朝の食卓が──普通だった。
あまりにも──普通だった。
結城家のダイニング。味噌汁の湯気が立ち昇る。焼き鮭の匂い。白い皿に盛られた卵焼き。
美柑が──エプロンをつけて、配膳をしている。
「リト、お味噌汁おかわりいる?」
「ん、もらう」
「はいはい。──あ、ヤミさんも食べてね。卵焼き、ヤミさんの分多めにしてあるから」
「……ありがとうございます」
美柑が──笑っている。
いつもの、まっすぐな笑顔。目に隈もない。声も明るい。
昨夜──泣きながら兄に肛門を犯されていた少女と──同一人物とは思えない。
結城リトが──味噌汁を啜っている。
涼しい顔。爽やかな朝の表情。昨夜の──あの獣じみた腰の動きの片鱗すら見えない。
二人の間にある空気は──穏やかで、温かく、平凡な兄妹の朝食そのもの。
(……まるで)
まるで──何もなかったかのように。
昨夜のことが──嘘だったかのように。
私は──箸を動かしながら、二人の顔を交互に見ていた。
暗殺者の観察眼が──嘘を見破ろうとする。
でも──嘘が、見つからない。
美柑の笑顔に──影がない。
結城リトの態度に──後ろめたさがない。
「ヤミ、今日も学校だろ? 一緒に行くか?」
「……結構です。一人で行きます」
「そっか。気をつけてな」
結城リトが──にこっと笑った。
その笑顔を見た瞬間──昨夜の映像が、脳裏にフラッシュバックした。
美柑の小さなお尻を掴む大きな手。「美柑──もう一回」という低い声。びくびくと痙攣する小さな身体。
同じ手が──今、味噌汁の椀を持っている。
同じ声が──「気をつけてな」と言っている。
官能小説──だ。
図書室の奥にあった──あの棚の本。
あの中の世界に──迷い込んだような感覚。
日常と淫猥が隣り合っていて──境界線が見えない。
現実の方が──小説よりも、質が悪い。
「ヤミさん、大丈夫? 卵焼き、口に合わなかった?」
「……いえ。美味しいです」
「よかった! ヤミさんがそう言ってくれると嬉しいな」
美柑が──にぱっと笑った。
あの笑顔は──本物だ。嘘じゃない。
この温かい食卓は──美柑にとって、本当に幸せな日常なのだろう。
だからこそ──私は、何も言えない。
朝食を終えて──結城家を出た。
四月の朝の空気を吸い込んで──頭を切り替える。
考えなければならない。
昨夜見たものについて──どうするべきか。
美柑に直接聞くのは──難しい。
結城リトを問い詰めるのは──もっと難しい。
一人で抱えるには──重すぎる。
(……誰かに、相談するべきなのか)
誰に?
この街で──私に近い大人は──。
ティアーユの顔が──浮かんだ。
*
放課後。
生物室の前に──立っていた。
ティアーユ・ルナティーク。
私を造った人間。クローンの──元となる細胞の提供者。
この学校の生物学教師。
彼女との関係は──複雑だ。
母のような存在であり──罪人でもある。
私を生み出し──結果的に、兵器として利用される運命を作った人。
会うたびに──気まずい。
ティアーユも──私の顔を見ると、罪悪感で目を伏せる。
私も──彼女とどう接していいのか、わからない。
だが──今は。
その気まずさが──むしろ有利かもしれない。
性的な話題を持ち出すには──普段の会話相手よりも、こういう微妙な関係の方が──かえって切り出しやすい。
相手が動揺すれば──そこから情報を引き出せる。
暗殺者の思考──だ。
生物室のドアを──開けた。
「……失礼します」
「あ──ヤ、ヤミちゃん……!」
ティアーユが──実験台の前で振り向いた。
金色のロングヘア。緑色のクリッとした目。甘い顔立ち。
黒のスカートスーツに──白いブラウス。
そして──Iカップの胸が、ブラウスの前面をぱつんと押し広げている。ボタンの隙間から──布地が引っ張られて、微かに肌色が覗いている。
豊満──という言葉では足りない身体。
ウエスト56。ヒップ90。それでこの胸。
スカートの上からでも──お尻の丸みがはっきりとわかる。
この身体を持っていながら──私の知るティアーユは、驚くほどウブだ。
性的な話題が出ると顔を真っ赤にして「えっと……その……」と目を泳がせる。
「ティア。少し──お時間をいただけますか」
「え、ええ、もちろん……! どうしたの、珍しいわね、ヤミちゃんから来てくれるなんて……」
ティアーユの目が──潤んだ。
嬉しいのだろう。自分から距離を取っている私が──自主的に会いに来た。
罪悪感と喜びが混じった──複雑な表情。いつものティアーユだ。
「……座ってもいいですか」
「どうぞどうぞ──あ、お茶入れるわね?」
「……結構です」
「でも──」
「結構です」
「……はい」
しゅんとした顔で──ティアーユが向かい側に座った。
さて──どう切り出すか。
「……ティア。少し──聞きたいことがあります」
「何かしら? 何でも聞いて」
「……異性との──身体的な関係について」
ティアーユの目が──まん丸になった。
「え……えぇっ?」
