結城リトが──目の前にいる。
昇降口。夕日。ワイシャツの袖を捲った腕。鎖骨。
「──触らないでください」
そう言って──後ろに退いた。
退いたはずなのに──目が、離せない。
結城リトの──身体を。
ワイシャツの胸元。開いた第一ボタンの隙間から覗く肌。
鎖骨の下の──薄い胸板。
捲った袖から見える前腕。適度な筋肉がついた──男の腕。
そして──。
視線が──下がった。
制服のズボン。ベルトの下。
──股間。
(っ!)
慌てて──視線を逸らした。
何を見ている。何を──見ようとしている。
昨夜の映像が──勝手に蘇る。
結城リトがズボンを下ろした時の──あの。
硬く勃起した陰茎。太い幹。張り詰めたカリ首。
美柑の小さな身体には不釣り合いなほどの──。
(やめなさい。考えるのを──やめなさい)
暗殺者の自制心で──思考を遮断した。つもりだった。
だが──目が、戻ろうとする。ズボンの前面に──。
結城リトは──何も気づいていない。
困ったような顔で──頭を掻いている。
「ヤミ、怒ってる? 俺、なんかした?」
「……していません」
嘘だ。あなたは──昨夜、とんでもないことをした。
「そっか。よかった。──帰り道、一緒に行こうぜ」
「……結構です」
「そう言うなよ。──あ、そうだ。美柑がたい焼きの新しい店がどうとか言ってたけど、知ってる?」
たい焼き──。
美柑が言っていた。抹茶カスタード。新メニュー。日曜日に一緒に行こうと──。
「……知っています」
「じゃあ寄ってこうぜ。俺も気になってたんだよ」
「…………」
断るべきだ。この男と──二人で──。
「美柑の分も買って帰ろう。あいつ、喜ぶからさ」
美柑の名前を出された。
美柑のため──という口実を──使われた。
「……わかりました」
なぜ──承諾してしまったのか。
自分でも──わからない。
*
商店街の──たい焼き屋。
「新メニュー」と書かれた手書きの看板。小さな店。焼き立ての甘い匂いが──鼻腔をくすぐる。
行列が──五人ほど。
結城リトと──並んで立っている。
「ヤミ、何にする?」
「……抹茶カスタード」
「俺もそれにしよ。美柑にはあんこだな。あいつ、あんこが一番好きだから」
美柑の好みを──知っている。当然だ。兄だから。
兄として──妹の好みを把握している。それだけのことだ。
それだけの──はずだ。
「はい、お待たせ。たい焼き三つね」
店主が──焼き立てのたい焼きを渡してくれた。
結城リトが──財布を出した。
「俺払うよ」
「自分の分は自分で払います」
「いいって。昨日泊まってくれたお礼」
「……勝手にしてください」
結城リトが──苦笑した。
たい焼きを──手に持った。温かい。
紙袋越しに──焼き立ての熱が、掌に伝わる。
一口──齧った。
抹茶カスタードが──とろりと溢れた。
甘い。ほろ苦い。クリームが──舌の上で溶ける。
「うまいな、これ」
「……悪くないです」
「ヤミ、口にクリームついてる」
「え──」
結城リトが──手を伸ばした。
「──っ!」
身構えた。暗殺者の反射で──距離を取ろうとした。
だが──結城リトの指は、私の頬に触れただけだった。
口の端についたクリームを──親指で拭った。
ぬるっ──という感触は──なかった。乾いた指先。温かい体温。
「ほら。取れた」
「…………」
心臓が──うるさい。
ただクリームを拭われただけだ。それだけのことだ。
なのに──頬が、じわっと熱くなっている。
「ヤミって無表情なのに、こういう時だけ顔赤くなるよな」
「赤くなっていません」
「めちゃくちゃ赤い」
「……殺します」
「こわっ」
結城リトが──笑った。くしゃっと、少年のような笑い方。
(……何をしているんですか、私は)
暗殺者が──たい焼きを食べている。ヤリチンと呼ばれる男と並んで。
商店街を歩きながら。夕日の中で。
滑稽だ。おかしい。ありえない。
なのに──。
足取りが──軽い。
会話のテンポが──心地よい。
こんな時間は──暗殺者の人生には、存在しなかったもの。
美柑と一緒にいる時と──少し似ている。だけど──違う。
何が違うのかは──考えたくなかった。
「じゃ、ここで。気をつけて帰れよ、ヤミ」
分かれ道に──着いた。
「……ええ」
「美柑のたい焼き、預かっとくから。冷めちゃうけど」
「……温め直せばいいでしょう」
「そうだな。──じゃあな」
結城リトが──手を振って、歩いていった。
背中を──見送った。
広い肩。少し猫背気味の歩き方。カバンを右肩に掛けて──夕日の中に消えていく。
あの背中。
昨夜──美柑の上に覆いかぶさっていた、あの背中。
同じ──背中だ。
*
帰り道を──一人で歩いた。
頭の中が──ぐちゃぐちゃだった。
ティアーユの言葉が──蘇る。
「……止まらないの……結城君は……」
ティアーユも──結城リトに。
手首を掴まれて。髪を引かれて。首を絞められながら──後ろから。
そして──美柑。
あの小さな身体が──「やめて」と泣きながら。
結城リトは──何人の女を、あの手で──。
