夜の結城家は、静かだ。
リビングのソファに座ったモモは、膝の上に開いた植物図鑑のページを眺めていた。
地球の植物は面白い。光合成の仕組みはデビルーク星のそれとほぼ同じなのに、花弁の色彩パターンがまるで違う。
──だが、今のモモの目は活字を追っていない。
視界の端で、リトさんが動いている。
キッチンで麦茶を注ぐ姿。
グラスを傾ける角度。喉仏が動いて、ひとくち飲み込む。
シャツの襟元から覗く鎖骨のライン。
何気ない所作のひとつひとつを、モモの目は拾ってしまう。
(……観察しているだけ)
そう、これは観察だ。
警戒対象の行動パターンを把握しているだけ。
デビルーク王女として当然の危機管理。
あの日──お姉様とリトさんの情事を目撃した日から、モモの中の警報レベルは一段上がっている。
お姉様の尻尾が、リトさんの腕にきつく巻きついていた。
あの光景が、目を閉じると瞼の裏に蘇る。
モモは図鑑のページを強く捲った。
紙の端で指を切りそうなほど乱暴に。
リトさんがリビングに戻ってきた。
グラスをもうひとつ持っている。
麦茶が入った、透明なグラス。
結露が表面に細かな水滴を作っていて、蛍光灯の下でちいさく光っている。
「モモ、喉渇いてない?」
差し出されたグラスを、モモは見つめた。
水滴がリトさんの指を伝って、手首の内側に落ちていく。
「ありがとうございます、リトさん」
受け取る。
指が触れないように、グラスの下の方を掴んだ。
この距離すら計算している自分が──少し、嫌になる。
リトさんがソファの反対側に座った。
クッションひとつ分の距離。
テレビのリモコンを手に取って、チャンネルを変える。
バラエティ番組の笑い声が、リビングに流れ込んだ。
ナナは自分の部屋に引っ込んでいる。動物の動画を見ているのだろう。
美柑さんはお風呂。
お姉様は──もう寝た。
二人きりだ。
モモは麦茶を一口飲んだ。
冷たい液体が喉を通る感覚に意識を集中する。
温度。味。嚥下の感覚。
それだけに集中していれば、隣にいるリトさんの体温を意識しなくて済む。
「最近さ」
リトさんが、テレビの画面を見たまま言った。
「モモ、なんか距離取ってない?」
麦茶が、気管に入りかけた。
むせそうになるのを、腹筋で堪える。
「……距離、ですか?」
声は揺れなかった。完璧に制御した。
「うん。前はもっと近くにいた気がするんだけど」
リトさんの横顔をちらりと見る。
テレビの青白い光が頬を照らしている。
表情は変わらない。世間話でもするように、軽い口調。
──だが、モモの中の警報が鳴っている。
(……来る)
この男は、今、意図的にこの話題を振っている。
軽い口調はカモフラージュだ。
獲物との距離を測っている──狩人の目。
「そうでしょうか? わたくし、別にいつも通りですわ」
微笑む。完璧なお嬢様スマイル。目元に力を入れて、口角を上げて。
猫をかぶることに関して、モモに勝てる者はこの学園にはいない。
「そう?」
リトさんが、ちらりとこちらを見た。
一瞬だけ。すぐにテレビに視線を戻した。
その一瞬で、モモの全身に鳥肌が立った。
あの目だ。
お姉様を組み敷いていた時の──あの、余裕のある目。
女の反応を見て、次の手を選ぶ目。
「じゃあ、気のせいか」
リトさんはそう言って、麦茶を飲んだ。
喉仏が上下する。
モモは図鑑に目を落とした。
ヒマワリの断面図が載っている。花弁の配列はフィボナッチ数列に従う。
そんな情報が頭に入るわけがない。
沈黙が、十秒ほど続いた。
テレビの中で芸人が転んで、スタジオが笑っている。
その笑い声が、リビングの空気をかろうじて繋ぎ止めていた。
「──そういえばさ」
リトさんが、再び口を開いた。
今度は、テレビのリモコンを置いて。
身体をほんの僅かに、モモの方に向けて。
「モモって前、俺のベッドに潜り込んできてたよな」
心臓が、跳ねた。
モモの指が、図鑑のページを掴んだまま硬直した。
思考が一瞬だけ、完全に停止する。
──そうだ。
地球に来たばかりの頃。
モモは夜な夜な、リトさんの部屋に忍び込んでいた。
布団の中に潜り込んで、リトさんの体温を感じて、寝息を聞いて。
あれは──モモの方からのアプローチだった。
好意を隠す気もなく、むしろ積極的に距離を詰めようとしていた。
今とは、正反対に。
「最近は来ないから、ちょっと気になってさ」
リトさんの声に棘はない。
むしろ、寂しそうですらある。
──いや、寂しそうに聞こえるように喋っている。
演技か本音か、モモには判別できない。
それが怖い。
「あれは……その……」
言葉が出ない。
モモ・ベリア・デビルークが、言葉に詰まっている。
猫かぶりの天才が、仮面の下で動揺している。
「お姉様に怒られまして」
嘘だ。
お姉様はそんなことで怒らない。
むしろ「モモもリトと一緒に寝ればいいのに!」と天然発言をするのがお姉様だ。
「ララが? あいつそういうの気にしないだろ」
