朝の校門は——不快だった。
風紀委員の朝の巡回。毎週月曜日は校門前の清掃と、登校する生徒の服装チェック。
私——古手川唯の、日課のひとつ。
ゴミ拾い用のトングで——花壇の脇に落ちているペットボトルを拾い上げる。
缶コーヒーの空き缶。菓子パンの袋。タバコの吸殻——これは近隣の大人のものだろう。
まったく……公共の場を何だと思っているのかしら。
ゴミ袋に次々と放り込んでいく。
朝日がアスファルトを照らして、四月の空気が少しだけ温い。
花壇の裏側に——何かが落ちていた。
薄い冊子。カラー印刷の表紙。
風で飛んできたのか、誰かが隠すように捨てたのか——花壇のブロックとフェンスの隙間に挟まっている。
トングで引っ張り出した。
——表紙が目に入った。
女の子と、男。制服。タイトルが——。
『お兄ちゃんのお仕置き ~妹は今日もおしおき中~』
「——っ⁉」
エロ漫画だった。
しかも——兄と妹の——。
表紙の女の子は——セーラー服の裾をたくし上げられて、涙目で頬を赤らめている。男——兄役——は、妹の腰に腕を回して、もう片方の手で——お尻を。
「は、破廉恥なっ……!」
顔が——かあっと熱くなった。
こんなものを——学校の校門前に捨てるなんて! いったいどういう神経をしているのかしら!
トングで冊子の端を摘みながら——ゴミ袋に入れようとした。
でも——手が、止まった。
表紙の絵が——目に焼き付いている。
兄に腰を掴まれた妹。お尻を突き出した体勢。涙を浮かべた大きな瞳。
(こんな……こんなの、現実にあるわけないじゃない……)
兄が——妹に——こんなことを——。
ぱらっ——と。
風が——ページをめくった。
風のせいだ。私がめくったんじゃない。風が——勝手に——。
見開きのページ。兄が妹を膝の上に乗せて——スカートをめくって——お尻を、平手で叩いている。
「ん゛っ……お兄ちゃん、やめてぇ……♡」
——というセリフが、吹き出しの中に。
「だめだ。お前が悪いことしたんだから、お仕置きだ」
兄のセリフ。低い声。有無を言わさない——。
(これは——証拠品として、内容を確認しているだけよ……! 風紀委員として、どの程度の猥褻物かを把握しておく必要が……!)
自分への言い訳が——苦しすぎた。
次のページ。妹が——ロープで手首を後ろで縛られて、ベッドの上に這いつくばっている。お尻を突き上げた格好で——兄が後ろに立っている。
「お兄ちゃんの言うこと聞けない子は——こうだぞ」
ぱしんっ——と。お尻を叩く擬音。
「ひゃあっ♡ ごめんなさい、お兄ちゃぁん♡」
——ぱたん。
冊子を——閉じた。
顔が——耳まで真っ赤だった。心臓が——ばくばく鳴っている。
(何を読んでるの、私は——! 早く捨てなさい——!)
