保健室のドアが開いた。
ノックもなし。がちゃ、と無遠慮に。
「先生ー、ちょっといいですか」
——その声を聞いた瞬間、鳥肌が立った。
自分でも驚いた。鳥肌? 私が?
空調の効いた保健室で?
顔を上げた。
結城リト。
ドアの枠に軽くもたれて立っている。制服のブレザーは脱いでいて、白いワイシャツの袖を肘まで捲っている。
ネクタイは少し緩めてあって、第一ボタンは外れている。鎖骨が——覗いている。
——久しぶりだ。
最後にこの子が保健室に来たのは、いつだったかしら。二週間? 三週間?
噂ばかり耳にしていたけれど、顔を合わせるのは随分と間が空いていた。
結城リトの顔を——改めて見た。
整っている。
十六歳の男の子の顔。でも——少年と青年の境目にいる、あの独特の色気がある。
輪郭が少し大人びていて、顎のラインがシャープになった気がする。前に見た時より——ほんの少しだけ。
目元が涼やかで、まつ毛が長い。唇は薄くて、口角がわずかに上がっている。
何か面白いことを知っているような——余裕のある表情。
(——なに、この子)
私は——自分の中に生まれた感覚に、少し戸惑った。
惹きつけられている。
この子の——何に? 顔? 雰囲気?
違う。もっと——根本的なもの。
色気だ。
十六歳の男の子から——色気を感じている。
濃密な、じわりと肌の表面を撫でるような——生々しい色気。
ワイシャツの隙間から覗く鎖骨。捲った袖から見える前腕の筋。首筋に光る薄い汗。
教師として一線を守ってきた二十六歳の私の中で——何かが、ぴくりと反応した。
「どうしたの、結城くん。怪我?」
声は——いつも通り出せた。穏やかで、少しだけ気だるい。養護教諭の声。
大丈夫。動揺は見せていない。
「いや、ちょっと手切っちゃって。絆創膏もらいに」
結城くんが右手を掲げた。人差し指の先に、小さな切り傷。血は——ほんの少しだけ滲んでいる。
「あら、見せて」
私は椅子から立ち上がった。
——立ち上がった瞬間、結城くんの視線が動いた。
わかる。
私は——視線の動きに敏感だ。何百回と男の視線を浴びてきた身体が、自動的に検知する。
結城くんの視線は——私の胸元に行った。
ピンクのノースリーブの胸元から覗くHカップの谷間。立ち上がった拍子に白衣がはだけて、胸が——ふるんっと揺れた。
一瞬。ほんの〇・五秒。
結城くんの視線が胸に吸い寄せられて——すぐに顔に戻った。
でも——私は見逃さなかった。
そして——もう一つ。
結城くんの瞳孔が——開いた。
暗い場所でもないのに。明るい午後の保健室で。
あの涼やかな目の中の黒い部分が——ほんの一瞬、ぐっと広がった。
(——ロックオン、ね)
私は——内心で、少し笑った。
この反応は知っている。
男が女を——「獲物」として認識した時の、あの瞳孔の反応。
無意識の身体反応。交感神経の興奮。アドレナリンの微量分泌。
医師として知っている。そして——女として、何度も見てきた。
結城リトの目が——私を「女」として見た。
(へえ……)
面白い。
ヤリチンの噂は聞いている。複数の女子生徒と噂されている、あの結城リト。
その目が——今、私を捉えている。
十六歳の少年が。二十六歳の女を。
悪い気は——しなかった。
いいえ、正直に言えば——少し、ぞくっとした。
あの目には——経験がある。
男の子が綺麗な女の人を見て「わあ綺麗だな」と思う目とは、質が違う。
「どうやって手に入れるか」を考えている目。品定めではなく——攻略を計算している目。
(この子、本当に十六歳?)
