朝の廊下は、いつも戦場だ。
唯にとって——学校とは、視線と戦う場所だった。
昇降口から教室まで、約三分の道のり。
その三分の間に、唯は少なくとも五回は男子の視線を浴びる。
最初は廊下ですれ違う二年の男子。目線が——胸に行って、顔に戻る。
次に階段を上る時、後ろにいた男子。目線が——お尻に行って、逸らされない。
教室の前で立ち話をしている男子グループ。唯が通ると、一瞬だけ黙って、通り過ぎてからひそひそ話が始まる。
「古手川って、やっぱスタイルすげーよな」
「あの胸で風紀委員はずるい」
「お尻もヤバくない? スカートの形でわかんだけど」
聞こえている。全部、聞こえている。
唯は背筋を伸ばしたまま、前を向いて歩いた。
制服はきっちり着ている。ブラウスの第一ボタンまで留めている。スカートは規定丈。
なのに——B88の胸がブラウスを内側から押し上げて、ボタンの隙間から肌色が覗く。
お尻の膨らみがスカートの布地を引っ張って、歩くたびにヒップラインがくっきりと揺れる。
(……私は、ちゃんと着ているのに)
ちゃんと着ていても——身体が、制服に収まらない。
それが苛立たしい。自分の身体が——自分の意思に反して、男の視線を集めてしまう。
教室に入った。
席に着く。鞄を机の横に掛ける。
「おはよ、古手川さん」
隣の席の女子が声をかけてきた。
唯は微笑んで「おはよう」と返した。
「ねえ聞いた? また結城くんの噂」
——また。
唯の眉が、僅かに動いた。
「今度は何?」
「なんかね、籾岡さんとできてるんじゃないかって。最近あの二人、帰る時間が同じらしいよ」
籾岡里紗——と——結城リト。
唯は——一瞬、言葉を失った。
「籾岡さん? あのギャルの——?」
「うん。なんか最近、籾岡さんの格好もすごいことになってるじゃない? あれって結城くんの影響なんじゃないかって」
唯の脳裏に——籾岡の姿が浮かんだ。
へそ出しのブラウス。限界のスカート。胸元が大きく開いた制服。
あの格好が——結城くんの影響?
(まさか——あの籾岡さんまで——?)
唯は唇を引き結んだ。
今度は——籾岡里紗?
(結城くんの周りで、おかしくなっていく女の子が——増えている——)
唯の胸の奥で、冷たいものがぎゅっと締まった。
*
昼休み。
唯は風紀委員の腕章をつけて、校内の見回りに出た。
一人で歩く。いつもの巡回ルート。
二階の廊下を曲がった時——見つけた。
籾岡里紗。
廊下の窓際にもたれて、スマホをいじっている。
制服は——案の定、ひどい有様だった。
スカートは太腿の付け根が見えるほど短い。
ブラウスの裾はスカートから出ていて、へそが丸見え。白い腹が廊下の蛍光灯に照らされている。
胸元のボタンは二つ外れていて、黒いブラジャーのレースが僅かに覗いている。
ブレザーは肩から落ちかけて、片腕しか通していない。
そして——腰骨の上に、黒い紐が見えた。
スカートの上からちらりと覗く——Tバックの紐。
唯は歩み寄った。
「籾岡さん」
風紀委員の声。ぴしっとした声。
籾岡がスマホから顔を上げた。
「あ、ユイじゃん。お疲れー」
にへら、と笑う。前にも見た、あの軽い笑顔。
「お疲れじゃないわ。その格好——前より酷くなってない?」
唯は籾岡の全身を見下ろした。指を折る。
「スカートが短すぎ。ブラウスが出てる。ボタンが外れてる。下着が見えてる。——四点」
「え、下着見えてる? どこどこ?」
籾岡が自分の腰を見下ろした。Tバックの紐が——がっつり見えている。
「ここ。この紐」
「あー、これ? Tバックだからしょうがないんだよねー。普通のパンツだとスカート短いから見えちゃうし」
悪びれもしない。
「Tバックを履いてくること自体が問題なの!」
「えー、でもさあ、パンツのライン響くのもダサいじゃん? ユイだってそういうの気にしない?」
「気にしないわよ! 私は規定通りの——」
「ほんとに? ユイのお尻ってめちゃくちゃ大きいじゃん。普通のパンツで透けない? スカートの上からラインくっきりだけど」
「っ——」
唯の頬が——かっと赤くなった。
籾岡の目が——唯のお尻を見ている。にやにやしながら。
「あとさ、ユイの胸ってDどころじゃないでしょ。Fくらいある? ブラウスぱっつんぱつんだもんね」
「わ、私の体型の話はしてないでしょう!」
「してるしてる。だってユイもさ、なんだかんだエロい身体してんのに、それ隠してるのって逆に男の目引くっていうか——」
「引かないわよ!」
「引くって。ていうかさ——」
籾岡が——にやっと笑った。
いつもの軽い笑顔とは少し違う。少しだけ——意地悪な笑顔。
「ユイってさ、そのガード固い感じが逆に——男好きしそうっていうか。男の方からしたら、崩したいって思うタイプじゃない?」
「——は?」
唯の思考が——一瞬、止まった。
崩したい。
ガードが固いから——崩したい。
(崩す——って——)
唯の脳裏に——一瞬だけ、映像が閃いた。
壁に押し付けられて。ブラウスのボタンを外されて。
「破廉恥な!」と叫びながら——88センチの胸を、大きな手で——。
スカートの中に手を入れられて——お尻を掴まれて——。
その「大きな手」の持ち主の顔が——。
(——っ!!!)
