放課後の廊下は──騒がしい。
部活へ向かう生徒たちの足音。笑い声。誰かを呼ぶ甲高い声。
窓から差し込む西日が、リノリウムの床を橙色に染めている。
私は──その喧騒の中を、一人で歩いていた。
金色の闇──それが、私の名前。
正確には、コードネーム。暗殺者としての。
かつて私は──宇宙で最も恐れられる殺し屋だった。
トランス能力──体細胞を自在に変形させる力。髪を刃に変え、腕を鉄槌に変え、指先を針に変える。
依頼を受け、標的を殺す。それだけが──私の存在理由だった。
感情は──不要だった。
名前も──不要だった。
私は兵器であり、道具であり、それ以外の何でもなかった。
でも──今は。
彩南町という──小さな街で、暮らしている。
制服を着て、学校に通っている。
授業を受けて、チャイムが鳴ったら教室を出て、放課後になったら帰る。
たい焼き屋に寄ることもある。公園のベンチで本を読むこともある。
殺しの依頼は──もう、受けていない。
平和──というものが、どういうものなのか。
正直に言えば──まだ、よくわからない。
ただ──悪くない、とは思う。
廊下の角を曲がると──生物室の前を通りかかった。
扉が半開きになっていて、中から声が聞こえる。
「えっと……この培養液の温度なんだけど……もう少し下げた方がいいかしら……」
ティアーユの声だった。
ティアーユ・ルナティーク。
生物学教師──そして、私を造った人間。
私の身体を構成する細胞の提供者。言うなれば──母のような存在。
彼女が──御門涼子の勧誘で、この学校の教師になった。
おっとりしていて、気が弱くて、実験中に転ぶ。試験管を割る。薬品を自分にかける。
天才科学者のはずなのに──日常生活は壊滅的に不器用だ。
私は──彼女のことを、どう思っているのだろう。
恨んでいるのか。感謝しているのか。
私を生み出し──結果的に、兵器として利用される道を作った人。
でも彼女自身は──そんなつもりではなかったことも、知っている。
複雑──としか、言いようがない。
ただ──彼女がこの街にいるということは。
私がこの街にいる理由の──ひとつには、なっている。
生物室の扉の前を──足を止めずに通り過ぎた。
*
階段を降りて──下駄箱に向かう。
靴を履き替えていると──後ろから声がした。
「ヤミちゃーん!」
振り向かなくても──わかる。
黒咲芽亜。ナナの友人で──私の妹のような存在。
赤紫色のお団子ヘアが、ぴょこぴょこと揺れながら近づいてくる。
「ヤミお姉ちゃん、今日これから暇? 一緒にクレープ食べに行かない?」
「……今日は、用事があります」
「えー、つまんないー。じゃあ明日は?」
「……明日のことは、明日考えます」
「それ絶対断るやつだし!」
芽亜が──頬を膨らませた。
この子は──いつもこうだ。距離が近い。遠慮がない。
でも──嫌いではない。
「……また今度」
「ぜったいだからね! 約束!」
約束──という言葉に、少しだけ胸の奥が動いた。
暗殺者だった頃──約束という概念は、存在しなかった。
あるのは契約と、遂行と、報酬だけ。
「……ええ」
芽亜が──にぱっと笑って、ナナの方へ走っていった。
校門を出る。
四月の風が──金色の髪を揺らした。
歩きながら──考える。
この街で──私は、友人と呼べる存在を得た。
結城美柑。
結城リトの──妹。
小学生で、しっかり者で、料理が上手くて。
私にたい焼きの美味しい店を教えてくれた人。
私の過去を知っても──「ヤミちゃんはヤミちゃんだよ」と言ってくれた人。
美柑は──私にとって、唯一の親友。
彼女といると──「普通の女の子」でいられる気がする。
それが錯覚だとしても──心地よい錯覚だった。
美柑の兄──結城リト。
あの男のことを考えると──眉間に皺が寄る。
学園では──「ヤリチン」と呼ばれている。
複数の女性と関係を持っている、という噂。
どこまでが本当かは知らない。興味もない。
……興味は、ない。
ただ──あの男は、妙な気配を持っている。
私の暗殺者としての勘が──「結城リトは普通の人間ではない」と告げている。
表面上は爽やかで人当たりが良い。笑顔が自然で──誰に対しても距離の詰め方が巧い。
だが──その裏に、計算がある。
人を観察し、弱点を見抜き、そこを突く。
それは──暗殺者が標的の急所を探る行為と、構造が似ている。
(……あの男は、危険です)
美柑にも──以前、そう伝えた。
「リトは大丈夫だよ。お兄ちゃんだもん」
美柑は──笑って、そう言った。
兄を信頼している目だった。無邪気で──疑いのない目。
その目が──少し、気になった。
結城リトが──美柑に何かをするとは思わない。実の妹だ。
でも──あの男の周りにいる女性たちが、次々と「変わっていく」のを、私は見ている。
モモ・ベリア・デビルーク。最近──結城リトの近くで、以前とは違う顔をしている。
ナナも──時々、リトの話題になると落ち着かない様子になる。