私は——薬棚に向かった。
絆創膏と消毒液を取るために。
歩く。
白衣の裾が揺れる。タイトスカートに包まれたヒップラインが——歩くたびに左右に揺れる。ストッキングのナイロン越しに、太腿の筋肉が滑らかに動いている。
ヒールの音が、こつ、こつ、と保健室に響いた。
背中に——視線を感じた。
見ている。
結城くんが——私のお尻を見ている。
わかる。あの視線の温度が、背中から腰にかけて、じわりと這うように降りている。
——ふふっ。
私は——薬棚の前で、少し考えた。
絆創膏は上の棚にある。手を伸ばせば届く。
消毒液は——下の棚。
私は——下の棚を開けるために、腰を曲げた。
わざと。
タイトスカートのお尻が——結城くんの方を向いた。
ミニスカートの裾が太腿の付け根まで上がって、ストッキングの境界線が——がっつり露出した。
素肌とナイロンの境目。腿丈ストッキングのレースの縁が、ぱつんと太腿の肉に食い込んでいる。
そしてその上——タイトスカートに包まれたヒップの丸みが、ぷりんと強調される角度。
下着を着けていないから——スカートの布地の下に、お尻の形がそのまま浮き出ている。パンティラインがない分、逆に生々しい。布一枚の向こうに、裸のお尻がある。そのことが——見ている側にじわじわと伝わる。
(——ほら。見なさい)
消毒液を取り出しながら——私は、自分の中の醜い喜びを自覚していた。
やっていることは——挑発よ。
男の視線を集めて、見せつけて、でも触れさせない。
安売りはしない。ただ——「見たいでしょう?」という無言のメッセージを送る。
なぜこんなことをしているのか。
……わからない。嘘。わかっている。
結城リトの——あの目。
あの「攻略を計算している」目に——私は、火をつけたくなった。
この子の中にある「狩猟本能」に、私という獲物をちらつかせたい。
自分が惚れる気はない。
二十六歳の養護教諭が、十六歳の生徒に本気になるなんて——ありえない。
でも——惚れさせるのは、別。
あの手練手管で何人もの女を落としてきたという少年が、私には手が届かない。
そういう構図を——作りたい。見たい。楽しみたい。
それが——いい女の遊び方でしょう?
私は消毒液と絆創膏を持って、結城くんの方に振り向いた。
結城くんは——私の目を見ていた。
お尻を見ていた視線を、私が振り向く直前に、顔に戻していた。
この切り替えの速さ。
普通の男子高校生なら——振り向いた瞬間、まだお尻を見ていて、慌てて目を逸らす。
でも結城くんは——もう、私の目を見ている。涼しい顔で。
(——やるじゃない)
「はい、座って。消毒するわね」
私はベッドの縁を指差した。結城くんが腰を下ろす。
私は——結城くんの正面に立った。
立ったまま、少し前屈みになって、結城くんの右手を取る。
この姿勢だと——私の胸元が、結城くんの目の高さに来る。
ピンクのノースリーブと白衣の隙間から——Hカップの谷間が、真正面から覗く。
下着を着けていないから、胸の柔らかい膨らみが、サラリとした布地に直接包まれていて——乳首の位置まで、うっすらとシルエットが浮いている。
わざとよ。
椅子に座って処置すればいい。横に座ればいい。
でも——私は立ったまま、前屈みで、結城くんの手を取っている。
結城くんの指を持ち上げた。人差し指。小さな切り傷。
消毒液を含ませたガーゼで、傷口を軽く拭う。
「しみる?」
「大丈夫です」
結城くんの声は——落ち着いていた。
でも——右手を持つ私の指先が、結城くんの脈に触れていた。
手首の内側。橈骨動脈。
速い。
わずかに——脈拍が速い。
(……やっぱり。平気な顔して、ドキドキしてるのね)
脈拍は嘘をつかない。
医師の私の指先は——嘘を見抜く。
「結城くん、最近保健室に来なかったけど。元気にしてた?」
世間話のトーンで聞いた。消毒を続けながら。
「はい、おかげさまで。先生も——お変わりなく」
結城くんが——私の顔を見上げた。
「っていうか——先生、前より綺麗になりました?」
——。
一瞬。
音が——消えた。
消毒液を含んだガーゼを持つ手が——ほんの一瞬だけ、止まった。
「……何を言ってるの、急に」
声は出た。でも——喉の奥に、微かな引っかかりがあった。
「いや、なんか、オーラが違うっていうか。前から綺麗だなとは思ってたんですけど——今日、なんか特に」
結城くんは——真っ直ぐに私を見ていた。
あの涼やかな目。口角がわずかに上がった唇。
お世辞じゃない——と、思ってしまった。
いや。
お世辞かもしれない。この子は——そういうことを自然に言えるタイプだ。
何人もの女を落としてきた男が、女を褒める言葉を選び抜いているだけかもしれない。
でも——「前から綺麗だなとは思ってた」。
この言葉が——刺さった。
「前から」思ってた。
今日初めて気づいたんじゃなくて——ずっと思ってた。
何回も保健室に来て、何回も私の顔を見て——ずっと、「綺麗だな」と。
(——やめなさい、涼子。こんな言葉で揺れるのは、普通の女よ)
普通の女なら——ここで、少し笑って、「ありがとう」と言って、距離が縮まる。
普通の女なら——「前から思ってた」という言葉の重みに、きゅんとする。
普通の女なら——この真っ直ぐな目に、心を開いてしまう。
でも——私は普通の女じゃない。
御門涼子は——この程度じゃ、落ちない。
……落ちない。
絶対に。
「あらあら、結城くん。女の子にそういうこと言って回ってるの? 先生、噂は聞いてるわよ?」
軽く。笑いながら。余裕のある声で。
大人の女が、少年のお世辞をあしらうトーン。
でも——心臓が、少しだけ速く打っている。
「噂は噂ですよ。先生に言ったのは——本心です」
結城くんは——表情を変えなかった。
あの少し笑ったような、余裕のある顔のまま。
本心。
十六歳の男の子が、二十六歳の女に対して——「本心」。
(……この子——本当に厄介だわ)
私は——絆創膏を結城くんの指に巻きながら、自分の鼓動を数えていた。
速い。
いつもより五拍は速い。
でも——気づかれていない。はず。
指先で結城くんの脈を測っていたように、結城くんも私の脈を測れるわけじゃない。
絆創膏を貼り終えた。
「はい、おしまい。傷は浅いから、明日には塞がるわ」
指を離す瞬間——結城くんの指が、ほんの一瞬だけ、私の手に触れた。
ぴく。
背筋に——電流のようなものが走った。
指先。
結城くんの人差し指の腹が——私の手の甲を、さらりと撫でた。
偶然? わざと?