暗殺者としての自分が──警告を発している。
あの男は危険だ。近づくべきではない。
だが──。
たい焼きの味が──まだ、舌の上に残っている。
口の端を拭われた時の──指の温度が、頬に残っている。
「ヤミって無表情なのに、こういう時だけ顔赤くなるよな」
あの──くしゃっとした笑顔。
(……何を考えているんですか)
えっちぃのは──嫌いです。
(嫌い、です)
胸が──どくどくと、脈打っていた。
帰宅した。
一人暮らしの部屋。殺風景だ。最低限の家具しかない。
制服を──脱いだ。
いつもの──黒いボンテージに着替える。
暗殺者としての戦闘服。肌に密着する黒い布地。露出が多い──と言われるが、これが一番動きやすい。
鏡の前に立った。
黒いボンテージに包まれた──自分の身体。
金色のロングヘア。葡萄酒色の目。白い肌。
暗殺者の身体──だ。
誰かに触れられるためではなく──誰かを殺すための身体。
そう──育てられた。
なのに──今。
この身体が──誰かの温度を、覚えている。
頬に触れた──結城リトの指先を。
夜が──来た。
*
深夜。
決めた。
これ以上──一人で悩んでいても、答えは出ない。
直接──結城リトに、聞く。
美柑との──あの行為について。
暗殺者は──状況が不明な時、情報を取りに行く。
待って答えが来ることは──ない。
トランス能力を──発動した。
背中の肌が──変形する。黒い布地の隙間から──金色の髪が伸びて、形を変えていく。
翼──だ。
金色の髪が編み上げられた──大きな翼が、背中に広がった。
窓を開けた。夜風が──頬を撫でる。
飛んだ。
夜空を──結城家に向かって。
彩南町の夜景が──眼下に広がっている。街灯の光。民家の灯り。夜の空気は冷たくて──身体が引き締まる。
結城家の──二階。
結城リトの部屋の窓が──見えた。
薄い光が──カーテンの隙間から漏れている。まだ起きている。
窓の前で──ホバリングした。
翼が夜風を叩く音が──静かだが、確かに響いている。
窓を──こんこん、と叩いた。
数秒の間。
カーテンが──揺れた。
結城リトの顔が──ガラス越しに見えた。
目が──まん丸に見開かれている。
「──ヤミ!?」
窓を開けた。
「な、なんで──窓から──飛んでんの!?」
「……入れてください」
「えっ──あ、うん。入って入って」
結城リトが──慌てて窓を大きく開けた。
翼を畳んで──部屋の中に滑り込んだ。
着地。靴底が──フローリングの床を踏んだ。
結城リトの部屋。
机。ベッド。漫画の本棚。十六歳の男の子の──普通の部屋。
昨夜──美柑がこの部屋で。このベッドの上で。
ベッドのシーツは──綺麗に整えられている。何の痕跡もない。
結城リトが──パジャマ姿で、私の前に立っていた。
半袖のTシャツとスウェットのズボン。
「びっくりした。どうしたんだよ、こんな時間に」
「……話があります」
「話?」
「…………」
言わなければならない。
ここまで来たのだから──言わなければ。
暗殺者の呼吸で──覚悟を決めた。
「結城リト。あなたと──美柑が、していることを──見ました」
結城リトの表情が──固まった。
笑顔が──消えた。涼やかな目が──わずかに、鋭くなった。
「…………いつ」
「泊まった夜です。美柑が──あなたの部屋に行くのを。その後の──全てを」
沈黙が──部屋に落ちた。
時計の針の音だけが──かちかちと刻んでいる。
「美柑は──小学生です。あなたの──実の妹です」
声が──震えていた。自分でも驚くほど。
「あなたが──何をしているのか、わかっていますか」
結城リトが──黙っている。
「美柑は──途中から、やめてと言っていました。止まらなかった。泣いていました。あれは──」
感情が──溢れてきた。
暗殺者の無表情が──保てない。
「返答次第では──殺します」
目が──熱い。
あなたが──私の唯一の親友にあんなことをして──。
「殺し──ます……っ」
顔が──燃えるように、赤くなっていた。
殺す、と言いながら──声が震えて──目が潤んで──暗殺者の威厳が、まるでない。
結城リトが──。
「しっ」
人差し指を唇に当てた。
「声──大きい。美柑に聞こえる」
「──っ」
はっ──とした。
確かに──隣の部屋は、美柑の部屋だ。
壁一枚向こうに──美柑が寝ている。
この会話を──美柑に聞かれたら。
美柑が──知ることになる。私が全部を見ていたことを。
「……すみません。声を──抑えます」
声量を──落とした。
小さい声で──続けた。
「……改めて聞きます。美柑と──何をしているのですか」
結城リトが──私の目を、見つめた。
あの涼やかな目。嘘のない──ように見える──目。
そして──結城リトは、答えずに。
一歩──近づいた。
「ヤミ」
「──何ですか」
「お前──美柑のこと、心配してくれてるんだな」
「…………当然です。美柑は──私の、友達ですから」
「美柑のために──こんな夜中に飛んできて、俺に殺すとまで言って。──お前、優しいな」
「──え」
優しい──?
