放課後の裏門は、人通りが少ない。
正門と違って部活帰りの生徒くらいしか使わない。
街灯も少なくて、六月の夕方でも薄暗い影が落ちている。
里紗はイヤホンの片耳だけを外して、裏門を出た。
今日は友達と帰るタイミングが合わなかった。
——というのは嘘で、一人になりたかっただけ。
裏門を出てすぐの路地。
塀と塀の間の、車一台分しかない細い道。
——また、いた。
二人組。
見覚えがある。三日前に絡んできた他校の連中とは別だが、同じ匂いがする。
だらしなく着崩した制服。片方は煙草を吸っている。もう片方はスマホをいじりながら壁にもたれている。
里紗が通りかかった瞬間——目が光った。
「おー、待って待って。ねえ、ちょっと」
来た。
里紗は足を止めなかった。
イヤホンをしているフリで、まっすぐ前を見て歩く。
「聞こえてんでしょ。ねえ、可愛いじゃん。ちょっと話そうよ」
横に並ばれた。
煙草の煙が鼻をつく。
もう片方が——里紗の前に回り込んだ。道を塞がれる。
「なあ、無視すんなって。一緒に飯でも行こうぜ」
にやにや笑っている。目は里紗の脚を舐めるように見ている。着崩した制服のスカートから伸びた太腿を。胸元のボタンが一つ外れたブラウスの隙間を。
里紗は——足を止めた。
「邪魔なんだけど」
声は平たかった。怯えてはいない——少なくとも、そう見せている。
「冷たいなー。そのスカートの短さで誘ってんのかと思ったのに」
「は? お前の目が腐ってんだよ。どけ」
里紗が男の横を通り抜けようとした時——腕を掴まれた。
「つれないなー。もうちょっとさあ——」
指が——里紗の手首に食い込む。力が強い。
里紗の心臓が跳ねた。
——でも顔には出さない。絶対に。
「離せって言ってんだけど」
声は——少しだけ震えていた。
ほんの少し。自分にしか分からないくらい。
男の顔が近づく。煙草の匂い。吐息。
「ちょっとだけ——」
「おい」
声が——割って入った。
男二人の背後から。低い声。でも怒鳴っているわけじゃない。
さりげなく、でも有無を言わせないトーン。
里紗の手首を掴んでいた男が振り返る。
——結城リト。
制服のブレザーを肩にかけて、鞄を片手にぶら下げている。
少し癖のある髪。整った顔。
今——笑っていなかった。
「何してんの?」
リトが言った。
男二人に向けて。静かに。
「は? 誰だよお前」
煙草の男が里紗から手を離して、リトに向き直った。
「関係ないだろ、引っ込んでろよ」
リトが——半歩、前に出た。
「同じ学校の子だから。関係あるよ」
声の温度が——一段下がった。
笑顔の残滓もない。
里紗が知っている「爽やかな結城リト」とは、まるで別人のような目。
煙草の男が舌打ちした。
「チッ——彼氏かよ」
「違うけど。だから何?」
リトが——もう一歩、前に出た。
男二人との距離が一メートルを切る。
空気が——変わった。
里紗の背筋に、ぞくっとしたものが走った。
リトの目が——据わっている。本気だ。
煙草の男がリトを睨んだ。リトは動かなかった。
数秒——沈黙。
「……チッ、つまんねー」
煙草の男がそう吐き捨てて、もう片方の肩を叩いた。
二人は——舌打ちしながら、路地の奥に消えていった。
里紗は——その場に立ったまま、息を吐いた。
リトが振り返った。
「大丈夫?」
爽やかな笑顔——ではなかった。
心配そうな顔。眉が少し下がっている。
「……別に」
里紗の声は——まだ、少しだけ硬かった。
「手首、掴まれてたけど。痛くない?」
リトの視線が——里紗の右手首に落ちた。
赤い指の跡が、うっすらと残っている。
「平気だし。アタシ、この手のやつには慣れてるから」
里紗は手首を背中に隠した。
「慣れてるって……」
リトが——少しだけ眉を寄せた。
「毎回こういうの?」
「毎回じゃないけど、まあ、たまにね。見た目がこうだから。勝手に寄ってくんの」
里紗はスカートの裾をぴっと引っ張った。短い。自分でも分かってる。
「見た目関係ないでしょ。あいつらが悪い」
「……は?」
里紗が——リトを見た。
リトは——当たり前のように言った。
「籾岡がどんな格好してても、嫌がってるのに腕掴むのは普通にアウトだろ」
里紗は——一瞬だけ、言葉を失った。