唯は首を横に振った。激しく。
「な、何を馬鹿なことを言って——そんなこと、あるわけないでしょう!」
声が裏返った。顔が真っ赤になっている。耳まで熱い。
籾岡が——けらけらと笑った。
「うっわ、顔真っ赤。ユイ、もしかして今なんか想像した?」
「してないっ! 絶対にしてないっ!」
「絶対にって言うやつ、だいたいしてるんだよねー」
「っ——籾岡さんっ!」
唯が一歩詰め寄ると、籾岡はひらひらと手を振って後ずさった。
「はいはい、ごめんごめん。ブラウス直せばいいんでしょ? へそ、しまいまーす」
籾岡がだらだらとブラウスの裾をスカートに押し込みながら、「じゃーねー、ユイ」と手を振って去っていった。
唯は廊下に一人残された。
心臓がまだ速い。
頬がまだ熱い。
(籾岡さんに——からかわれただけ。それだけ。深い意味はない)
唯は深呼吸した。
「崩したいタイプ」——その言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
そしてさっき一瞬だけ脳裏に閃いた——あの映像。
あの「大きな手」の持ち主。
唯は——考えないようにした。
考えないようにして、巡回報告書を胸に抱えて、歩き出した。
ローファーの音が——誰もいない廊下に響いた。
*
五時間目の終わりに、唯は頭が痛くなった。
痛い——というほどではない。
ずきん、とこめかみの奥で鈍い拍動がするだけだ。
疲れているのかもしれない。最近、ちゃんと寝ていない。
原因は分かっている。
結城リト。
あの男のことを考えると——頭痛がする。
噂の数が、もう数えきれない。
全員が——あの男と何かがあるかもしれないと囁かれている。
全員が——少しずつ、何かが変わっている。
なのに——証拠がない。
誰も「結城くんにこうされた」とは言わない。
むしろ逆だ。名前を出すと——庇う。褒める。話を逸らす。
(……守っている? あの男のことを?)
