夕方の教室は、いつも少しだけ残酷だ。
帰りのホームルームが終わった瞬間、教室は二つに割れる。
固まって動く集団と、散り散りに消えていく個人。
アタシは——どちらにも属さない。
籾岡里紗は鞄を肩にかけて、席を立った。
「里紗ー、今日カラオケ行かない?」
「ごめーん、今日パス。バイトー」
嘘だ。バイトなんかない。
ただ——集団の中にいると、たまに息が詰まる。
教室を出る時、背中に視線を感じた。
振り返らなくても分かる。誰が見ているかも、何を思っているかも。
(あー、またやってる)
廊下に出ると、すれ違う女子のグループがちらっとこっちを見た。
目が合った瞬間、さっと逸らされる。
そのくせ——通り過ぎてから、ひそひそと声が聞こえる。
「——籾岡さんって、またスカート短くなってない?」
「ねー。なんかもう、わざとだよね」
聞こえてんだけど。
里紗は前を向いたまま、口の端を上げた。
わざとだよ。
スカートが短いのも、胸元のボタンが一つ外れてるのも、ブレザーを肩から落として着てるのも。
全部わざと。
見たいなら見ればいい。言いたいなら言えばいい。
アタシの見た目に文句があるなら、面と向かって言えばいいのに——陰でこそこそやるから、余計にダサい。
昇降口に向かう廊下で、男子のグループとすれ違った。
目線が——胸に来る。
制服のブラウス越しでも分かるDカップの膨らみに、一瞬だけ視線が吸い付いて、慌てて顔を上げる。
里紗はその動きを見逃さない。いつも見ている。
(ほーら、見た見た)
男子は里紗に気づくと、にやっと笑って声をかけてきた。
「おー、籾岡じゃん。今日も攻めてんなー、胸元」
「うっさ。お前らの目が攻めてんだよ」
里紗は舌を出して笑った。
男子たちがげらげら笑う。「さすが籾岡」「おもしれー」と声が飛ぶ。
里紗は手をひらひら振って、そのまま通り過ぎた。
こういうやりとりは、もう慣れた。
からかわれて、返して、笑い飛ばす。
それがアタシの——学校での「ポジション」だ。
明るいギャル。ノリがいい。男に臆さない。
言いたいことは言う。空気は読むけど、空気に飲まれない。
——少なくとも、そう見えるように振る舞っている。
昇降口でローファーに履き替えながら、里紗はスマホの画面を見た。
LINEの通知。クラスの女子グループ。
『今日の籾岡まじウケたwww 数学の授業中に先生にタメ口wwww』
里紗は画面をスワイプして消した。
笑われてるのか、楽しまれてるのか——たぶんどっちもだ。
校門を出た。
夕方の空気が——少しだけ冷たくなっていた。
六月の夕暮れ。昼間の蒸し暑さが嘘みたいに、風がひんやりとしている。
制服のブラウスの隙間から風が入り込んで、肌がざわっとした。
通学路は、駅前の大通りから一本裏に入った住宅街を通る。
この時間帯——薄暗い。
街灯はまだ点いていなくて、夕方のオレンジと夜の藍色が混ざったような空が、住宅の間に沈んでいる。
里紗は片手を鞄の肩紐にかけて、もう片手でスマホをいじりながら歩いていた。
イヤホンは片耳だけ。周囲の音は聞こえるようにしている。
——聞こえた。
後ろから、足音。
一人じゃない。二人、いや三人。
笑い声が混じっている。
里紗は歩く速度を変えなかった。
スマホの画面を見たまま、視線だけ動かす。
足音が近づいてくる。
「おい、ちょっと」
声がかかった。
里紗は振り返らない。
「おーい、聞こえてる? そこの可愛い子ー」
里紗は歩き続けた。
足を止めたら、負けだ。
「ちょっとー、無視すんなってー」
三人の影が、里紗の横に並んだ。
他校の制服。ブレザーの色が違う。
前髪を上げた茶髪。ピアス。シャツの第三ボタンまで外していて、薄い胸板が覗いている。
いかにも——という感じ。
「まじで可愛いな。モデルとかやってんの?」
安い。台詞が安すぎる。
里紗はようやく顔を上げた。
「は? やってないけど」
声は——いつも通りだった。
低くもなく、高くもなく。退屈そうで、少しだけ生意気な声。
「まじ? 勿体ないじゃん。ねえ、ちょっと遊ばない? この近くにいい店あんだけど」
茶髪の男がにやにや笑っている。
目が——里紗の胸元に行ったり、脚に行ったり、忙しい。
里紗の胸の内側で、冷たいものがすっと通った。
(あー、またこれ)
見た目のせいだ。
スカートが短いから。胸元が開いてるから。明るい髪だから。
「こういう女」だと思われる。遊んでそう。軽そう。誘ったらついてきそう。
何度目だろう。こういうの。
中学の頃からだ。
制服を着崩し始めた頃から——こういう声が、定期的にかかるようになった。
「遊ばない」
里紗は短く言った。
「えー? つれないなー。ちょっとだけだってー」
