「……何もないだろ」
あたしは——布団から半身を起こして、キャミソールの上から自分の胸をぺたぺたと触り続けた。
平坦な胸板。骨の感触。その上に薄い皮膚が一枚あるだけ。
リトが——ベッドの横で固まっている。
何も言わない。眉だけ少し寄せて、あたしの手元を見ている。
「ほら、見ろよ。あたしの胸だ。——なんにもないだろ」
「……」
リトは——何も言わなかった。
否定も、肯定もしない。ただ——見ている。
「お前さ、女いっぱいいるんだろ。御門先生も、モモも、籾岡も——みんな胸あるよな」
「……まあ」
まあ——って。
否定しないんだ。そこは。
あたしは——なぜか、その正直さに、少しだけ力が抜けた。
嘘をつかれるより——マシだった。嘘をつく動物は、あたしの一番嫌いなものだから。
「あたしは——女として、価値がないんだ」
リトが——一瞬だけ、目を細めた。
何を考えているのか、わからなかった。
眉の角度も、口元も、目の奥も——何も読めなかった。
いつもは軽薄に見えるこいつの顔が、今は——のっぺりとした仮面みたいに、何も語らない。
でも——あたしには、それを読もうとする余裕がなかった。
「モモに言われたんだ。全部。胸のこと。身体のこと。女として足りてないって——全部」
「……うん」
うん——とだけ、リトは言った。
相槌なのか、理解なのか、同情なのか——わからない。
ただ、あたしの話を——聞いている。黙って。
あたしは——キャミソールの裾を掴んだ。
「だから——見せてやるよ。あたしの胸。これがどういうもんか——お前みたいなのに見せれば、はっきりするだろ」
リトが——何か言いかけた。口が少し開いた。
でも——閉じた。
あたしは——キャミソールを、一息にまくり上げた。
頭の上まで引っ張り上げて、脱いだ。
くしゃっと丸まったキャミソールが、ベッドの上に落ちた。
リトの目の前に——あたしの裸の上半身が、晒された。
肋骨が薄く浮いた、細い胴体。
鎖骨が尖って影を作っている。
そして——胸。
何もなかった。
膨らみは——なかった。
モモのような丸みも、姉上のような柔らかさも、コテ川のような張りも。何一つ。
白い皮膚の上に、肋骨のラインがうっすらと透けて、その上に——乳首だけが、ちょこんと乗っている。
薄いピンク色の、小さな突起。それだけ。
それが——あたしの胸の全部だった。
リトが——息を呑んだのが聞こえた。
視線が、あたしの胸に落ちて——止まった。
止まったまま——動かない。
何を見ているんだろう。何もないのに。
見るものなんか、ないのに。
こいつが今まで見てきた胸は——御門先生のHカップとか、姉上のGカップとか、そういうやつだ。
そんなものを見慣れた目に——あたしのこれは、どう映ってるんだろう。
胸——じゃない。肋骨だ。肋骨に乳首がくっついてるだけの、ただの板だ。
「……っ」
恥ずかしかった。
恥ずかしくないわけがなかった。
心臓がどくどくと暴れて、耳の奥までその音が響いている。
顔が——熱い。首筋まで赤くなっているのが、自分でもわかった。
耳たぶまで——じんじんと熱を持っている。
裸の肌が、部屋の空気に触れるたびに——鳥肌が立った。
寒いんじゃない。見られている——という事実が、皮膚を粟立たせている。
両手が、反射的に胸を隠そうとする。
——でも。
あたしは——その手を、下ろした。
隠す意味がない。隠すほどのものが——ない。
手を当てたら——自分の手のひらの方が、胸より大きかった。掌で全部隠れてしまう。隠す以前に、覆い切れてしまう。それが——おかしくて、みじめだった。
「ほら」
声が——掠れた。
「見ろよ。これがあたしの胸だ」
リトは——やっぱり、何も言わなかった。
ただ——見ている。じっと。
その沈黙が——あたしには、もっと辛かった。
何か言えよ。笑えよ。ひどいって言えよ。そうすれば——あたしも、怒れるのに。
あたしは——両手で自分の胸を寄せた。
内側から、ぐっと押し合わせるように。