(……何、それ)
「籾岡の見た目のせい」——そう言われると思った。
「そんな格好してるから声かけられんだよ」——そういう反応が来ると思った。
だって、いつもそうだから。親にも。先生にも。風紀委員にも。
なのにリトは——里紗の格好には触れなかった。
ただ「あいつらが悪い」と言った。
「……ふーん」
里紗は視線を逸らした。
唇を尖らせる。いつもの表情。余裕のある、生意気な顔。
「まあ、ありがと。助かったわ」
「ん。帰り道、途中まで一緒に行く? 同じ方向っぽいし」
「いい。一人で帰れるし」
里紗は手をひらひらと振って、歩き出した。
「じゃーね、結城」
背中を向ける。振り返らない。
——振り返ったら、何か余計なことを言ってしまいそうだったから。
五歩。十歩。
「籾岡」
リトの声が追いかけてきた。
里紗は——足を止めた。振り返らないまま。
「その格好、似合ってると思うよ」
——。
里紗の足が止まった。
ぱっ、と頬が熱くなった。
背中からリトの視線を感じる。
(……は? 何言ってんの、あいつ)
「は——はぁ? キモいこと言ってんじゃないわよ」
声が——裏返った。
しまった。噛んだ。
リトが——後ろで笑った気がした。
気配だけ。声は聞こえなかったけど。
里紗は早足で——ほとんど小走りで——路地を曲がった。
曲がった先で——立ち止まった。
心臓がうるさい。
頬が熱い。耳も熱い。
(やだやだやだ。何あれ。何あの台詞。ドラマかよ)
里紗は両手で顔を覆った。
似合ってる——って。
この格好が——似合ってるって。
(……褒められたの、初めてかも)
この格好を。短いスカート。開いた胸元。着崩した制服。
「直せ」「だらしない」「そんな格好するから」——そう言われるための服装だと、自分でも思っていた。
なのに——似合ってる、と。
(いやいやいや。結城だよ? ヤリチンの結城だよ? こういうの、手口じゃん。女の隙を突くための台詞じゃん)
里紗は頭を振った。
振ったけど——心臓は、まだ速かった。
*
翌日の昼休み。
屋上に続く階段の踊り場で、里紗は友達二人と弁当——コンビニのおにぎりとサラダだったが——を食べていた。
「ねー、聞いた? 結城の新しい噂」
友達のユカが、おにぎりを頬張りながら言った。
「また? あいつ噂ばっかじゃん」
里紗は——いつも通りの声で返した。
「今度はさー、先生とやってるんじゃないかって。ティアーユ先生」
「先生と? まじ?」
もう一人の友達、マイが目を丸くした。
「あのおっとりした先生? ないでしょ」
「でもさー、放課後に特別教室棟で二人きりだったの見た子がいるんだって。結城が先生の手を引っ張ってたとか」
「うっわ、最低。先生にまで手出すとかマジありえない」
マイが顔をしかめた。
ユカもうんうんと頷いている。
「ほんと結城って最低だよね。顔だけは良いくせに中身クソっていう」
「ね。ああいう男が一番タチ悪い」
里紗は——おにぎりの包装を剥きながら、二人の会話を聞いていた。
いつもなら——ここで里紗も乗る。
「結城って最低だよね、マジ」——口癖みたいに言ってきた。
でも——今日は。
「……それって、ほんとに見たの? その子」
里紗が言った。
声のトーンが——いつもと少し違った。
ユカとマイが、ちらっと里紗を見た。
「え? うん、見たって言ってたけど」
「手を引っ張ってただけでしょ? それだけで『やってる』って決めつけんのは、ちょっと雑じゃない?」
里紗の口調は——軽い。
いつものギャルっぽい口調。でも——言っている内容が、いつもと違う。
「え、籾岡が結城かばうの? 珍しくない?」
マイが首を傾げた。
「かばってないし。ただ、噂って結局誰かの妄想じゃん。見た目で判断して、勝手にストーリー作って。それって——」
里紗は——一瞬、口を閉じた。
(——アタシが、されてることと同じじゃん)
見た目で判断される。勝手にストーリーを作られる。
「ギャルだから遊んでる」「着崩してるから男慣れしてる」「ナンパされる方にも原因がある」。
結城リトも——同じなんじゃないか。
顔が良くて、女の子と仲がいいだけで、勝手に「ヤリチン」にされてるんじゃないか。