「私は──その分野について、知識が不足しています。生物学教師として──教えていただけませんか」
嘘だ。
図書室の官能小説で──ある程度の知識はある。
だが──鎌をかけるには、無知を装う方がいい。
ティアーユが──ぱちぱちと瞬きした。
頬が赤くなっている。でも──。
「あ……そ、そうよね……ヤミちゃんも、そういうお年頃よね……」
食いついた。
予想外だった。
もっと拒絶されるか、照れて話題を逸らされるかと思っていたのに──ティアーユは、真面目な顔になった。
教師の顔──だ。子供に性教育をする──あの、責任感に満ちた表情。
「えっと……何から話せばいいかしら……身体の仕組みのことは、理科の授業で習った?」
「……一通りは」
「じゃあ……あの……男の人と女の人が、お互いを好きになって……その……スキンシップが進んでいくと……」
ティアーユが──両手の人差し指を突き合わせながら、しどろもどろに話し始めた。
「……キスをしたり……抱き合ったり……もっと……その……親密な……えっと……」
顔が──りんごのように赤い。
教師として真面目に教えようとしているのに──自分自身が恥ずかしさで死にそうになっている。
私は──質問の角度を変えた。
「ティア。男性は──女性に、力ずくで迫ることがありますか」
ティアーユの目が──一瞬、揺れた。
「ち、力ずく……?」
「はい。女性が嫌がっているのに──やめない。そういうことは──あるのでしょうか」
ティアーユが──口を開いて。閉じて。また開いた。
「それは……あの……一般論として……男の人の中には……その……」
目が──泳いでいる。
だが──泳ぎ方が、おかしい。
一般論を語ろうとしているのに──目が、自分の体験を思い出しているように見える。
「……男の人は……時々、加減が……わからなくなることがあるの……特に……その……興奮すると……」
ティアーユの声が──小さくなった。
頬が──さらに赤くなっている。でも──表情が、恐怖ではない。
どこか──熱を帯びた、甘い赤みだ。
「一般論、ですか」
「え、ええっ! 一般論よ、一般論!」
ティアーユが──あたふたと手を振った。
Iカップの胸が──その動きに合わせてぶるんと揺れる。
「あの……でもね、ヤミちゃん。もし──誰かにそういうことをされそうになったら……」
「はい」
「身体は……大事にしないと、ダメよ……? わかる?」
ティアーユが──真剣な目で、私を見つめた。
教師として──保護者として──私の身体を心配してくれている目。
「男の人は……好きな人ができると……時々、乱暴に……その……求めてくることがあるの」
声が──少しだけ、震えていた。
「例えば……その……激しく押し倒してきたり……」
ティアーユの目が──遠くを見ている。
「手首を掴んで……動けないようにしたり……」
語っている内容が──一般論から──具体的な体験に、ずれ始めている。
「髪を引っ張られたり……強い力で抑えつけられて……逃げられなくて……」
ティアーユの声が──掠れた。
頬が──真っ赤。でも──目が、潤んでいる。恐怖の涙ではない。
「あの──ティア」
「──だから! そういう時は、ちゃんと『やめて』って言わなきゃダメなの!」
ティアーユが──急に声を大きくした。
我に返ったように──教師の顔を取り繕う。
「……言えば、やめてもらえるのですか」
「…………」
沈黙が──重い。
ティアーユが──目を伏せた。
金色の長い睫毛が──震えている。
「……やめて、って……言っても……止まらない人は……」
声が──ほとんど聞こえないほど小さくなった。
「……止まらないの……結城君は……あっ」
ティアーユの目が──大きく見開かれた。
口を──両手で塞いだ。
「ちっ──違うの! 今のは──えっと──一般論として──結城君という名前は──その──」
「……結城君、と言いましたね」
「言ってない! 言ってないわ! えっと──えっと──ゆうき──有機化学の話をしてたの! 有機的なアプローチで──」
有機化学。
無理がある。明らかに──無理がある。
ティアーユが──机の下で、太腿をもじもじと擦り合わせていた。
スカートの奥で──脚が落ち着きなく動いている。
「あの──と、とにかくヤミちゃん! 身体は大事にしなきゃダメ!」
「……はい」
「それとね──もう一つ大事なことがあるの」
ティアーユが──指を一本立てて、真面目な顔をした。
教師の顔──だが、頬はまだ赤い。
「男の人が……もし……その……特殊なことを求めてきても……嫌なら嫌って言っていいのよ?」
「特殊なこと……とは」
「例えば……その……」
ティアーユの声が──また、小さくなった。
「お尻を叩かれたり……とか……」
顔が──さらに赤くなった。
「……目隠しされたり……とか……」
目が──泳いでいる。
「……言葉で……その……罵倒されたり……とか……」
声が──震えている。そして──その震えには、恐怖だけでなく──熱が、混じっている。