ゴミ袋に——乱暴に押し込んだ。冊子がくしゃっと折れ曲がる。
はぁ、と息を吐いた。
まったく——朝から、とんでもないものを拾ってしまった。
こういうものが校門前に落ちているということ自体が、この学校の風紀の乱れを象徴している。
風紀委員として——断固として——。
「あの、おはようございます」
「——っ⁉」
声をかけられて——肩が跳ねた。
振り向くと——小学生の女の子が、ランドセルを背負って立っていた。
茶色いロングストレートの髪。大きめの丸い目。小さな体に、しっかりとした佇まい。
結城美柑——だった。
結城くんの——妹。
「あ——結城……美柑ちゃん?」
「はい。いつも兄がお世話になっています」
ぺこり——と、礼儀正しくお辞儀をした。
その所作が——小学五年生とは思えないくらい、きちんとしていた。
背筋がまっすぐで——頭の下げ方が丁寧で——目を合わせて話す。
(いい妹ね……)
素直にそう思った。
結城くんの家庭環境は——両親が海外にいて、兄妹二人暮らしだと聞いたことがある。
この子が——家事をしているのだろう。買い物袋を持って歩いているのを見かけたこともある。
妹として——しっかりしている。ちゃんとした子だ。
「ここ、お兄さんの学校よね? 何か用事?」
「いえ、通り道なので。いつもこの道を通って小学校に行くんです」
「そう。気をつけてね」
「はい。古手川さんも——お掃除、お疲れ様です」
にこっ——と、笑った。
小さな顔に——無邪気な笑顔。
(可愛い子ね。結城くんには——もったいないくらい……)
——結城くん。
その名前が——頭に浮かんだ瞬間。
——兄と妹。
さっきの——エロ漫画の内容が、脳裏にフラッシュバックした。
兄が——妹を——膝の上に乗せて——お尻を叩いて——縛って——お仕置き——。
(——っ⁉)
頭を——ぶんぶんと振った。
違う。違う違う違う。
何を考えているの——私は。
目の前にいるのは——結城くんの実の妹。小学五年生の——子供。
さっきのエロ漫画のシチュエーションなんて——現実に当てはめること自体が——破廉恥の極みだわ。
でも——振り払おうとすればするほど——映像が浮かぶ。
結城くんが——あの涼しい顔で。
「美柑、お前が悪いことしたから——お仕置きだ」
——なんて言って。
違う——違うわ——。
映像が——勝手に、主語を変えた。
妹——が。
私——に。
「お兄ちゃん——やめてください——」
——私の声で。
結城くんが——椅子に座っていて。私が——その膝の上に。うつ伏せで——スカートをめくられて——白い下着が露出して——。
「古手川。お前——いつも偉そうに風紀風紀って言ってるけど」
結城くんの声が——低くて——。
「本当は——こうされたいんだろ?」
ぱしんっ。
お尻を——平手で叩かれる。
「ひゃっ……! やめ——結城くん——っ」
お兄ちゃん——と、呼びたくなる。
なぜ——? なぜ「お兄ちゃん」?
「お兄ちゃんって呼べ」
「そ、そんな——破廉恥な——」
「呼ばないと——もっとやるぞ」
ぱしんっ。ぱしんっ。
お尻が——熱くなる。掌の跡が——白い肌に赤く浮かぶ。
「っ——お……お兄——ちゃ——」
手首を——後ろで縛られて。ロープが——手首の皮膚に食い込んで——動けない。
膝の上でもがいても——結城くんの腕が、腰をがっしり押さえていて——。
「よく言えたな。ご褒美だ」
結城くんの手が——叩いた場所を、そっと撫でる。
熱くなったお尻の皮膚を——大きな掌で、くるくると。
じんじんする——熱いお尻を、撫でられる。痛かったはずなのに——撫でられると——。
「——っ❤」
気持ち——。
「古手川さん?」
「——っ⁉⁉⁉」
現実に——引き戻された。
美柑ちゃんが——私の顔を、不思議そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 顔、すごく赤いですけど——」
「だっ——大丈夫! 大丈夫よ! 朝日が——眩しくて——!」
何を——何を考えていたの——私は——!
結城くんの妹の目の前で——結城くんに「お兄ちゃん」と呼ばされてお尻を叩かれる妄想を——!
(美柑ちゃんに——失礼すぎる——!)
この子は——結城くんの大切な妹なのに。
こんな——こんな破廉恥なことを——この子の兄で想像するなんて——。
頭を——もう一度、ぶんぶんと振った。
「本当に大丈夫ですか? 何か飲み物——」
「大丈夫! 大丈夫だから——ありがとう、美柑ちゃん。学校遅れるわよ? 早く行きなさい」
「はい。じゃあ——行ってきます!」
美柑ちゃんが——もう一度ぺこりとお辞儀して、くるっと振り返った。
ランドセルを揺らしながら——歩道を歩いていく。
その後ろ姿を——見送った。
小さな身体。でも——背筋がぴんと伸びていて。歩き方がしっかりしている。
足取りが——どこか弾んでいるように見えた。朝から——機嫌がいいのだろうか。
ランドセルのカバーは手入れが行き届いていて——靴も綺麗。
(しっかりした子ね……本当に)
感心した。
あの年で——兄と二人暮らしで家事をこなして、礼儀正しくて、笑顔が明るくて。
結城くんの妹——だけど。
結城くんとは——全然違う。
結城くんは——ヤリチンで。女癖が悪くて。あちこちの女の子に手を出して。
でも——この美柑ちゃんは、ちゃんとしている。兄がああでも——妹はまともに育っている。
(流石に——妹には手を出さないでしょう……結城くんも)
実の妹——だもの。いくらあの男でも。
いくらヤリチンでも——妹だけは、聖域のはずだ。
美柑ちゃんの後ろ姿が——信号のところで止まった。
赤信号を——ちゃんと待っている。偉い。
後ろ姿。
小さな背中。華奢な肩。細い足。
——お尻。
ショートパンツから伸びる白い太ももの上——丸い、小さなお尻。
小学生の身体は——まだ薄くて、凹凸が少なくて。でも——お尻だけは、ちゃんと丸みがあった。
ショートパンツの布地が——その小さな丸みを、きゅっと包んでいる。
形のいい——お尻。
(——ちょっと待って)
なぜ——私は今——小学生の女の子のお尻を凝視しているの——?