男が里紗の肩に手を伸ばした。
里紗は半歩横にずれて、手を避けた。
自然に。さりげなく。慣れた動作で。
「触んない方がいいよ。アタシ、痴漢にはすぐ通報するから」
声のトーンが——一段下がった。
笑顔は消えない。でも目が笑っていない。
茶髪の男が一瞬だけ怯んだ。
後ろの二人が顔を見合わせる。
「なんだよ、ノリわりーな」
「ノリで女に触んなよ。ダサいから」
里紗はそれだけ言って、歩き出した。
背中を向ける。振り返らない。
足音が——追いかけてこなかった。
舌打ちと、「なんだあの女」という声が聞こえた。それだけ。
里紗は角を曲がるまで歩いて——曲がった瞬間、塀にもたれかかった。
息を——吐いた。
長く。深く。
心臓が少しだけ速かった。
手のひらが——僅かに湿っている。
(……べつに。慣れてるし)
慣れてる。
中学の時は、もっと怖い思いをした。
帰り道で知らない車に声をかけられたこともある。
同級生に「おっぱい見せろよ」と言われたこともある。
一度だって——ついて行ったことはない。
一度だって——こういう男たちに、自分を安く見せたことはない。
でも世間は——里紗の「見た目」だけで判断する。
ギャル。着崩した制服。男に臆さない態度。
イコール——遊んでいる。男慣れしてる。軽い。
違う。
全部違う。
こう見せてるのは——弱く見られたくないから。
こう振る舞ってるのは——一人で生きていくために、必要だから。
里紗は塀から背中を離して、また歩き始めた。
住宅街を抜ける道は、もう薄暗い。
街灯がぽつぽつと点き始めている。
オレンジ色の光が——里紗の影を長く伸ばした。
ふと——頭に浮かんだ顔があった。
結城リト。
里紗は鼻で笑った。
(あー、あいつね)
学校での評判は——最悪だ。
ヤリチン。複数の女と関係を持ってる。笑顔の裏で女を食い散らかしてる。
クラスの女子がひそひそ話す時の定番トピック。
「結城ってまじ最低だよね」——里紗も言った。何度も言った。
友達と放課後にファミレスで、駄弁りながら。
「あいつほんとヤバくない? 何人と付き合ってんだよって感じ」
「でもさー、顔はいいじゃん」
「顔がいいから余計タチ悪いっつーの。ああいうのに引っかかる女って、ほんとバカだよね」
里紗がそう言った時、友達は笑った。
「籾岡ってそういうの嫌いだもんねー」と。
嫌いだ。
嫌いに決まってる。
ヤリチン——つまり、女を「使い捨て」にする男。
やることやったら興味を失くして、次の女に行く。
そういう男は——里紗にとって、最も嫌悪する存在だった。
里紗は爪先でアスファルトを蹴った。
(アタシだったら絶対ついて行かないし)
絶対に。
どんなに顔が良くても、どんなに爽やかに笑っても、どんなに優しい言葉をかけられても。
ヤリチンだと分かってる男に、わざわざ近づく理由がない。
——あるわけない。
里紗は結城リトの顔を思い浮かべた。
少し癖のある髪。整った顔。爽やかな笑顔。
廊下で会う時、いつもにこっと笑う。さりげなく目が合う。
(……たしかに、顔は良い)
その事実は認める。客観的に。
でもそれだけだ。
「結城って最低だよね、マジ」
これは——里紗の本音だった。
ファミレスで友達に言ったのも、教室で聞かれた時に答えたのも。
余裕を見せて言っているわけじゃなく——本気で思っている。
女を使い捨てにする男。
それは——里紗にとって、「捨てる側」の人間。
捨てられた側の気持ちなんか、考えもしない人間。
里紗は——「捨てられた側」を知っている。
(あいつに引っかかるとか、ありえないから)
里紗は強く思った。
結城リトがどんな手を使おうが——アタシに通じるわけないじゃん。
アタシはあの手の男を知っている。見た目に騙されない。言葉に踊らされない。
その自信は——本物だった。
今のところは。
*
通学路を外れて、商店街を抜ける。
シャッターが半分降りた八百屋。蛍光灯がちらちらする居酒屋。
この辺りは——夕方になると、酔っ払いやナンパが増える。
里紗は足を速めた。
案の定——声がかかった。
「ねえ、お姉さん。高校生? 可愛いねー」
居酒屋の前に立っていた男。二十代後半くらい。スーツを着崩している。
目が——もう据わっていた。酔っている。
里紗は無視した。
完全に、透明人間を見るように。
「おーい、無視ー? 冷た——」
「キモいんだよ」
里紗は振り返らずに言った。
声だけ。短く。鋭く。
男が何か言い返した気がしたけど、もう聞いていなかった。
商店街を抜ける。
住宅街に入る。
あと三分。あと三分で——家に着く。
里紗の足が——少しだけ遅くなった。
家。
マンションの七階。3LDK。