わからない。この子の場合——どっちもあり得る。
「ありがとうございます、御門先生」
結城くんが立ち上がった。私より低い身長。でもあと数年すれば——超えるだろう。
成長期の少年の身体。細いけれど、しなやかな筋肉がワイシャツの下に透けている。
「先生——またお話しに来ていいですか」
結城くんが——微笑んだ。
その笑顔は——ずるい。
爽やかで、真っ直ぐで、裏がないように見える。
でも私は知っている。この笑顔の裏に——何がある可能性があるのか。
「ええ、いつでもどうぞ。保健室はいつでも開いてるわ」
私は——にっこりと笑い返した。
大人の余裕を——全部載せた笑顔。
結城くんがドアに向かって歩き出した。
「あ、結城くん」
呼び止めた。自分でも少し驚いた。呼び止めるつもりはなかったのに。
「はい?」
結城くんが振り向いた。
「……風邪に気をつけなさいね。最近、冷えるから」
——何を言っているの、私。
風邪? そんなことを言うために呼び止めたの?
「はい。先生も」
結城くんが小さく笑って、ドアを閉めた。
*
一人になった保健室。
私は——デスクの椅子に座り直して、両手で顔を覆った。
(……何をしてるの、涼子)
指の隙間から——誰もいない保健室が見える。
白いカーテン。白い壁。さっきまで結城くんが座っていたベッドの縁が、少しだけ凹んでいる。
胸に手を当てた。心臓が——まだ、少しだけ速い。
「前から綺麗だなとは思ってたんですけど」
あの言葉が——頭の中で、ぐるぐると回っている。
(馬鹿ね。あんな——十六歳の男の子の言葉に——)
私は——自分を叱った。
最初は余裕だった。
あの子の瞳孔が開いたのを見た時——「ロックオンされた」と気づいて、面白がっていた。
胸元を見せつけて、お尻を向けて、脈拍まで測って——全部、私の手のひらの上のつもりだった。
惚れさせて、満足する。
いい女の遊び。余裕の上の余裕。
なのに——たった一言で。
「先生、前より綺麗になりました?」
たったこれだけの言葉で——心臓が跳ねた。
悔しい。
普通の男の「綺麗ですね」なら、何も感じない。何百回と言われてきた。
でも——結城リトの「綺麗になりました?」は、少し違った。
何が違ったのか——わかりたくない。
わかったら——負けだから。
コーヒーを淹れよう。
私は立ち上がって、ミルに豆を入れた。
がりがり、と豆を挽く音が、静かな保健室に響いた。
挽きながら——思い出していた。
結城くんの指が、私の手の甲に触れた感触。あのさらりとした一瞬。
(……偶然よ。偶然に決まってる)
でも——もし、わざとだったら。
この私を——あの手口で。
(——ないわ。ないない。あの子は生徒。私は教師。それだけ)
コーヒーの香りが、保健室に広がった。
苦い匂い。落ち着く匂い。
カップに口をつけた。熱い液体が喉を焼く。
——大丈夫。
私は——御門涼子。
いい女で、強い女で、自分を安売りしない女。
十六歳の男の子の一言で揺らぐような——安い女じゃない。
そう自分に言い聞かせながら——コーヒーを飲み干した。
舌の奥に残った苦み。
それが——さっきの鼓動の残響と、少しだけ混ざった。
保健室の時計が——静かに時を刻んでいる。
午後の日差しが白いカーテンを透かして、床に長い影を作っていた。
次にあの子が保健室に来た時——私は、どんな顔をするのかしら。
余裕のある笑顔? 大人のあしらい?
それとも——。
(——やめなさい。考えすぎよ)
私はカップを洗って、デスクに戻った。
カルテの束を開く。仕事に集中する。
文字を追う。数字を確認する。
でも——文字の合間に、ちらちらと。
あの涼やかな目が。
あの真っ直ぐな声が。
「先生——またお話しに来ていいですか」
——消えない。
(……面倒な生徒ね、本当に)
私は——ため息をついた。
ため息のあと——ほんの少しだけ、口元が緩んだことに、私は気づかないふりをした。