また——映像が浮かんだ。
結城くんの手が——あの大きな手が。
美柑ちゃんの——あの小さくて丸いお尻を。
撫でている。
くるくると——掌で。
ショートパンツの上から——丸みをなぞるように。指先が——布地の縁に引っかかって——少しだけめくれて——。
「やだ——リト——くすぐったい——」
美柑ちゃんが——困ったように笑って。でも——逃げない。
結城くんが——もう片方の手で、美柑ちゃんの頭を撫でながら——お尻をくにくにと——。
「美柑のお尻——形いいな」
「もう——リトのバカ——」
——嬉しそうに。
(——やめなさい——! 私——!)
頭を——三度目の、ぶんぶん。
何を考えているの——何を——!
結城くんが——実の妹のお尻を——そんなこと——あるわけないじゃない——!
美柑ちゃんは——ちゃんとした子だ。
結城くんだって——妹に対しては、ちゃんとしたお兄さんのはず——。
(そうよ。そうに決まっているわ)
信号が青に変わって——美柑ちゃんが歩き出した。
ランドセルが——朝日に反射して光っている。
小さな後ろ姿が——どんどん小さくなっていく。
あの形のいい——小さなお尻も。
「…………」
ゴミ袋の中の——くしゃっと丸まったエロ漫画が、視界の端に映った。
『お兄ちゃんのお仕置き ~妹は今日もおしおき中~』
(あの漫画のせいだわ——全部——あの破廉恥な漫画のせい——!)
ゴミ袋の口を——ぎゅっと縛った。
私は——風紀委員。
こんな破廉恥な想像をする人間では——ない。
結城くんにお尻を叩かれたいなんて——思っていない。
「お兄ちゃん」と呼びたいなんて——思っていない。
結城くんの手が美柑ちゃんのお尻を撫でる映像なんて——想像していない。
全部——あの漫画のせい。
トングを握り直して——清掃を再開した。
空き缶を拾う。ゴミを拾う。煙草の吸い殻を拾う。
黙々と——手を動かす。
でも——頭の中では。
結城くんの——あの低い声が。
「お兄ちゃんって呼べ」
——消えてくれなかった。
*
校門前の清掃を続けていると──校門の向こう側から、一人の生徒が歩いてきた。
金色の長い髪。ワインレッドの瞳。無表情──というより、感情を消しているような顔。
校門をくぐる足取りに、迷いがない。
ヤミさん──だった。
金色の闇──と呼ばれている、転入生。
普段から学園内でも浮いた存在で、誰かと親しくしているところを見たことがない。
以前は──黒いボンテージのような、肌の露出が多い衣装を身につけていた。
超ミニスカートに、身体のラインがはっきり出る黒い布──あれは衣服と呼んでいいのかすら怪しかった。
風紀委員として何度注意しようかと思ったか知れない。
でも──今は、ちゃんと制服を着ている。
スカート丈はやや短めだけれど、以前のボンテージ姿と比べれば天と地の差だ。
ブレザーのボタンもきちんと留めていて──形式的には、問題ない。
(制服を着る気になったのかしら……)
少し──意外だった。
あの子が学校のルールに合わせるなんて。
「──おはよう、ヤミさん」
声をかけた。
風紀委員として──というより、なんとなく。
制服をちゃんと着ているのを見て、少しだけ好感を持ったから。
ヤミさんが──足を止めた。
ワインレッドの目が──こちらを見る。ジト目。表情は──ない。
「……ええ」
それだけだった。
「制服、ちゃんと着てるのね。前の服よりずっといいわ」
「……まあ」
視線が──もう私から外れている。
校舎の方を見ている。もう歩き出しそうな──そういう空気。
「あの──最近、学校には慣れた? 困ったことがあったら、風紀委員に相談してくれてもいいのよ?」