あの男は──女を変える。
それが良い変化なのか悪い変化なのか──私には判断がつかない。
ただ──。
私には関係のないことだ。
えっちぃのは──嫌いです。
それが──私の、揺るがない信条。
結城リトがどれだけ女性と関係を持とうと──私には無関係。
あの男のセクハラも──次にあったら、本当に殺します。
「……殺します」
口に出してみた。
通りすがりのサラリーマンが──ぎょっとした顔でこちらを見て、早足で去っていった。
……声に出すべきではなかった。
*
校舎を出ず──そのまま、図書室に向かった。
最近──放課後の図書室に通うのが、習慣になっている。
放課後の図書室は──静かだ。
人の声が抑えられていて、紙とインクの匂いがして、空調が一定の温度を保っている。
暗殺者だった頃──任務と任務の間の待機時間に、本を読む習慣がついた。
活字を追うことは──思考を整理する手段であり、同時に、感情を殺す手段でもあった。
今は──少し、違う。
本を読むことが──純粋に、好きだ。
それだけのことだと思う。
図書室の扉を開けて──中に入る。
図書委員の生徒が一人、カウンターに座っているだけだった。
手前の書架を通り過ぎ、奥へ──さらに奥へ。
図書室の奥──壁際の、さらに裏手。
書架と書架の隙間を縫って──突き当たりを右に曲がる。
窓のない壁に面した一角に──古い書架が押し込められている。
普通の生徒は──まず、ここまで来ない。
寄贈書籍や廃棄待ちの本が並ぶ──図書室の死角。
蛍光灯の明かりが──ここまでは届かない。薄暗い。空気が少し埃っぽい。
この場所が──目的地だった。
書架の一番奥。壁際の棚。
背表紙に──小さく「文芸・成人向け」と手書きのラベルが貼られている。
官能小説──というカテゴリーの、本がならんでいた。
私は──この棚の存在を、一ヶ月前に偶然知った。
落とした消しゴムを追って書架の裏に回り込んだ時──この奥まった一角に迷い込んだのが始まりだった。
最初は──知らない分野の本だと思って、一冊手に取った。
表紙は地味だった。文庫本。タイトルに──「被虐」という単語があった。
開いて──読んだ。
十ページほどで──異変に気づいた。
心拍数が上がっている。呼吸が浅くなっている。
頬が──熱い。
その日は──棚に本を戻して、足早に図書館を出た。
翌日──また、来た。
同じ棚の前に──立っていた。
それから──週に三回は、ここに来ている。
えっちぃのは──嫌いです。
嫌い──なのに。
棚に並ぶ背表紙を──指先でなぞった。
一冊の文庫本を──引き抜く。
【堕ちた諜報員──囚われのエージェント・ノワール──】
スパイの女が──敵国に潜入し、正体を暴かれ、捕らえられる話。
拷問室に連れ込まれた女スパイが──敵の男たちに、衣服を剥がされ、尋問という名の──。
この本を──三回、読んだ。
最初に読んだ時──女スパイが鎖で吊るされて、背中を鞭で打たれる場面で──本を閉じた。
残酷だと思った。非道だと思った。
でも──閉じた本を、また開いた。
女スパイは──どれだけ打たれても、情報を吐かなかった。
歯を食いしばり、血を流しながら──「……殺せ」と言った。
その強さに──共感した。
暗殺者として──もし私が捕らえられたら、同じことを言うだろう。
そして──場面が、変わった。
拷問官の男が──方針を変えた。
鞭ではなく──手で。
女スパイの、震える身体を──撫で始めた。
痛みには耐えられた女が──優しさには、耐えられなかった。
声が──漏れた。
『や、やめ……っ』
その声が──紙面の上の活字なのに──耳の奥で、響いた。
──本を、棚に戻した。
もう一冊──別の本を、手に取る。
【通学路の獣──或る少女の抵抗と陥落──】
気が強くて、正義感の強い、小さな少女の話。
毎朝──通学路で、男に身体を触られる。
痴漢。
少女は──最初、怒った。叫んだ。抵抗した。
男の手を振り払い、「やめなさい!」と声を上げた。
でも──男は、毎日現れた。
同じ時間に。同じ場所で。同じ手が──少女のスカートの中に。
少女は──抵抗し続けた。一週間。二週間。一ヶ月。
でも──身体が、変わっていった。
男の指が触れると──嫌なはずなのに、身体が反応する。
「やめなさい」の声が──日に日に、小さくなっていく。
少女は──自分の変化に、怯えた。
『わたしは──おかしくなんか、なってない……!』
その一行を読んだ時──。
私の──下腹部に、熱が灯った。
本を持つ手が──かすかに、震えている。
ページをめくった。
少女が──電車の中で、男の指に犯されている。
立ったまま──吊り革を握りしめて──制服のスカートの奥に、男の手が入り込んでいる。
少女は──唇を噛んで、声を殺している。周囲の乗客は──気づかない。
『んっ……やめ……っ……やめ、なさい……っ」
声が──嫌悪ではなく、懇願に変わっている。
少女の目に──涙が浮かんでいる。
