鏡の前に立つのが、嫌いじゃない。
朝。シャワーを浴びた後の、まだ湿った身体。
栗色のショートボブから雫が一筋、鎖骨を伝って——胸の谷間に消えた。
私は——鏡に映る自分を、静かに見つめた。
白い肌。きめ細かくて、二十六にしては張りがある。
鎖骨のラインは綺麗に浮いていて、首筋から肩にかけての曲線が滑らかに流れている。
腰がきゅっと締まって、そこから臀部へと膨らむシルエット。
そして——胸。
Hカップ。
数字で言うと生々しいけれど——事実だ。
重力に逆らって丸みを保っているこの胸は、遺伝と体質に恵まれた結果に過ぎない。
自慢するつもりはない。でも——卑下する気もない。
これが私の身体。御門涼子の身体。
二十六年間、一度も他人に明け渡したことのない——私だけのもの。
タオルで髪を拭きながら、クローゼットを開けた。
今日のインナーは——ピンクのノースリーブ。胸元が大きく開いたやつ。
ボトムスは超ミニのタイトスカート。黒。
腿丈のストッキングを通して、白衣を羽織る。
下着は——着けない。
昔からそう。ブラジャーの締め付けが嫌い。ショーツのラインが服に響くのも嫌い。
面倒くさいのよ、あれは。
玄関の姿見で最終チェック。
白衣の裾からタイトスカートのヒップラインがくっきり見えている。ノースリーブの胸元からは谷間がたっぷりと覗いている。ストッキングの太腿の境界線が、スカートの裾からちらりと見える。
——うん。いい女だわ。
自分で言うのもどうかと思うけれど。
鏡に映る自分が好きだ。嫌いになったことがない。
髪型も、顔立ちも、身体も——全部、私のものだから。
誰かに見せるためじゃなく、自分が「これでいい」と思える自分でいたい。
コーヒーを一杯だけ飲んで、家を出た。
*
彩南高校の保健室。
ここが——私の城。
白いカーテン。消毒液の匂い。デスクの上のカルテの山。
窓から入る日差しが、白い空間をぬるく照らしている。
私はデスクチェアに座って、コーヒーを啜った。
インスタントじゃない。豆から挽いた、ちゃんとしたやつ。保健室に自前のミルとドリッパーを持ち込んでいる。
養護教諭が保健室でコーヒーを淹れるのは規約違反かもしれないけれど——まあ、誰も文句は言わない。
この学校での私の立ち位置は——わかっている。
「御門先生って、マジで美人」
「あの胸ヤバくない? 先生なのにエロすぎ」
「でも優しいし、相談しやすいよね」
「話聞いてくれるし、怒らないし」
「御門先生がお嫁さんだったらなー」
——全部、聞こえている。保健室の壁は薄いのよ。
生徒たちからの評価は——悪くない。
「妖艶な美人」で「優しい先生」。保健室に来やすい雰囲気を作っているつもりだし、実際にそうなっている。
男子生徒は私の身体をじろじろ見るけれど——慣れた。中学の頃からずっとそうだったから。
視線を気にしていたらきりがない。気にしないと決めたのは、もう十年以上前のこと。
教師陣からの評価も——まあまあ。
「御門先生は有能だけど、あの格好はちょっと……」という声があるのは知っている。
でも——これが私のスタイルなの。着たい服を着る。それだけ。
医師としてもしっかり仕事をしているし、検診データの管理は誰よりも正確だし、生徒の相談記録もちゃんと残している。
見た目で判断されるのは面倒だけれど——実績で黙らせればいい。
コーヒーを一口。
苦みが舌の奥に広がって、頭がすっきりする。
——私は、いい女よ。
別に自惚れじゃない。客観的事実。
容姿は恵まれている。頭も悪くない。医師免許も持っている。仕事もできる。
二十六歳、独身。彼氏なし。
……彼氏、なし。
窓の外を見た。
校庭で体育の授業をしている生徒たちが、小さく見える。若い身体が跳ねている。
二十六年間——私は、自分の身体を誰にも渡していない。
恋愛経験が少ないわけじゃない。
告白されたことは——数えきれないくらいある。中学で五回。高校で十二回。大学で……もう覚えていない。
社会人になってからも、合コンに誘われたり、患者さんに連絡先を渡されたり。
でも——どれも、違った。
顔がいいだけの男。ステータスを自慢する男。私の胸ばかり見る男。
「御門さんって綺麗ですよね」と言いながら、目が身体に張り付いている男。
全部——違う。
私が求めているのは——そういうのじゃない。
理想が高いのは、わかっている。
でも——妥協したくない。この身体も、この心も、「この人になら」と思える相手にだけ渡したい。
そう思える人が現れないなら——一生独身でいい。
本気でそう思っている。
寂しくないと言えば嘘になるけれど——寂しさで妥協するほど安くはないつもり。
帰宅すれば一人きりのマンション。テレビの音だけが響くリビング。シングルベッドの広さ。
それでも——自分を安売りするよりはずっといい。
いい女でいたい。
誰かのためじゃなく、自分のために。
自分が自分を好きでいられるように——今日も白衣を纏って、背筋を伸ばして、保健室の椅子に座る。
それが——御門涼子という女の生き方。
*
午前中の保健室は静かだった。
一年生の女子が腹痛で来たのと、三年生の男子が擦り傷の処置に来たくらい。
カルテを整理しながら——ふと、思い出した。
結城リト。
あの名前を聞かない日が、最近ない。
「結城くんと誰々が付き合ってるらしい」
「結城くん、また女の子と帰ってたって」
「あの子も結城くんに——」
職員室でも、廊下でも、保健室に来る生徒の口からも——あの名前が出てくる。
最初は「また男子高校生の色恋沙汰か」と聞き流していた。
でも——噂の量が、異常だ。
一人、二人じゃない。名前が挙がる女子生徒の数が——五人、六人と増えていく。
しかも噂の相手は同級生だけじゃなく、下級生まで含まれている。
十六歳の男の子が——そんなに多くの女の子と関係を持っている?