唯はこめかみを押さえた。
考えるだけで——苛々する。
あの爽やかな笑顔。あの自然な距離感。女の子の隣にいても不自然じゃない、あの空気。
(あんな男が——どうして——)
唯は席を立った。頭痛薬をもらいに行こう。保健室に。
*
保健室のドアをノックした。
「はい、どうぞー」
聞き慣れた声。穏やかで、少しだけ気だるい。
唯はドアを開けた。
保健室の中は——いつも通りだった。
消毒液の匂い。白いカーテンで仕切られたベッド。デスクの上に広げられたカルテ。
窓から差し込む午後の日差しが、白い空間をぬるく照らしている。
御門涼子先生が——デスクの椅子に座っていた。
白衣。その下に、ピンクのノースリーブシャツ。胸元が大きく開いていて、谷間が——惜しげもなく覗いている。
超ミニのタイトスカート。座った状態だと、太腿がほぼ全部見えている。腿丈のストッキングの境界線——素肌とナイロンの境目が、椅子の縁でくっきりと分かれていた。
唯は——一瞬だけ、御門先生の身体を見た。
Hカップ。
その数字を、唯は知っている。保健室の身体測定データを整理する手伝いをした時に——先生のデータが目に入ってしまったのだ。
自分のB88でも持て余しているのに——95。しかもウエスト58。ヒップ91。
グラマラスという言葉では足りない。妖艶——という言葉がこれほど似合う人を、唯は他に知らない。
栗色のショートボブ。薄緑の知的な目。整った顔立ち。白くきめ細かい肌。
二十六歳。
大人の女。完成された美。
「あら、古手川さん。どうしたの?」
御門先生が——にっこりと笑った。
穏やかな笑顔。包み込むような。
「頭が少し痛くて……頭痛薬をいただけますか」
「もちろん。座って待ってね」
御門先生が椅子から立ち上がった。
白衣の裾が揺れて——タイトスカートに包まれたヒップラインが、ぷりんと揺れた。
薬棚に向かう背中。ストッキングに包まれた長い脚。ヒールの音がこつこつと保健室に響く。
唯は——ベッドの縁に座って、御門先生の後ろ姿を見ていた。
(……先生は、大丈夫よね)
ふと——思った。
御門先生。この学校でもっとも美しい教師。
妖艶で、大人の余裕があって、生徒からの信頼も厚い。
こんな先生が——結城くんなんかに。
唯の中で——邪推が、頭をもたげた。
御門先生は——男性経験が、あるのだろうか。
二十六歳。独身。美人。スタイル抜群。
男が放っておくはずがない。合コンでも街でも、声をかけられない日はないだろう。
でも——御門先生は、プライベートの話をほとんどしない。
恋人がいるという話は聞いたことがない。休日に誰かと出かけているという噂もない。
(もしかして——男性経験が少ないのかしら)
唯は自分の邪推に少し罪悪感を覚えながらも——考えてしまった。
あの完璧な容姿。あの妖艶な身体。
なのに——いつもニコニコと穏やかで、色気をひけらかすようなことはしない。
生徒に対しても公平で、誰に対しても優しい。
(先生は——ちゃんとしている人だもの)
御門先生が——薬と水の入った紙コップを持って戻ってきた。
「はい、これね。食後に飲んだ方がいいから、お昼食べた?」
「はい、食べました」
「じゃあ大丈夫ね。無理しないでね、古手川さん」
御門先生が——唯の隣に座った。
ベッドが少し沈む。白衣の裾が唯の腕に触れた。
近い。
でも——嫌な近さではなかった。
お母さんのような——安心する近さ。
唯は薬を口に含んで、水で流し込んだ。
「最近、疲れてるみたいね。何か心配事でもある?」
御門先生の声は——穏やかだった。
唯を見る薄緑の目は——柔らかくて、温かい。
唯は——一瞬だけ、言いかけた。
結城くんのこと。噂のこと。みんなが変わっていくこと。
でも——言わなかった。
「いえ……少し寝不足で。風紀委員の仕事が立て込んでて」
「もう、真面目なんだから。ちゃんと休むのも仕事よ?」
御門先生が——唯の頭をぽんっと撫でた。
大人の手。柔らかくて、温かい。
唯は——少しだけ、肩の力が抜けた。
(——やっぱり。先生は大丈夫)
御門先生は——いつも通りだ。
穏やかで、優しくて、大人の余裕がある。
あの笑顔に——裏はない。唯はそう信じた。
結城くんの噂が学校中を蝕んでいても——この保健室だけは、安全だと。
「ありがとうございます、先生」
唯は立ち上がった。
「いつでもおいで。保健室は古手川さんの味方よ」
御門先生が——にっこりと笑った。
あの妖艶な容姿に、全く似つかわしくない——柔らかい、母親のような笑顔。
唯は保健室のドアを閉めた。
廊下に出ると——さっきより、少しだけ頭痛が和らいでいた。
(先生に話を聞いてもらって、楽になったのかも)
唯は風紀委員の腕章を直して、歩き出した。
御門先生は大丈夫。
あの先生は——結城くんなんかに、揺らがない。
唯は——そう信じていた。
信じていたかった。
保健室のドアの向こうで——御門先生がどんな表情をしているか、唯は知らない。
唯が去った後の保健室で——先生のスマホが震えたことも、知らない。
画面に表示された名前を見た瞬間——御門先生の薄緑の目が、ほんの一瞬だけ揺れたことも。
唯は——知らない。
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