(……分かんないけど)
「——ま、アタシは見てないから何とも言えないだけ。別にかばってるわけじゃないし」
里紗はおにぎりをぱくっと頬張って、話を切った。
ユカとマイは顔を見合わせたが——深くは追及しなかった。
里紗は——おにぎりを噛みながら、昨日のことを思い出していた。
あの路地。手首を掴まれた瞬間。
リトが割って入ってきた時の——あの声。
「関係ないだろ」と言われた時、「同じ学校の子だから」と返した。
あの時のリトの目は——ヤリチンの目じゃなかった。
(……噂って、あてにならないよね)
里紗は——そう思った。
まだ——「思い始めた」くらいのところで。
*
五時間目が終わった後の休み時間。
里紗が廊下を歩いていると——後ろから声がかかった。
「籾岡」
振り返ると——結城リトがいた。
「あ」
里紗の口から——間抜けな声が漏れた。
リトは——いつもの爽やかな笑顔だった。
昨日の、あの据わった目とは全然違う。太陽みたいに明るい。
「昨日のあれ、その後大丈夫だった?」
「あー……うん。別に何もないし」
里紗は髪を弄った。毛先をくるくる巻く。癖だ。
「手首、跡残ってない?」
「残ってないって。大げさだなー」
リトが——里紗の右手首をちらっと見た。
里紗は反射的に手首を隠した——隠してから、隠す必要なかったと思った。
「あのさ、昨日通報した方がいいかなって思って。あの辺、結構あいつら出没してるっぽいし」
「通報? 結城がしたの?」
「うん。帰ってから交番に寄って、裏門付近に不審者がいるって言っておいた」
里紗は——目を丸くした。
「え、わざわざ?」
「うん。ついでだったし」
ついで——と言ったが、裏門からリトの家の方向とは逆だ。
里紗はそれを知っていた。リトが正門側から通学していることくらい、同じ学校にいれば分かる。
(わざわざ……反対方向の交番に寄ったってこと?)
「ていうか、交番に行ったってことは——遠回りしたでしょ」
「まあ、ちょっと」
リトがさらっと言った。
さらっと——まるで大したことじゃないように。
「……バカじゃないの」
里紗の声が——小さくなった。
「え?」
「いや——だから、別にそこまでしなくても良かったのに。アタシのことで、結城が手間かけることないじゃん」
「手間じゃないよ。放っておいて籾岡がまた絡まれたら嫌だし」
——嫌だし。
その言い方が——あまりにも自然で、里紗は返す言葉を失った。
「じゃ、また」
リトが手を上げて、教室に戻っていった。
里紗は廊下に立ったまま——数秒、動けなかった。
(……なに、あいつ)
心臓がうるさい。
また。昨日と同じだ。
「嫌だし」——その一言が、里紗の胸の真ん中に引っかかっている。
引っかかって、取れない。
(ヤリチンの手口。女の隙を突くための台詞。……そうだよね?)
そう思おうとした。
でも——リトの目を思い出す。昨日、あの男たちの前に立った時の目。今日、廊下で「手首大丈夫?」と聞いてきた時の声。
(……噂って、ほんとにあてにならないのかも)
里紗は——そう思い始めていた。
*
放課後。
里紗は昇降口のベンチに座って、靴を履き替えていた。
すぐ隣に——リトが立った。
自分の靴箱からローファーを出している。
「お、籾岡。お疲れ」
「……お疲れ」
近い。距離が近い。
リトが靴を履き替えながら——里紗の方を見た。
「今日、帰り裏門?」
「……なんで?」
「いや、あの交番にちゃんと巡回してくれるか確認しに行こうと思って。一緒に行く?」
「一緒に……」
里紗の心臓が跳ねた。
(落ち着け。ただの帰り道だから。別に——)
「べっつに、一緒じゃなくてもいいし。勝手に行けば?」
「そう? じゃ、先に行くわ」
リトがあっさり歩き出した。
あっさりすぎる。
もう少し——もう少し食い下がってくると思った。
ヤリチンなら——しつこく誘うはずじゃないのか。
なのに——あっさり。
里紗は靴を履き替え終えて——リトの背中を見た。
もう昇降口の外に出ている。
(……ったく)
里紗は立ち上がって——リトの後を追った。
「ちょっと、待ちなさいよ」
リトが振り返った。
「ついてくけど——別にアンタと帰りたいわけじゃないから。たまたま同じ方向なだけだから」
