気が変わった。
そして今——ティアーユ先生の声が、震えていた。
全部——結城リトに繋がっている。
全部が結城リトに繋がっていて、全部が「それだけのこと」で、全部に「証拠はない」。
唯は報告書を胸に抱えた。
さっき書いた「異常なし」の三文字が、目の前でぼやけた。
異常なし。
本当に?
——そしてさっき。
唯自身も、あの男のことを想像して——身体を反応させてしまった。
廊下で。一人で。結城リトに触られる想像をして。
(あれは……シミュレーション。シミュレーションだから——)
唯は目を擦って、歩き始めた。
ローファーはリノリウムの上を規則正しく叩く。
*
本校舎一階の廊下に戻った時——また、声が聞こえた。
唯の耳は、拾いたくないものほどよく拾う。
昇降口の近く。女子の二人組が、靴を履き替えながら話している。
声は一応絞っているのだろうが——唯の耳には、筒抜けだった。
「——ねえ、籾岡さんって最近ちょっとヤバくない?」
「え、何が?」
「なんかさ、男遊びすごいって。一年の子が言ってたんだけど」
「あー。ギャルだもんね、あの子」
「でもさ、なんかさ——結城くんと似てるよねって話になって」
「結城くん?」
「うん。なんていうか——男女関係が軽いっていうか。あの二人、タイプが近いよねって」
唯の足が止まった。
結城くんと——似ている。
籾岡里紗。
二年のギャルだ。制服はいつも着崩していて、スカートは短く、胸元は開いている。
唯が何度注意しても直らない常連の問題児。
性格は明るく、友達も多い。だが——噂は決していいものばかりではない。
「男遊び」が派手だという話は、前にも聞いたことがある。
だが——結城くんと並べて語られるのは初めてだった。
(似ている? あの男と?)
唯は眉を寄せた。
似ているというのは——何が?
男女関係の軽さ?
それとも——。
考えても仕方がない。噂は噂だ。
だが——風紀委員として、噂の中心人物の様子くらいは確認しておくべきだろう。
唯は昇降口を抜けた。
校門に向かう道。桜の葉が風に揺れている。
夕方の帰宅ラッシュはほぼ終わっていて、まばらに生徒が歩いているだけだ。
その中に——見つけた。
籾岡里紗。
校門の脇の石壁にもたれかかって、スマホをいじっていた。
明るい茶色のセミロングヘア。少し生意気そうな顔。
制服は——いつも通り、いや、いつも以上に乱れていた。
スカートは規定より明らかに短い。太腿の半ばまで見えている。
ブラウスの胸元はボタンが二つ外れていて、Dカップの谷間がちらりと覗いている。
リボンは緩く結んだまま首から垂れ下がっていて、ブレザーは片方の肩からずり落ちかけている。
しかも——ブラウスの裾がスカートから半分はみ出していた。
唯は足を速めた。
「籾岡さん」
声は——自然と、風紀委員の声になった。
ティアーユ先生の前では出せなかった、ぴしっとした声。
籾岡がスマホから顔を上げた。
「あー、ユイじゃん。お疲れー」
軽い。あまりにも軽い。
風紀委員に声をかけられて、この態度。
にへら、と笑っている。目が細くなって、馴れ馴れしい笑顔。
「お疲れ、じゃなくて。その格好、何?」
唯は籾岡の全身を見下ろした。
「何って? 制服だけど」
「それは制服とは呼べないわ。ボタンが外れてるし、リボンも乱れてるし、ブラウスもはみ出してる。あと、スカートが短すぎるわよ」
指を折りながら指摘した。一つ、二つ、三つ、四つ。
籾岡はぽかんとした顔で自分の身体を見下ろした。
「あー、ほんとだ。ボタン取れてる」
反省の色が——まったくない。
「取れてるじゃないでしょう。直しなさい」
「えー、もう帰るとこなんだけどー」
「帰る前に直して。校門を出るまでは学校の生徒よ」
唯が睨むと、籾岡はしぶしぶブラウスのボタンに手をかけた。
だが——留め方が雑だ。胸元のボタンを一つ留めただけで、まだ谷間は見えている。
「もう一つ」
「えー、きっつ。胸がさー、入んないんだよね、このブラウス」
「入らなくても留めなさい」
「ユイだって胸でかいくせに。ブラウスパツパツじゃん」
「っ——私の話はしてないわ!」
唯の頬が一瞬だけ赤くなった。
籾岡は——唯の胸元をにやにやと見ている。
「アタシとユイって、体型の悩み似てるよね。親近感ー」
「似てないわよ。私はちゃんと着こなしてるもの」
「着こなすっていうか、パンパンだけどね」
「……籾岡さん」
唯の声が低くなった。本気のトーン。
籾岡はへらっと笑って、もう一つボタンを留めた。
「はいはい、直した直した。これでいい?」
まだリボンは乱れているし、スカートは短いし、ブラウスの裾ははみ出している。
だが——籾岡のこの態度では、これ以上追及してもいたちごっこだ。
「リボンも直して。ブラウスも中に入れて。明日から気をつけてね」
「りょーかい、ユイ先輩!」
先輩じゃない、同級生だ——と言いかけて、やめた。
籾岡は完全にふざけている。
籾岡がブラウスの裾をだらだらとスカートに押し込みながら、校門に向かって歩いていく。
ぺたぺたとした歩き方。ローファーの踵を踏んでいる。
「あ、ユイー」
振り返った。
「何?」
「巡回ご苦労さま。大変だよねー、真面目って」
にへっ、と笑った。
悪意はない。たぶん、悪意はない。ただ——軽い。あまりにも軽い。
籾岡の後ろ姿が校門の向こうに消えていった。
セミロングの茶髪が、夕風に揺れている。
唯は校門の前に立ったまま、深く息を吐いた。
結城くんと——似ている。
さっきの噂が、頭の中で反響していた。
籾岡里紗と、結城リト。
男女関係が軽い。噂が多い。だが本人たちは平然としている。
——本当にそれだけだろうか。
唯は首を振った。
考えすぎだ。今日は——考えすぎる日だ。
ティアーユ先生のことも。リトの妄——シミュレーションも。籾岡の噂も。
全部忘れて、帰ろう。
唯は背筋を伸ばして、校門を出た。
夕焼けが、通学路のアスファルトをオレンジに染めていた。
明日も——結城リトは爽やかに笑うのだろう。
そしてまた——誰かの何かが、少しだけ変わるのだろう。
唯はまだ、その「誰か」が自分になる可能性を——考えることさえ拒否していた。
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