姉上がよくやっている仕草。モモが鏡の前でやっていたのを見たことがある。あの——谷間を作る、あの仕草。
何も——起きなかった。
肋骨の上で皮膚が少し動いただけ。
寄せる肉がないから、指と指が——胸の真ん中で、触れ合った。
指同士がぶつかっている。そこに胸があるべきなのに——指しかない。
「——谷間もない。寄せても何もない。指が当たるだけだ」
声が——笑っていた。自分でも気持ち悪いくらい、乾いた笑い声だった。
リトは——ソファに背中を預けるみたいに、ベッドの縁に腰を下ろした。
ぎし、とスプリングが軋んだ。
そして——少しだけ首を傾げて、あたしの胸を見ている。
まるで——テレビでも見てるみたいな、力の抜けた姿勢だった。
真剣なのか、興味があるのか、退屈なのか——全然、わからない。
「次——」
あたしは——自分の乳首を、人差し指と親指でつまんだ。
小さな突起が、指の腹に触れた。
ぷにっとした、柔らかい感触。それだけ。周りには何もない。膨らみの頂点に乗っているはずの乳首が——ただ平坦な胸板の上に、直接くっついている。
「乳首だけだ。あるのは——これだけ」
つまんだまま、少し引っ張った。
薄い胸の皮膚が、一緒に引っ張られる。
ぴりっ——と、小さな痛み。それだけ。
「揉んでみろって言われても——揉むものがないんだよ」
あたしは——自分の胸を揉むフリをした。
右手で、左の胸があるはずの場所を包み込む。
指が——肋骨に当たった。
ごりっ、と硬い骨の感触。その上に薄い肉があるだけで——掌に収まるも何も、掌が余る。
ぎゅっと握っても、指の間から溢れる柔らかさは——ない。
何も掴めない。骨と皮膚を掴んでいるだけ。
モモだったら——こうはならない。
モモの胸を揉んだら、ちゃんと指の間から柔らかい肉がはみ出して、ぷにっと弾力が返ってくるんだろう。
姉上だったら——もっとだ。両手でも収まりきらないくらい、溢れて、揺れて、重みがあるんだろう。
あたしには——その重みがない。揺れもしない。走っても、跳んでも——何も動かない。動くものが、なにも、ない。
「なんも——ないだろ」
声が——かすれた。
笑おうとしたのに、笑えなかった。
リトは——あたしの手の動きを、目で追っていた。
あたしが自分の胸を揉むのを。つまむのを。寄せるのを。
ずっと——無言で、見ていた。
瞬きの回数すら、少ない気がした。
何を考えてるんだろう、こいつ。
でも——そんなことを考える余裕は、あたしにはなかった。
自分の胸を自分で晒して、自分で触って、自分で貶している——その作業に、あたしの全部が使われていた。
「あたしは——赤ちゃんができても、母乳が出ないかもしれない」
声が——自分でもびっくりするくらい、静かだった。
「こんな胸じゃ——出ないだろ。乳腺とか、そういうの——あるわけないじゃん、こんなぺたんこに」
「……」
リトは——黙ったまま、ほんの少しだけ、頷いた。
聞いている——ということだけは、わかった。
「子供を産んでも——おっぱいあげられない母親って、なんだよ。哺乳瓶か? ずっと哺乳瓶で育てるのか? 赤ちゃんがおっぱい探して泣いてるのに——あげられないんだよ、あたしは。ここに——何もないから」
自分の胸を——指先で、とん、と突いた。
小さな音もしなかった。
突いた指の先に、ただ肋骨の硬さが返ってきただけ。
あたしは——デビルーク星にいた頃のことを、思い出していた。
王宮の庭には動物がたくさんいて、子供を産んだ獣は——当たり前みたいにおっぱいをあげていた。
赤ちゃんが母親の腹に潜り込んで、乳首を探して、見つけて、ちゅうちゅう吸って——母親は目を細めて、気持ちよさそうにしていた。
あたしは、それを見るのが好きだった。
いつか自分もああなりたいと——思ったことがある。ぼんやりと。
でも——あたしの胸は、あの母親たちとは違う。
何もない。中身がない。
容れ物が——最初から、空なんだ。
「……女として——生きてる意味、あるのかな」