「うん、分かってる」
リトが——笑った。
あの爽やかな笑顔。
里紗は顔を背けた。
耳が熱い。
(アタシ、何やってんの)
二人で裏門を出た。
あの路地を通る。昨日、男に腕を掴まれた場所。
今日は——誰もいなかった。
「いないね」
リトが周囲を見回した。
「当たり前でしょ。昼間だし」
「でも一応ね」
リトが——路地の先を覗き込んだ。
その横顔を、里紗は見ていた。
少し癖のある前髪。まつ毛が長い。横顔の輪郭が——整っている。
(……顔は、ほんとに良いんだよな)
認めたくないけど。客観的事実として。
「大丈夫そうだね。交番にも言ってあるし、しばらくは巡回してくれると思う」
「ん。ありがと」
里紗の声が——小さかった。
自分でも驚くくらい、素直な「ありがとう」だった。
リトが——里紗を見た。
「籾岡って、ありがとって言う時だけ声小さくなるよな」
「っ——うるさい! 小さくない!」
里紗がリトの肩をばしっと叩いた。
リトはよろけたフリをして、へらっと笑った。
(こいつ——)
なんだろう。この距離感。
馴れ馴れしくて——でも不快じゃない。
ぐいぐい来るけど——押し付けがましくない。
里紗は——気づかないうちに、笑っていた。
口の端が上がっている。いつものにやにやした笑いじゃなく——もっと自然な、力の抜けた笑み。
「——ね、籾岡」
リトの声が——少し変わった。
里紗は顔を上げた。
リトが——近い。
半歩分。さっきまでより、半歩分だけ近い。
「何——」
リトの手が——里紗の髪に伸びた。
「葉っぱ、ついてる」
指先が里紗の耳の横を掠めた。
明るい茶色のセミロングを、さらり、と指が通り抜ける。
里紗は——動けなかった。
「取れた」
リトが——小さな葉っぱを摘んで見せた。
桜の枯れ葉。もう茶色くなったやつ。
「……ぁ、ありがと」
(葉っぱ——本当に、葉っぱだった)
里紗は胸を撫で下ろした。
何を想像したんだ。何を警戒したんだ。
ヤリチンだから何かしてくると思った——でも、ただ葉っぱを取ってくれただけで。
(やっぱり——噂は、噂なんだ)
里紗は——そう確信しかけた。
結城リトは、噂ほどひどい奴じゃない。
ナンパから助けてくれて。交番に通報してくれて。見た目を褒めてくれて。
優しくて——爽やかで——距離感が心地よくて。
噂なんて——嘘じゃん。
里紗がそう思った——その瞬間。
リトの手が——里紗の背中に触れた。
「——え?」
掌が——里紗の背中の中央に置かれていた。
ブラウス越し。指の温度が——伝わってくる。
「ちょ——結城?」
声が——ひっくり返った。
リトの手が——ゆっくりと、里紗の背中を下に滑った。
肩甲骨の間から——腰のカーブに向かって。
指先が、ブラウスの布地を僅かに引くように——なぞる。
里紗の背筋を、電流のようなものが走った。
「なっ——何、して——」
リトの手が——里紗の腰に回った。
横腹に指が触れる。引き寄せるように。
里紗の身体が——リトの胸に、半歩分だけ近づいた。
「離——」
言いかけた。
離せ、と。
でも——声が、出なかった。
リトの腕が——里紗の腰に回っている。
抱き寄せるほど強くはない。でも——離れることを許さない程度の力。
里紗の心臓が——破裂しそうなほど速かった。
リトの顔が——近い。
吐息が——里紗の額にかかっている。
「籾岡」
低い声。廊下で聞くのとは違う。
もっと——近い場所で鳴る、鼓膜を震わせる声。
里紗の身体が——熱い。
リトの手の温度が、ブラウス越しに腰の皮膚を焼いている。
(やだ——なに——これ——)
抱き締められると気持ち良くなる。
性感帯——なんて言葉は知らないが、里紗の身体は知っていた。
腰に手を回されて——引き寄せられて——密着しかけたその瞬間から、膝の力が抜け始めている。
「はな……して……」
声が——甘くなっていた。
自分で分かった。抵抗の言葉なのに——声が、震えて、甘い。
リトの指が——里紗の腰で、くいっと布地を握った。
里紗の腰が——びくっと跳ねた。
(うそ——なんで——こんな——)
抵抗しなきゃ。
突き飛ばさなきゃ。
——できない。
リトの腕の中で——里紗の身体は、力を失い始めていた。