でも──腰が、逃げていない。
活字を追う目が──止まった。
身体が──熱い。
制服のスカートの下──太ももの内側を、じわりと、汗が伝っていた。
いや──汗では、ない。
もっと──奥の方から。
ショーツの布地が──湿っている。
(……これは)
生理的な反応だ。
暗殺者の身体にも──生理現象はある。体温調節の一環として、体液の分泌が──。
……違う。
こんな言い訳は──自分でも無理がある。
本に書かれている──少女が男に触られる描写を読んで。
私の身体が──反応している。
ショーツの布地が──股間に張り付いている。
歩くたびに擦れる感覚が──さっきまでは気にならなかったのに──今は、やけに──鮮明だった。
本を──片手で持ったまま。
もう片方の手が──スカートの裾に触れた。
薄暗い書架の陰。蛍光灯がちかちか明滅する奥まった通路。
人の気配は──ない。暗殺者の感覚が、半径二十メートル以内に誰もいないことを確認している。
指先が──スカートの布地を、ゆっくりと、たくし上げた。
太ももの内側に──指が触れる。
自分の肌なのに──ひやりと冷たい指先が、熱を持った肌に触れると──ぞくっとした。
指が──ショーツの縁に、触れた。
布地が──濡れている。
想像していたよりも──ずっと、湿っていた。
(……っ)
息を──止めた。
指先が──布地の上から、割れ目をなぞった。
くにっ──と、柔らかい肉が、布地越しに沈む。
ぬる──と。指の腹に、湿った感触が広がる。ショーツの薄い布地を通して──粘度のある液体が、指に伝わってくる。
「……っ」
声が──喉の奥で、引っかかった。
本の中の少女が──男の指に犯されている。
私の指が──自分の割れ目を、布地の上から、押している。
くちゅ──と、小さな音がした。
布地が──もう限界だった。指の腹に吸い付くように──ショーツの布地が陰唇の形に食い込んでいる。
その布地の上から──中指の腹で、上の方を──くりっ──と、押した。
びくっ。
腰が──跳ねた。
本を持つ手が──ぐらついた。文庫本のページが、ぱらぱらと勝手にめくれる。
(──だめ、です)
何がだめなのか──自分でも、わからない。
指を──止めた。
止めた──のに。指が──まだ、そこにある。布地の上で──動かないまま、割れ目の熱を感じている。
ショーツの布地が──指の腹に張り付いたまま。
じわり──と、新しい液体が滲んでくるのが──わかった。
もう一度だけ──指を、動かした。
くちゅっ。
陰核の膨らみを──布地越しに捉えて──くりくり──と。小さな円を描くように。
太ももが──勝手に、内側に閉じようとする。でも──指を挟み込む形になって──逆に、圧が強くなった。
ぬるっ──と、ショーツの布地が完全に濡れ透けて──指の腹に、直に肉の感触が伝わる。
「…………ん……っ」
唇の隙間から──空気が漏れた。
本の──ページ。
少女が──泣きながら、男に「もうやめて」と言っている。
でも──身体は、男の指から逃げていない。
少女の身体が──快楽を覚えてしまったことを。
少女自身が──一番、恐れている。
その恐怖が──。
私には──。
──ぴぴっ。
電子音が──静寂を裂いた。
指が──弾かれたように離れた。
携帯端末のアラーム。
画面を見た。
『17:00 美柑の家──お泊まり』
──。
美柑の家に──泊まる日だった。
先週──美柑が言っていた。
「ヤミさん、今度の水曜日うちに泊まりに来てよ! 新しいたい焼きの食べ比べしよう!」
水曜日。今日──だ。
本を──閉じた。
文庫本を──棚に戻す。背表紙を整える。指で位置を直す。
……指。
濡れた──右手の指。
中指と薬指の先が──てらてらと光っている。
粘度のある──透明な液体。
ハンカチで──指を拭いた。
白いハンカチに──小さな染みが移る。
ショーツは──まだ湿っている。歩くたびに──布地が肌に張り付く感覚がある。
でも──替えはない。このまま行くしかない。
美柑の家──結城家。
つまり──結城リトの家でもある。
あの男が──いる家に。この状態で──行く。
「…………」
ショーツが──濡れている。
官能小説を読んで──自分で触って──濡らした、ショーツを履いたまま。
結城リトの家に。
(……何も、問題ありません)
問題はある。
明らかに──ある。
でも──美柑との約束を、破るわけにはいかない。
美柑は──私の、唯一の親友だから。
書架の陰から──出た。
図書室の明かりが──まぶしい。
図書室の出口に向かって──歩く。
足取りは──いつも通り。感情を消した無表情。足音を殺した歩行。
でも──スカートの中だけが。
じんわりと──熱を持ったまま。
校舎を出ると──四月の風が、頬に当たった。
少しだけ──冷たくて、気持ちよかった。
美柑の家への道を──歩き始めた。
えっちぃのは──嫌いです。
嫌い──なのに。
棚の奥の──あの本たちが。
明日も──私を、呼んでいる気がした。