「……必要ありません」
静かだった。
拒絶──というほど強くはない。でも、会話を続ける意思が──まったく感じられない。
壁のように平坦な声が、朝の空気に溶けて消える。
ヤミさんは──もう歩き出していた。
金色の長い髪が、背中で揺れている。
小柄な身体──だけど、歩き方に隙がない。重心が低くて、足音がほとんどしない。
あっという間に──校舎の中に消えてしまった。
「…………」
トングを持ったまま──立ち尽くした。
(相変わらず……とっつきにくい子ね)
嫌われているのか、人付き合いが苦手なのか──判断がつかない。
でも、悪い子ではないと思う。制服をちゃんと着ているし、遅刻もしない。授業態度も問題ないと聞いている。
ただ──誰とも距離を詰めない。
金色の闇──ヤミさん。
転入してきた時から、妙な噂がつきまとっている子だった。
宇宙一の暗殺者──だとか。
本当かどうかなんて──わからない。
この学校には宇宙人の生徒が何人かいるから、荒唐無稽な話とも言い切れないけれど。
暗殺者なんて──映画じゃあるまいし。
でも──さっきの歩き方。
あれは普通の女子高生の身のこなしではなかった。
足音を殺して歩く。視線を向けずに周囲を把握している。校舎に入る直前──一瞬だけ、背後を確認していた。
あれは──訓練された動きだ。
(もし……本当に暗殺者だったとしたら)
強いのだろう。
あの無表情の下に──どれほどの力が隠れているのか。
髪を変形させて武器にするという噂もある。嘘みたいだけど──宇宙人だと言われれば、そうなのかもしれない。
ならば──結城くんに対しても、大丈夫なのではないだろうか。
あのヤリチンが──いくら手を出そうとしても。
相手が宇宙一の暗殺者なら──抵抗どころか、返り討ちにされるだろう。
(そうよね。ヤミさんなら大丈夫だわ)
むしろ──心配すべきは結城くんの方かもしれない。
もし結城くんが──ヤミさんに例のセクハラ行為を働いたら。
あの子の性格なら──黙ってはいないだろう。
「殺します」と言うのが口癖だという話も聞いたことがある。
殺す──は比喩だとしても。
例えば──結城くんが、不用意にヤミさんの身体に触れたりしたら。
あの金色の髪が──刃に変わって。
ざくっ──と。
結城くんの──。
…………。
おちんちんが──。
切り落とされる──とか。
「…………」
な、なんでそんなこと考えてるの──私は。
結城くんのおちんちんの心配なんて──していない。していないわ。
(そもそも──なんで結城くんの──そ、そこの──安否を気にしなきゃいけないのよ……!)
あいつは──ヤリチンなのだ。
女の子に手を出しまくっている、学園一の破廉恥男。
そのシンボルが切り落とされたところで──むしろ学園の風紀は守られるのではないだろうか。
切り落とされてしまえばいいのだ。
そうすれば──もう誰にも手を出せなくなる。
…………。
でも。
…………ちょっとだけ──かわいそうかもしれない。
(──かわいそう⁉ 何を言ってるの私──⁉)
トングを──ぎゅっと握り締めた。
金属が軋む音がした。
朝から──おかしい。
エロ漫画のせいだ。あの破廉恥な漫画のせいで──思考が汚染されている。
結城くんのお尻を叩きたいわけでも──叩かれたいわけでも──おちんちんの心配をしているわけでもない。
私は──風紀委員。
古手川唯。
こんなことを考える人間では──ない。
ゴミ袋を持ち直して──清掃を再開した。
空き缶。ペットボトル。紙くず。
黙々と──拾う。
頭の中を──空にする。
何も──考えない。
何も。