暗殺者の──私が?
「……何を言っているんですか。私は──暗殺者です。優しい人間では──ありません」
「暗殺者とか関係ないだろ。お前は──友達を心配して、ここに来た。それって──めちゃくちゃ優しいことだよ」
「…………」
優しい。
その言葉を──生まれてから今まで──誰にも、言われたことがなかった。
兵器として──育てられた。
道具として──使われた。
暗殺者として──恐れられた。
「優しい」という形容詞は──私の辞書には──存在しなかった。
「……そんな──こと──」
声が──掠れた。
(何ですか──その言葉は)
(こんな──タイミングで──ずるい──)
質問を──していたはずだ。
問い詰めて──いたはずだ。
なのに──結城リトの一言で──全部が、崩れそうになっている。
「……礼は……言いません」
小さい声で──俯きながら。
「でも──ありがとう、ございます」
矛盾している。自分でも──わかっている。
結城リトが──また、一歩近づいた。
近い。距離が──近い。
「ヤミ」
「……何ですか」
「お前──可愛いな」
「──はぁっ?」
思わず──素の声が出た。
「泣きそうな顔で殺すとか言ったり、照れて小さい声になったり。──可愛い」
「か──可愛くないです。私は暗殺者です。殺します」
「ほら、また殺すって言ってる。可愛い」
「殺──」
結城リトの手が──私の頭に、触れた。
金色の髪の上を──大きな掌が、ゆっくりと撫でた。
さらさらと──髪の毛が、指の間を流れていく。
「っ──」
身体が──硬直した。
トランス能力が──反応しなかった。
髪は──私の武器だ。触れられたら、自動で変形して攻撃するように訓練している。
なのに──反応しない。
結城リトの手──には。
「えっちぃのは──」
「撫でてるだけだろ」
「…………」
撫でられている。頭を。髪を。
子供にするように──ゆっくりと。丁寧に。
誰にも──こんなふうに、頭を撫でられたことは──ない。
温かい。
結城リトの掌は──大きくて──温かくて──。
「──っ」
結城リトの腕が──私の肩に回った。
引き寄せられた。
結城リトの胸に──顔が、押し付けられた。
Tシャツの布地。石鹸の匂い。男の体温。
抱きしめられている──のだと、理解するまでに数秒かかった。
「──な──何を──」
「いいから。じっとしてろ」
低い声が──頭の上から降ってくる。
結城リトの心臓の音が──耳に響いている。
どくん、どくん、と──規則正しい鼓動。
私の心臓は──その倍の速さで暴れている。
暗殺者の訓練を──全部忘れている。
押し退けることも──攻撃することも──できない。
身体が──動かない。ニュルニュルされた時のように──力が入らない。
いや──違う。
力が入らないんじゃなく──力を、入れたくないのだ。
(何を──されているんですか、私は)
抱きしめられている。あの男に。ヤリチンに。
美柑を──ティアーユを──何人もの女を──。
その腕の中に──今、私がいる。
「……離して──ください」
声に──力がなかった。
「もうちょっとだけ」
結城リトの手が──背中を、ぽんぽんと叩いている。
子供をあやすように。
そして──もう一方の手が。
背中を──下に、滑っていった。
腰を越えて──お尻の上を通過して──。
スカートの──裾に、触れた。
ぺらっ──と。
黒いボンテージのスカート部分が──後ろから、捲られている。
(──っ⁉)
気づいた。気づいているのに──。
結城リトの顔が──私の頭の上にある。見えない。
何をしているのか──わからない。ような、フリをしている。
スカートが──ゆっくりと、持ち上げられている。
夜風が──太腿の裏側に、ひやりと当たった。
(やめ──てください──)
言うべきだ。言わなければ──。
でも──胸の中の鼓動が、うるさすぎて──言葉が、出てこない。
結城リトの心臓の音を──聞いている。
私の心臓の音が──重なっている。
二つの鼓動が。
抱きしめられている温かさの中で──混ざり合っている。
ドキドキが──止まらなかった。
えっちぃのは──嫌いです。
嫌い──なのに。
止まらなかった。