──見抜かれた。
当然だ。お姉様の性格を、リトさんが知らないはずがない。
「い、いえ、怒られたというか……ナナに見つかって大変なことになりまして。ナナがすごく怒って、それ以来入りづらくなってしまって」
早口になっている。
自分でも分かる。
嘘を重ねている。しかもどんどん綻びが生じている。
リトさんは、ふぅん、と相槌を打った。
否定も肯定もしない。
ただ──少しだけ、唇の端が持ち上がった気がした。
「でもナナ、最近早く寝るじゃん。この時間もう部屋にいるし」
詰められている。
モモの背中に、冷たい汗が一筋流れた。
エプロンはもう外している。Tシャツの下の背中を、汗が伝っていく。
「それは……」
「嫌だったら別にいいんだけど」
リトさんが、あっさり引いた。
テレビに視線を戻す。
肩の力が抜けた、自然な姿勢。
──これが、この男のやり方だ。
追い詰めて、追い詰めて、そして引く。
こちらに「追いかけさせる」ための引き。
押されている間は壁を作れる。
だが引かれると──空白が生まれる。
その空白を、こちらが埋めたくなってしまう。
モモは唇を噛んだ。
図鑑のページが、汗ばんだ指でふやけ始めていた。
「嫌じゃ……ありませんわ」
──なぜ。
なぜ今、そんなことを言った。
言わなくてよかった。黙っていればよかった。
引かれた空白を、自分から埋めに行ってしまった。
リトさんが、ちらりとこちらを見た。
その目が──ほんの一瞬だけ、笑った。
「そっか」
それだけ。
それだけ言って、リトさんは立ち上がった。
空になったグラスを持って、キッチンに向かう。
「おやすみ、モモ」
背中を向けたまま、軽く手を振った。
廊下に消えていく足音。階段を上がる音。二階のドアが閉まる音。
モモは、ソファに座ったまま動けなかった。
テレビの光が、暗いリビングを青白く照らしている。
芸人がまた転んで、スタジオが笑っている。
モモは自分のグラスを見た。
麦茶は、半分残っている。
グラスの表面の結露がテーブルに小さな水溜まりを作っている。
リトさんが渡してくれたグラス。
受け取る時、指が触れないようにした。
あの時は正しい判断だったと思った。
──なのに。
「嫌じゃありません」と言った自分がいる。
モモは両手で顔を覆った。
指の隙間から、吐息が漏れる。
(……わたしは、何をしているの)
警戒しているはずだ。
あの日から、壁を一段高くしたはずだ。
お姉様の尻尾が巻きついた──あの光景を見たから。
あの男の本質を、この目で確認したから。
なのに、たった一言「最近来ないから気になってる」と言われただけで。
モモの尻尾が、Tシャツの裾の下で──きゅっと丸まっていた。
不安なのか。
嬉しいのか。
怖いのか。
モモ自身にも分からない。
分からないことが──一番、怖かった。
テレビを消した。
リモコンを置く。暗闇が、リビングを満たす。
窓の外の街灯だけが、カーテン越しにぼんやりとした輪郭を作っている。
ソファから立ち上がった。
グラスを流しに持っていく。
リトさんのグラスが、シンクの中に既に置いてあった。
モモのグラスを、その隣に並べる。
二つのグラスが、ステンレスの上で触れ合って、ちん、と小さな音を立てた。
モモは階段を上がった。
二階の廊下。
リトさんの部屋の前を通る。
ドアは閉まっている。
先日のように隙間は開いていない。
中からは何の音も聞こえない。
モモの足が、一瞬だけ止まった。
右手が──無意識に、ドアノブの方に伸びかけた。
(──ダメ)
自分の手首を、左手で掴んだ。
強く。爪が肌に食い込むほど。
行ってはいけない。
あの部屋に入ったら、もう戻れない。
自分がどうなるか──お姉様を見て、知っている。
モモは手を引いた。
自分の部屋のドアを開けて、中に入って、背中でドアを閉めた。
暗い部屋。
ベッドに倒れ込む。
シーツの冷たさが、火照った頬に気持ちいい。
天井を見つめた。
白い天井。暗くて、ほとんど見えない。
リトさんの声が、頭の中でリフレインする。
「最近は来ないから、ちょっと気になってさ」
あの声の温度。
寂しそうな──寂しそうに作られた、あの声。
(気にしてくれているの?)
──違う、と首を振る。
(あれは、わたしを引き込むための罠)
分かっている。
分析できている。
メカニズムは理解している。
それなのに。
モモは枕に顔を埋めた。
自分の呼吸が、枕カバーで跳ね返って、温かく顔にかかる。
自分の匂い。
自分の体温。
──この枕は、リトさんの匂いがしない。
あの頃、リトさんの枕に潜り込んだ時は——。
(考えるのをやめなさい、モモ・ベリア・デビルーク)
モモは寝返りを打った。
壁の方を向く。
目を閉じる。
尻尾が、シーツの下で所在なく揺れていた。
眠れない夜が、また一つ増えた。
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