その言葉が口から出た瞬間——あたしは自分でも、とうとうここまで来たんだな、と思った。
リトは——なんにも言わなかった。
あたしの裸の胸を見て、あたしの自虐を全部聞いて、あたしが泣きそうな顔で笑っているのを見て——ただ、そこにいた。
慰めもしない。否定もしない。同情もしない。
何を考えているのか——本当に、一ミリもわからなかった。
この男は——あたしの言葉を聞いているのか、流しているのか。
あたしの胸を見て、可哀想だと思っているのか、何も感じていないのか。
——わからない。
でも——あたしには、そんなことを考える余裕なんか、なかった。
長い——沈黙があった。
あたしは裸のまま座って、リトはベッドの縁に腰かけたまま、あたしの胸を見ていて。
部屋の中には——あたしの呼吸の音と、窓の外の鳥の声しかなかった。
「——なあ、ナナ」
リトが——ようやく、口を開いた。
声が——軽かった。
あたしが今まで延々と吐き出した自虐と苦しみの重さに比べて——リトの声は、びっくりするくらい、軽かった。
まるで「今日の晩飯なに?」くらいの温度で、リトは言った。
「じゃあさ——お前の身体、好きにしていいか?」
空気が——止まった。
好きにしていい。
好きにしていいか——と。
あたしが——泣きながら自分の身体を全否定して、母乳も出ないかもしれないって、女として生きる意味があるのかって——そこまで全部吐き出した後に。
こいつは——その全部を聞いた上で——「じゃあさ」って。
「じゃあさ」——って。
なんだよ、その軽さ。なんだよ、その——なんでもないみたいな声。
あたしの苦しみとか、全部聞こえてたのかよ。聞こえてた上で——その反応なのかよ。
頭の中が——ぐるぐると回った。
怒るべきだ。ぶっ飛ばすべきだ。「ふざけんな」って叫んで、枕を投げつけて、部屋から叩き出すべきだ。
でも——あたしの中の、怒る場所は——もう、空っぽだった。
モモが——全部、壊していった。
あたしのプライドも。自尊心も。「あたしは女だ」って思える何もかもを。全部、全部。
だから——リトの、あの軽い声が、あたしの空っぽの中に——ぽとん、と落ちてきた。
他に何もないから——その声だけが、底に当たって、小さく響いた。
好きにしていいか、と。
この——何もない身体を。
あたしは——自分の胸に、もう一度目を落とした。
何もない、平坦な胸。乳首だけが、薄いピンク色で——冷たい空気に晒されて、少しだけ硬くなっていた。
この胸を——「好きにしたい」と言う人間が、いるのか。
こんな——何もない身体を。
(——どうでもいい)
そう思った。
自暴自棄だった。わかっている。
冷静なあたしなら、こいつをぶっ飛ばして、部屋から叩き出して、二度と入ってくるなと叫んでいた。
でも——冷静なあたしは、昨日モモに殺された。
今ここにいるのは——空っぽのあたしだ。
プライドも、警戒心も、自尊心も、全部モモに剥がされた後の——裸のあたし。
「……いいよ」
声が——出た。自分の口から。
「好きにしろよ」
リトの顔が——ほんの一瞬、何かが動いた。
口角なのか、目尻なのか——わからない。あたしには読めなかった。
読める状態じゃなかった。
「……マジで?」
リトの声が——さっきと同じ軽さのまま、確認するみたいに聞いてきた。
「マジだよ。——どうせ、何もないんだから。好きにしたって——何も変わんないだろ」
あたしは——膝を抱えていた腕を、ゆっくり解いた。
裸の上半身が——リトの前に、無防備に晒される。
小さな肩。薄い鎖骨。肋骨の浮いた胴体。そして——何もない胸。乳首だけの、あたしの胸。
「ほら。——好きにしろよ。ヤリチン」
声は——強がりだった。
強がりだとわかっていた。
身体が——震えていた。
寒さじゃない。恐怖でもない。
あたしの中の——最後の、最後の一枚が剥がれようとしている、その震え。
でも——もう、止まれなかった。
自分を守る理由が——もう、見つからなかった。