築浅のオートロック付き。内装もきれいで、友達に見せたら「え、めっちゃいい部屋じゃん」と言われた。
——誰もいない、家。
里紗は鞄の肩紐を握り直した。
お父さんは商社勤めで、海外出張ばかりだ。月に二、三日帰ってくればいい方。
お母さんも——去年から実家の祖母の介護で地方に行ったきり、ほとんど戻ってこない。
毎月、口座にはちゃんとお金が振り込まれる。生活費には困らない。むしろ余るくらいだ。
マンションの入り口に着いた。
オートロックのパネルに暗証番号を打ち込む。ぴっ、と電子音。慣れた動作。
エレベーターのボタンを押す。
がたん、と音がして、箱が降りてくる。
七階。
ドアの前に立つ。
鍵を回す。
がちゃり、と開く。
「……ただいま」
誰も答えない。
分かっている。分かっていて——言う。
これは習慣だ。意味はない。
玄関の電気を点けた。
靴を脱ぐ。ローファーを揃える。
——揃えるのは、自分のだけ。他に靴はない。
リビングに入った。
広い。無駄に広い。
テーブルの上には、昨日の夜にウーバーで頼んだパスタの容器がまだ置いてある。
片付け忘れた。里紗は舌打ちして、容器をキッチンのゴミ箱に突っ込んだ。
蛇口をひねる。水の音がリビングに響く。
冷蔵庫を開けた。コンビニのサラダ。ペットボトルのお茶。デザート用のプリン。
食材はそこそこ入っている。お金はあるから、いつでも買い足せる。
でも——作る気力がない。
今日もウーバーでいいや。
里紗は制服のまま、リビングのソファに座った。
ブレザーを脱いで、隣に放る。
ブラウスのボタンを一つ外した。
——学校では「攻めてる」と言われるボタンだ。
でも家に帰れば——ただ、楽になりたいだけ。
スマホを開いた。
LINEの通知。クラスのグループ。友達からの個別メッセージ。
『今日ユイに怒られたってほんとー?w』
『あの風紀委員マジ怖いよねーw』
里紗は返信を打った。
『あー笑 ボタンしめろって言われた笑 まじまじめ笑』
送信。
スタンプが返ってきた。笑ってるうさぎ。
里紗はスマホを裏返しにして、天井を見た。
シーリングライトが——白い光を落としている。
天井のクロスは真っ白で、染み一つない。築浅だから当然だ。
静かだ。
テレビもつけていない。音楽もかけていない。
この静けさが——一日の中で、一番しんどい。
学校では「明るいギャル」でいられる。
からかわれても、噂されても、男に絡まれても——笑い飛ばせる。
強い自分でいられる。
でもここには——観客がいない。
笑い飛ばす相手もいない。強くある理由もない。
里紗はソファに横になった。
ブラウスの裾がめくれて、腹が出る。白い肌に、ほんの少しだけ脂肪がついた柔らかい腹。
スカートの裾が太腿の上まで上がって——でも直す気にもならない。
(……さむ)
六月なのに——夜のマンションは、少し寒い。
エアコンのリモコンに手を伸ばしかけて——やめた。
一人のために部屋を暖めるのが、なんだか虚しくなった。
里紗は膝を抱えて、丸くなった。
小さな身体——ではない。167センチ。スレンダー。胸がそこそこ。
でも今、ソファの上で丸くなっている里紗は——小さく見えた。
(一人で生きてかなきゃ)
これは——里紗が中学二年の頃から、ぼんやりと思い始めたことだ。
お父さんの出張が増えた。二ヶ月に一度が、月に一度になった。
お母さんが介護で家を空けるようになった。
「ごめんね、里紗。お金は振り込んでおくから」——電話越しの母の声。
毎月の振込額は充分すぎた。服も買える。外食もできる。友達と遊ぶ金にも困らない。
困らない。何も困らない。
——お金では、何も。
里紗は目を閉じた。
弱く見られたくない。
寂しそうだと思われたくない。
「親がいないから構ってほしいんでしょ」——そう言われたくない。
だから——強い格好をした。
男に臆さない態度を見せた。
からかわれても笑い返した。
「アタシは一人でも平気」——そう見せた。
見せた。ずっと。
里紗はソファの上で、膝を抱えたまま目を開けた。
リビングのテーブルには——里紗の鞄だけ。
玄関には——里紗のローファーだけ。
広いリビングに——里紗の気配だけ。
部屋は綺麗で、物も揃っていて、お金もある。
なのに全部——里紗だけ。
(……別に。慣れてるし)
さっきも同じことを思った。
男に絡まれた時。塀にもたれかかった時。
慣れてる。
慣れてるから——平気。
里紗はスマホを拾い上げた。
画面が光る。LINEのグループが動いている。
スタンプと短文が飛び交う。誰かが明日の持ち物を聞いている。誰かが好きなアイドルの画像を貼っている。
里紗は——返信しなかった。
スマホを胸の上に置いて、天井を見た。
シーリングライトの白い光が——目に沁みた。