(……まさかね)
私は苦笑した。
高校生の噂なんて、尾ひれがつくものよ。一つの出来事が十倍に膨らんで広がる。
結城くんが少し顔がいいから、女子と話しているだけで噂になる——そういうパターンでしょう。
でも——仮に。
仮に噂の半分でも本当だとしたら。
十六歳の男の子が、複数の女の子と肉体関係を持っている。
養護教諭として——それは、看過できない。
性感染症のリスク。望まない妊娠のリスク。精神的なダメージ。
十代の性行為は——適切な知識と避妊がなければ、取り返しのつかない結果を招く。
私は医師でもある。
身体の仕組みは誰よりも知っている。ホルモンバランスの変化も、心身への影響も。
十代で複数の相手と関係を持つということは——身体的にも精神的にも、確実にリスクを背負うということ。
(あの子——結城くんは、わかっているのかしら)
今は若いから、身体が無理を通す。快楽が全てを上書きする。
でも——十年後、二十年後。人間関係が壊れた時。信頼を失った時。
「若い頃にそういうことをしていた」という過去が——確実に、足を引っ張る。
私は——結城くんの保健室での顔を思い出した。
爽やかな笑顔。人当たりのいい態度。「先生、ちょっと相談があるんですけど」と来るたびに、自然な距離感で話す。
近すぎず、遠すぎず。でも——ほんの少しだけ、普通の生徒より近い。
あの距離感は——計算されているものなのかしら。
考えすぎかもしれない。
でも——養護教諭として、あの噂を無視するわけにはいかない。
いずれ、ちゃんと話をしなければ。教師として。大人として。
コーヒーが冷めていた。
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して、カップを洗った。
*
そして——もう一つ、気になっていることがある。
ティア。
ティアーユ・ルナティーク。
中学の頃からの付き合いの、私の唯一と言っていい親友。
天才科学者で、おっとりしていて、気が弱くて、びっくりするほど隙だらけの——あの子。
私の勧めでこの学校の生物学教師になったティア。
教師としてはまだ慣れないことだらけで、生徒に振り回されているけれど——真面目にやっているのは知っている。
でも——最近、ティアの名前まで噂に出てくる。
「ティアーユ先生と結城くんが——」
最初に聞いた時は、馬鹿馬鹿しいと思った。
ティアよ? あのティアが? 生徒と?
ありえない。
ティアは——そういう人じゃない。
でも——ティアの性格を知っているからこそ、少しだけ引っかかる。
あの子は——断れない。
「やめて」と強く言えない。
嫌なことをされても、「相手を傷つけてしまう」と思って、曖昧な態度しか取れない。
中学の頃からずっとそうだった。嫌な役割を押し付けられても笑って引き受けて、一人で泣いていた。
もし——結城くんがティアに何かしているなら。
ティアは——抵抗できない。
(……聞かなきゃ。ティアに、直接)
そう思っている。もう何日も前から。
でも——聞けない。
聞いてしまったら——答えが返ってくる。
もし「何もないわよ」と言われたら、それでいい。疑った自分が恥ずかしいだけ。
でも——もし、ティアが目を逸らしたら。
もし、あのおっとりした声が震えたら。
もし——「ごめんなさい……」と、あの子が謝ったら。
私は——どうすればいいのかしら。
親友として怒ればいい? 「何やってるの!」と叱ればいい?
それとも——教師として、管理職に報告する?
でも——そうしたら、ティアのキャリアは——。
コーヒーミルに新しい豆を入れた。
がりがりと豆を挽く音が、保健室に響いた。
挽きながら——考えていた。
ティアの顔。あの穏やかで、少し困ったような笑顔。
金色のロングヘア。甘い顔立ち。Iカップの胸。
外見だけなら——私より上かもしれない。年齢も同じ二十六歳。
でもティアには——私にある「鎧」がない。
大人の余裕という鎧。毅然とした態度という鎧。「私に触れるな」という無言の壁。
ティアは——丸腰なのよ。
あの子は、誰に対しても柔らかくて、優しくて、無防備で。
だから——狙われる。
(……ティア。あなた、大丈夫なの?)
保健室の窓から、中庭が見えた。
昼前の日差しが明るくて、生徒たちが笑い合っている。
その中に——結城リトの姿があった。
女子生徒と話している。自然な距離感。爽やかな笑顔。
私は——少しだけ、目を細めた。
あの笑顔の裏に——何があるのか。
噂通りの男なのか、それとも噂が一人歩きしているだけなのか。
わからない。
でも——教師として、いずれ向き合わなければならない。
ティアのことも——聞かなければ。
聞けないまま放置するのは——親友として、最低だ。
ドリッパーにお湯を注いだ。
コーヒーの香りが——保健室にゆっくりと広がった。
苦い香り。
朝も昼も夜も——この苦さだけが、私の味方。
私は——いい女でいたい。
自分を安売りせず、妥協せず、背筋を伸ばして生きていたい。
でも——最近、少しだけ。
この保健室が——広すぎる気がする。
白いカーテン。白い壁。白いベッド。
全部、白い。何も汚れていない。
それが——正しいことなのか、寂しいことなのか。
二十六歳の私には——まだ、わからない。