「ティア」
「っ──何かしら?」
「それは──嫌なことの例を挙げているのですか。それとも──」
「い、嫌なことよ! 嫌なことに決まっているでしょう!」
ティアーユが──立ち上がった。Iカップの胸がぶるんと揺れる。
「ダメよ──そういうの──ぜったいに──」
「……はい」
「特に……首を軽く絞められながら……後ろから──激しく──っ」
ティアーユの目が──どこか遠い場所を見ていた。
唇が──微かに開いて──舌先が、下唇を舐めた。
「あっ──ち、違うの! 今のは──ダメな例として──こういうことをされちゃダメってこと──!」
ティアーユが──再び座り込んだ。机に突っ伏すように──顔を腕に埋めた。
「ごめんなさい……私、何を言ってるんだろ……」
「…………」
私は──ティアーユを見ていた。
呆れている──のだと思う。
天才科学者であり、真面目な教師であるはずのこの人が──自分の性癖を生徒に暴露している。
「ダメな例」として挙げているはずの行為が──明らかに、本人の願望リストになっている。
呆れている。
でも──同時に。
胸の奥が──どくどくと、脈打っていた。
ティアーユが語った内容──手首を掴まれる、髪を引かれる、押さえつけられる、叩かれる、目隠し、罵倒、首を絞められながら後ろから──。
図書室で読んだ官能小説の──あのシーンが、蘇る。
スパイの女が拷問官に──。気の強い少女が痴漢に──。
そして──昨夜。
美柑が──「やめて」と泣きながら──結城リトに──。
全部──繋がっている。
結城リトという男を中心に──この街の女たちが──。
「……ティア」
「は、はいっ」
ティアーユが──顔を上げた。目が──うるうると潤んでいる。
「……ありがとうございました。参考になりました」
「え──参考に──って──ごめんなさい、私、ちゃんとした性教育ができなくて──」
「いえ。十分──伝わりました」
伝わった。
伝わりすぎた──かもしれない。
生物室を──出た。
廊下を歩く。放課後の校舎は静かだ。
自分の足音だけが──リノリウムの床に反響している。
頭の中が──混乱している。
美柑のこと。ティアーユのこと。結城リトのこと。
結城リトは──私の親友の兄であり。
ティアーユの──言葉の端に名前が出た男であり。
この学校で「ヤリチン」と呼ばれている男。
あの男は──何人の女を──。
(……私には、関係のないことです)
関係ない。関係ないはずだ。
えっちぃのは──嫌いです。
(……嫌い、です)
昇降口に向かった。
靴を履き替えて──校舎を出ようとした。
その時──。
「お、ヤミ。まだ学校いたのか」
心臓が──跳ねた。
声のした方を──振り向いた。
結城リトが──昇降口の柱にもたれて、立っていた。
カバンを片手に。制服のブレザーを脱いで、ワイシャツの袖を肘まで捲っている。
ネクタイは少し緩んでいて──鎖骨が覗いている。
夕日が──結城リトの横顔を照らしていた。
涼やかな目。片方だけ上がった口角。少年と青年の境目にある──あの、独特の色気。
朝の食卓では──ただの、少し軽薄な少年に見えた。
だが──夕日に照らされたこの男は。
「今朝、なんか元気なかったけど、大丈夫か?」
その声が──低い。
朝食の時の声と──同じ。
昨夜、美柑に「もう一回」と囁いた声と──同じ。
「美柑も心配してたぞ。──一緒に帰るか?」
結城リトが──にっこりと笑った。
爽やかな笑顔。裏のない──ように見える──笑顔。
その笑顔の裏に──何がある。
この男は──昨夜、何をした。
ティアーユに──何をしている。
この学校の──何人の女を──。
「…………」
声が──出なかった。
暗殺者として──数えきれない修羅場をくぐってきた。
だが──今、この男の前で──私の心臓は、制御を失ったように脈打っている。
恐怖──ではない。
怒り──でもない。
では──何なのか。
わからない。わからないことが──一番、怖い。
結城リトが──一歩、近づいた。
「ヤミ? 顔赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」
その手が──私の額に向かって伸びてきた。
「──触らないでください」
反射的に──後ろに退いた。
結城リトの手が──空気を掴んで、止まった。
「……お、おう。ごめん」
結城リトが──困ったような顔をした。
朝のバッグの時と──同じ顔だ。
無害な少年の──困惑した顔。
(……この顔の裏に──)
私は──何も言わずに、背を向けた。
校門に向かって──歩いた。
足音を殺さなかった。
暗殺者の訓練を忘れたように──がたがたと不格好な足取りで。
背中に──結城リトの視線を感じた。
あの目が──私を見ている。
昨夜、美柑を見ていた。
ティアーユを──見ていた。
そして今──私を。
(…………結城リト)
あなたは──何者ですか。
その問いに──答えは返ってこなかった。